排除アートと「自由」と諭吉と兆民
みなさま、カタカナ語ってすっと頭に入りますか?私は入りません。
でも、高校生が読む評論にはカタカナ語がたくさん出てきますし、社会的な課題や仕事上の用語などにもたくさん出てきます。仕方がないので、私の授業では、なんども繰り返し授業で扱うことで、「なんか知ってる」に最低限なるようにしています。「なんか知ってる」カタカナ語が出てくる評論が読みやすくなると思うので。
この二週間で授業で取り上げたのは下記のカタカナ語です。
①コンサマトリー、フィルターバブル、エコーチェンバー
②オールジェンダー、ジェンダーニュートラル
③パターナリズム、リバタリアン・パターナリズム、ナッジ
①は、メディア情報リテラシー系の内容
②は、多様性の内容
③は、社会的な保護の内容
①は、これまでけっこう書いたことがあるので、②と③の授業の紹介をしたいと思います。
「だれでもトイレ」がなぜ批判されたのか?
この問いから②の授業は入りました。それが、福沢諭吉の「主義は広大なるべき事」という文章とどう共通するのかということを最終的には考えるという流れです。
「だれでも」が引っ掛かりどころだというのは生徒の皆さんはすぐにわかるので、何が引っ掛かるのか考えてもらい言語化してもらいました。
「『だれでも』とあると逆に入りにくい。本当にこのトイレを必要としている人の妨げになるかもしれないから」
「『だれでも』はいれちゃうと、犯罪が起こるかもしれなくて怖い」
うんうん、そうだよね~
つぎは、女性、男性、ジェンダーフリーのピクトグラムが3つ並んだトイレの案内板(著作権などの問題があると思うのでこちらには画像を載せません。わかりにくくてすみません)について、「なぜ批判されたのか?」という問いを考えてもらいました。
考えてもらう際には、
1,「女性」「男性」「有色人種」とかかれたドアが3つ並んでいる画像との関連で考える
2,ジェンダーフリーのピクトグラムのデザインに着目して考える
この2つについて考えてもらいました。
その後、このトイレの案内板にレインボーマークが描かれているのはなぜかと聞いて、レインボーフラッグを提示しました。
ここからが福沢諭吉!
レインボーフラッグと福沢諭吉の「主義は広大なるべき事」との関連性(共通点と違い)を考えてもらいました。「主義は広大なるべき事」には、次のような文があります。
こうした関連づけによって、福沢諭吉の文章がじつは現代的な課題と関連付けられること、例えば、多様性の問題について論じるときに、「福沢諭吉は~」と書けること、福沢諭吉の文章を読むときに、現代的な知識が援用できることなどを実感していってもらいます。これが、この授業のねらいです。
近代のはじめの文章が現代の課題を論じるときに使える。そのように使える知識を持っていて実際に使えるということは、教養があるということに他なりません。そんな高校生はほとんどいないわけで小論文とかを書く際にアドバンテージになります。
さて、③の授業です。
最初の問いは、「憲法が未成年者の人権を制限しているけれど、その人権は何?」です。
憲法第十五条「公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。」
この条文を「選挙」「普通選挙」部分を隠して考えてもらいます。意外と考えつかないので、ヒントをいくつか用意しています。奈良県の自治体で最近選挙があったらその話題とか、東京での選挙の話題とかです。
憲法が未成年者の人権を制限しているのは選挙権だけ(だと思うのですが違ったら教えてください)なので、では、喫煙と飲酒を制限する法律は違憲かどうか?という問いを考えてもらいます。
(ついでに、なんで国語の授業なのに、こんなことやるんだと思う?と授業者への「問い」もさりげなく…)
ここで、「パターナリズム」の紹介と相成るわけですが、それだと面白くないので「リバタリアン・パターナリズム」の事例と「ナッジ」の事例を生徒に紹介しました。
ここでは、「リバタリアン・パターナリズム」の事例は割愛して、「ナッジ」の事例を八王子市の事例をご紹介します。
面白い取り組みで、医療費を抑えることにもつながるのかな?と思うので良いのですが、生徒には「こうした考え方のリスクは何?」と考えてもらいます。
考えにくい場合には、いわゆる「排除アート」とよばれるものを紹介して問題点を考えてもらいます。
排除アートは、寝られないように仕切りを付けたベンチとか、座れないようにボコボコと突起を埋めた階段状の構造物とか、そうした公共の場にあるデザインされたものです。
迷惑をこうむったりする人や危険な状況を事前に防ぐためであったりとか、「致し方ない」事情で作られているとは思うのです。
ゼロトラスト・アーキテクチャというセキュリティ対策もこの延長上にあるのかなと思います。
でも、排除アートが「当たり前の環境」となり、その環境を相対的に捉えることができなくなってしまうのはダメだと思うのです。自分がどんな考え方や捉え方の影響下にあるのか、自分の思考や判断がどんな考え方や感じ方、価値観などの影響下にあるのか、分からなくなったり考えなくなったりしてしまうからです。
こうした事態を防ぐのが、「自由」という言葉をつくったり初期に用いたりしてきた知識人たちの言説です。
中江兆民はこんな風に言っています。
漢文訓読体なので読みにくいのですが、古代ローマの市民(自由民)と奴隷の例が挙げられています。※以下は、頑張って調べはしましたが門外漢が書いていることなので変なところはお許しください。
奴隷は日々の生産労働や、教師・医師といった高度専門職までを担っていました。
一見、「自由」に見えるのですが、自分たちの判断などで社会や国家を動かしたり変えていったりということはできません。自分たちが属する組織を変えることはできないのです。
それに比して、古代ローマの市民(自由民)は政治に参加していきます。自分たちの属する組織を自分たちが運営することができます。その意味で組織からも自由です。
パターナリズムと接続すると、パターナリズム的なあり様を考え出して運用することが古代ローマの市民(自由民)はできるということです。そうしたあり様を中江兆民は「自由」としています。
現代ではインターネット上に示される情報は、「なんの説明もなく」アルゴリズムによって操作されています。私たちはその意味で「奴隷」的な立場に知らず知らずのうちに位置付けられているといえます。
そうした自分たちの姿を、中江兆民の文章から照射し浮き彫りにできる、そうしたことを、この授業ではねらいました。
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