映画『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』〜人工と自然、欲望と適応、改造と進化の混合

はじまりは、遠景。 向こうに、海岸のほとりに横転する大型船。岸に辿り着けなかった船、これが暗喩するのは、大洪水(ここでは大災害か)に呑まれるノアの方舟か、あるいは処女航海中に沈没した豪華客船か、両生類に進化できず陸に進出できない魚か、沈滞した現人類文明か。何にせよ、船は岸につけなかった。
船のかわりに岸辺にいるのは、磯遊びする一人の少年。少年は、岸・陸地で悠々と遊ぶ。船が目前にした陸で。彼らの物理的距離は近いが、在り様は隔たっている。少年と船。この隔たりは種の違いかもしれない、人間と船、自然物と人工物、正確には少年は人工物おおき世界の自然物だ。さきに船を魚類にたとえたが、なら少年は両生類か、それより先か。もしこれらの例えがマトを得ているなら、この種の隔たりは進化の隔たりでもある。「進化」はこの作品のテーマの一つだ。

磯で遊ぶ少年の近くを、ハエが飛ぶ。ハエはさまざまな匂いに誘われる。このハエはどんな匂いに誘われたのか?

この少年は異常だ。夜の歯磨きを終えた後、慣れた様子で洗面台したのプラスチック製ゴミ箱を食べはじめる。次々と頬張る少年の口元は白い泡で覆われている。
それを陰でみつめる母。彼女は、異常な息子をころす。息子を「あれ(creature)」と呼ぶ。理解を超えた悍ましいクリーリャー=怪物。ただ、そう言ったのちに涙を流すのは、愛と罪悪感の証拠だろう。母の愛は偉大だが、敗北してしまった。

この世界の機械は、生物的なフォルムをしている。直線ではなく、曲線。平面ではなく、凸凹と襞。臓器、骨、触手。これは、人間工学デザイン──人間が自然に、身体への負担を少なく動き、活動するためのデザイン──の改良の先にありうるのかもしれない。人間という動物のための、人工の自然なデザイン。
主人公のベッドは、まるで食人植物だ。寝台は、半分に割れた梅のタネ。タネは、2本の太い枝によって、天井を貫通する直径2mはある管からぶら下げられている。管からは別に4本の細い触手が伸びており、ユーザーの手足の各甲に、吸盤を用いてか張り付き、体内データを常時収集している。データを食す見返りとして、寝台の傾きや、表面の硬さ・凹凸をアルゴリズム上最適にし、ユーザーにより良い眠りを与えようとする。

ただ、この発展した人間工学は、人間の変化に対応できていないようである。現に、主人公のベッドと食事補助チェアは、冒頭からソフトウェアアップデートを必要としている。
この世界では、加速度的に変化する人間環境(そしてその影響を受ける自然環境)に適応しようとするかのように、人類は痛覚を失い、さらには身体が生涯を通じて解剖学的・神経生物学的に変化するようになった。機能不明な新たな臓器が自然に発生し、目的のわからない新たなホルモンが分泌されるようになる。
このような遺伝子変異?を目の当たりにし、一部の人間は、身体との関係を変えた。生物の教科書でみたような身体の統一規格は今や存在しない(過去にも存在しなかったのかもしれないが、今は歴然なのだ)、身体は刻一刻と変わる、なら、身体を外科的に改造・改良しようではないか。整形の新たなフェイズである。新たな時代の新たな自分らしい生き方を求めるための、または生き方に肉体を合わせるための整形。サイボーグ文化への端緒なのだろうか?

さきに触れたが、従来の人間工学デザインが心身の統一規格へのユニバーサル・デザインであるならば、一人一人が違う身体を持ち、おそらく異なる身体から異なる感覚を得るであろう世界では機能しない。包括性は拡張されなければならない。人ならざるものも受け入れる準備が必要だ。また、大量生産に需要はない、オーダーメイドが求められる。

臓器登録所(organ registry)。人間の無秩序な変化を、国家が捉え秩序づけるための、新たな警察組織NVU(ニュー・バイス・ユニット。バイスvice:悪徳、不道徳、悪習、性的不道徳。)の一部署。国民は、新たな臓器がつくられたら臓器登録所へ行き、登録する義務を負った。秩序は登録を必要とする。
これまでいくつもの臓器をつくってきた主人公ソール・テンサーも、相棒の女性:カプリースと、はじめて臓器登録所へゆく。

登録所職員は2人に説く。

懸念されるのは人間が誤った進化を遂げること

懸念しているのは、誰か? ー 国家であり、政治家であり、その恩恵を被る階級の人間だろう。
誤った進化を定義するのは、誰か? ー 上と同じであろう。

この世界の人類は、「痛み」を失っている(一部の人間は夢の中では痛みを経験できる。夢の中だけで痛みを覚えることは、クライマックスで重要になる)。
痛みを喪失することは、人間の生存に不利なのか?
そもそもここでいう「痛み」とは何か?
残念ながら、作品内では詳しく語られない。そのため、『メタゾアの心身問題 動物の生活と心の誕生』の著者ピーター・ゴドフリー・スミスの考えを借りる。彼がいうには、痛みは経験の一種であり、痛みを含む経験は「感覚的」経験と「評価的」経験に分かれている可能性があるらしい。

感覚的経験は、知覚と視点のほか、周囲のできごとを感じ取ることにかかわる。また評価的経験は、痛みや快感・不快感、何らかのできごとについて善し悪しの区別をつけることに関連している。いずれも、当の動物にとってどのように「感じられる/思われる」かをともなうものと説明できる。

『メタゾアの心身問題 動物の生活と心の誕生』, ピーター・ゴドフリー・スミス, みすず書房, 2023, p212-213

人間で言うならば
痛みの感覚的経験とは、「焼けるような、ひっぱられるような、気絶しそうな、目が飛び出そうな、声をあげそうなetc.」に感じられることで、
痛みの認識的経験とは、「〜から、これはまずい、病院にいかないといけない、まだ我慢できる、ぜんぜん大丈夫だ」と思われることであろう。

作中世界では、この二つの経験のどちらか、あるいは両方が失われているのである。

では、痛みを喪失することは人間にどう作用するのか?

スミスは、また、痛みが行為の決定に与える影響を、時間的スケールで分類している(痛みを感じてすぐか<侵害受容>、長期的に影響するか<学習>、あるいはその中間で一定時間持続するか<侵害受容感作>)。

つづく…かもしれない

2024/04/20 19:39時点の内容


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