ちゃんばら多角形(ポリゴン) 9
第9話 土橋屋敷
紀州雑賀は山と海に囲まれた地方。雑賀荘の土橋重治の屋敷に見慣れぬ町娘が現われたのは、そんな海も山も一切見えぬ、草木も眠る深夜の事。手甲脚絆を身につけ、頭に手ぬぐいを巻き、長い髪を後ろで結んだ町娘。屋敷の門には見張りがいたはずなのだが、誰にも見とがめられる事なく、重治の眠る部屋の前に立った。そして手が襖にかかったとき、内側から低い声がした。
「誰か」
町娘は音もなく襖を引き開けると、両ひざをつき深く頭を下げた。
「服部竜胆と申します」
上げた顔をロウソクの明かりが照らす。黒々とした目の大きい、まだ幼さの残る娘である。畳の上に胡坐をかいた重治は、その手に徳利と盃を持っていた。
「服部? ああ、あの服部か」
竜胆を見て驚く様子もない。さすがに雑賀の頭領と言うところか。
「いかにも。徳川家康公配下、服部半蔵が娘にございます」
しかし禿げ上がった頭に達磨大師のような髭をたたえた重治は、半蔵の名にも家康の名にも眉一本動かすことなく、手ずから盃に酒を満たし口元に運んだ。
「で、鬼の半蔵の娘が我に何用だ」
「申し上げます。家康公は尾張から美濃にかけての一帯で、春頃に羽柴との戦が起きると考えておられます」
「それで」
「つまり大坂城より尾張に向かう軍が出たとき、それを合図にあなたさま方が紀州から攻め上り、背後から大坂城を落としていただきたいのです」
重治は盃を空にすると、唇をペロリと舐め回した。
「断る」
「それは何故」
見つめる竜胆に重治は答える。
「羽柴が紀州に攻めてくるというなら、迎え撃つ事も考えよう。だが大坂まで攻め上るとなれば兵糧がいる。鉄砲の玉も火薬も持って行かねばならん。我らは徳川殿の家来ではない。攻めろと言われて、御意にございますとは行かんな」
「ならば、それら必要な物は、私どもがすべて用意致しましょう」
重治の氷のような視線が竜胆を射る。
「……誘い出しておいて、後ろから攻め込むつもりではあるまいな」
竜胆は妖艶な笑みを浮かべた。この娘、妖か。重治はそんな埒もない事を思った。
「用心深うございますな。しかしそこまでわかりやすい隙を見せれば、こちらが羽柴より攻め込まれます。家康公は、そんな愚かな真似は致しません」
重治は言葉を返さず、盃に酒を注いだ。なるほど、確かに徳川のタヌキがそんな迂闊な真似はしないかも知れない。だが徳川とて畿内への足がかりは欲しかろう。紀州への領土的野心がまったくないと思うのは無理がある。そもそも紀州は背後が海だ。海賊衆さえ何とか出来れば、後ろを突かれる心配もなく、大和や大坂に攻め入る事ができる。天下を取るためには押さえておきたい場所のはずではないか。
重治のその心の揺れを理解しているのか、竜胆はこう言った。
「羽柴は我らが共通の敵。今ここで倒さねば、雑賀に未来はございませぬぞ」
また重治は盃を飲み干した。そして酒を注ぐ。竜胆を苛立たせようとするかのように。
「ひとつ聞きたい」
重治は盃を口元に据えたまま問うた。
「何でしょう」
「なぜ我の所に話を持ってきた。我は雑賀五組がうち雑賀荘の長に過ぎぬ。大群を率いて大坂城を落とせと言うのなら、根来寺に頼むが筋ではないか」
雑賀五組とは雑賀荘、十ヶ郷、中郷、宮郷、南郷の各組の事だ。当時雑賀は五つの地域から成っていたのである。
「ご謙遜を。そも根来寺とて、一枚岩ではござりますまい」
それは竜胆の言う通りであった。根来寺は本願寺などとは違い、一人の権力者が支配していた訳ではない。数百とも数千とも言われる多数の坊舎(僧房)があり、それらが権力闘争を繰り広げていたのだ。中でも強大な力を持っていたのが杉之坊、岩室坊、閼伽井坊、そして泉識坊の四大坊である。
「泉識坊は土橋さまの一族が取り仕切っておられる事、存じ上げております。それに」
竜胆は妖しく微笑んだ。
「鈴木重秀はもうおりません」
その笑顔をにらみつけながら、重治は酒をあおった。あの男の顔が頭をよぎる。以前、雑賀の里をまとめていたのは、重治の土橋一族ではなかった。十ヶ郷の鈴木一族が最大の力を持っていたのだ。その筆頭が鈴木重秀。織田信長に近しかった鈴木の一党は、重治の父・土橋守重を討ち、雑賀五組の実権を握ったにも関わらず、その後本能寺の変を機に雑賀を出奔した。今は何処にいるのか。
重治の心の内を読んだかのように、竜胆は告げた。
「鈴木重秀は、羽柴の配下に潜り込んだようです」
さしもの重治も、酒を飲む手が止まる。竜胆は念を押すように続けた。
「鈴木重秀が雑賀を棄てた今、雑賀五組をまとめられるのは、あなたさましかおられません。そして根来寺を動かせるお力もございます。ならば粉河寺にも高野山にも話ができるのではありませんか。徳川家康公が今このとき頼りにできる方が、あなたさま以外におりましょうや」
「おだてているつもりか」
重治は笑わなかった。いや、もし日の光の下であれば、青ざめてすら見えたかも知れない。
「鈴木重秀が羽柴の元に居るというのは真なのだな」
「真にございます」
竜胆の言葉に、重治は盃を持った手を膝に置きしばし考えた。そして。
「……他の組に話を通さねばならん。根来と粉河と高野山にもだ。時はもらうぞ」
思い詰めたようなその顔に、竜胆はまた微笑みかけた。
「承知してございます」
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