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虎に翼 最終週を見て気づいたテーマ

隠しテーマというほどではないかもしれないけれど、拾っておかないといけない落ち穂というか、追加メッセージのようなものを二つほど。

まず一つめ。母と娘の関係性かな。ただ、女性脚本家だから「母と娘」を強く感じるのかと最初は思ったけど、よく考えてみると母親だけに限定することでもない。父もあり息子もある。ドラマ内で取りあげられていて印象的だった中には、父・航一と息子・朋一の関係性もあった。優未が大学院を辞めたいと言ったとき、航一は「今たまたましんどいから辞めたいだけでは」「何者でもない娘に社会は優しくない」などと、説得を試みた。ここで寅子が介入して、口にした言葉がこれ。↓

「どの道を、どの地獄を進むか諦めるかは優未の自由です」
あわせて、のどかの「自分の人生はぜんぶ自分の好きなように使いたい」の力強いことばも、このドラマでは母から娘に与える思想、もしくは娘から母への力強い「自分の足で立って歩く」という自立宣言のメッセージの表裏一体、シンボルのようなものといっていい。

美雪が母・美佐江の手帳を手がかりに、母の人生をなぞるように生きようとしているのを見て、寅子は少し理屈をすっ飛ばしたところで、美佐江という「美雪のなかの母親」の存在を自分のことばで上書きした。

そのことの善し悪しや、あのときの家裁調停室でのやりとりを論理や深さで論じるのは、あまり意味がないだろうなあ。というのは私感ですけどね。言葉ひとつの意味より、抑揚とかリズム感で説得される。そういうこともあるのだ。演劇表現においては特に。

親が子の生き方や職業選択の権利を歪めてはならない。強制(矯正)しようとするべきではない。というメッセージがね。このドラマには隠されている。読もうとしなければ見えてこない。暗号というほど面倒な隠蔽はされていない。が、視聴者が何かの「違和感」に気づかなければ、そのままスルーされてしまうこともありうる。その程度の隠蔽。

尊属殺重罪規定を違憲とする。この大法廷までの種(道のり)が昭和25年の頃から蒔いてあったのだとすると、ドラマ視聴のどこかの時点で、ハッとさせられてもおかしくない。それまでは「普遍の道徳」とか「死刑か無期懲役」とガチガチに縛られていたものが、新憲法が時代と共に社会通念の内側に染みこんできて、きっかけに恵まれればくるっと逆転する。ひらりと「正しい位置」が提示される。

そういうマクロな物語の横で、家族のなかでの「子の自由意志を尊重する」という新感覚が覚醒する。もしかすると、脚本家(吉田恵里香さん)と同じかそれより若い世代にしてみれば、そっちのほうが当たり前。そういう時代を私たちは迎えているのかもしれない。

断言はできないけれどね。

そして二つめ。これも親と子の関係性のさきにある「地獄」の話といえるかもしれない。星家の百合さんの介護で予告されていた、老いたら人はどう生きるか、誰と暮らすかの問題。どう寄り添うか。

昭和45年の、寅子が横浜家裁の所長に就任した祝いの席で、梅子さんが「もう私は何もお役に立てないのよ(記憶による意訳)」と言った。それに道男や大五郎、そしてみんなが「そこに居てくれるだけでいい」と、口々に言う。親とのあらゆる関係に悩んだことがある人であれば、確かに「居てくれるだけでいい」のだが、言うは易しとクチからこぼれそうになるかもしれぬ。が、「居てくれるだけ」の老人とともに在り続ける道が、そしてその権利が許される社会なら、もしそれが誰にでも実現できるなら、そのビジョンこそ、いちばん有り難くもある。

花江が猪爪家の重鎮となりながらも登戸でひ孫たちからも愛される可愛いおばあちゃんとなり、航一さんが「子どもたちに面倒をかけたくない」と施設に入所しながらもおそらくは定期的に子どもたちに会いに来る。いろんなかたちでの可能性を描くことで、刺さってくるものも多様になる……。あまり綺麗にまとめられなかったが、やはり気づいたことをこうして書き留めておくこと。私に出来るのはそれくらいか。


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