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【読書記録】クヌルプ

普段、ヘッセの詩集はよく読むけれども、小説は何年振りかに読んだ。もしかしたら十年振りくらいかもしれない。ヘッセの小説は『デミアン』が一番好きだ。あの長い、心の旅としか言いようのない暗く、真夜中の一番底を歩き続けるような物語には、苦悩する人達が多く現れた。この『クヌルプ』には、苦悩していると呼べるのは(いや、語られていないだけで誰でも苦悩はしているのだが)クヌルプのみかもしれない。ただ、基本的に三人称で語られるこの物語の中で、クヌルプの苦悩は彼の台詞でしか描写されることはない。故にか、最後まで読んだ時、この小説は寓話のような印象を受けた。(それはもしかしたら「神さま」が物語に現れるからかもしれない。)

ヘッセの詩の中でも、私は彼の自然の描写がとても好きなのだけれども、『クヌルプ』にはヘッセの幸福の象徴とも呼べる美しい自然の描写が多く、読んでいてそれがとても心地良かった。誰からも好ましく、愛される存在でありながら、誰とも深く付き合えず、死ぬまで流浪するしかなかったクヌルプ。みんながクヌルプに対して残念に思っていたことを、クヌルプ自身も残念に思い、恐らく誰よりも苦しんでいた。「こう言う風に生きるしかなかった」と、自分自身を、自分の人生を、受け入れることは考えるよりもずっと難しい。それには痛みと、孤独と、諦念と、ある種の死が伴う。「何もかもがあるべきとおりです」と言うこの言葉は、自分自身の人生に対する全肯定であり、同時に、死への宣言でもある。私達はもしかしたら一生をかけて、自らの人生を引き受けている最中なのかもしれない。そして「引き受けた」その瞬間、私達の人生の幕は閉じる。

ヘッセの小説はどれを読んでも、必ず書き写しておきたい文章があって、そしてそれは私の心の中に長く留まり続けるのだった。

いちばん美しいものはいつも、満足とともに悲しみを、あるいは不安を伴うとき、美しいのだ(p.74)
「人間はめいめい自分の魂を持っている。それをほかの魂とまぜることはできない。ふたりの人間は寄りあい、互いに話しあい、寄り添いあっていることはできる。しかし、彼らの魂は花のようにそれぞれその場所に根をおろしている。どの魂もほかの魂のところに行くことはできない。行くのには根から離れなければならない。それこそできない相談だ。花は互いにいっしょになりたいから、においと種を送り出す。しかし、種がしかるべき所に行くようにするために、花は何をすることもできない。それは風のすることだ。風は好きなように、好きなところに、こちらに吹き、あちらに吹きする」(p.86-87)
両親についてもぼくはたびたびそう考えずにはいられなかった。ぼくは両親の子で、両親に似ている、と両親は考える。だが、ぼくは両親を愛さずにはいられないとしても、両親にとっては理解できないような未知の人間なのだ。ぼくにとって肝心なもの、おそらくぼくの魂であるものを、両親は枝葉のものと考え、ぼくの若さあるいはむら気のせいにする。それでもぼくをかわいがり、あらゆる愛情をつくしてくれるだろう。父親は子どもに鼻や目や知力をさえ遺伝としてわかつことができるが、魂はそうはできない。魂はすべての人間の中に新しくできたものだ(p.87-88)
「じゃ、もう何も嘆くことはないね?」と神さまの声がたずねた。
「もう何もありません」とクヌルプはうなずき、はにかんで笑った。
「それで何もかもいいんだね? 何もかもあるべきとおりなのだね?」
「ええ」と彼はうなずいた。「何もかもあるべきとおりです」(p.152-153)

ヘルマン・ヘッセ 高橋健二訳 クヌルプ 新潮文庫 1970

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