アナログな世界の君⑮

「もう大丈夫です……おせなかおながししますね……」

次に入ってきたのは、きっちりと着物を着た千代の姿だった。
腕をまくってこっちに来た。

今回は安心して背中を流してもらえる。
背中を流してもらうという行為に、違和感を覚えながらも静かに待った。
静寂の中、背中をこするごしごしという音だけが聞こえてくる。

そのまま湯船に張ってあったお湯を、バケツですくい僕の背中にかけてきた。
割と勢いがついていたので、千代の着物は大丈夫だったのか心配になった。

その心配は的中したみたいで所々、濡れて張り付いてしまっている。
まぁそれほど必死にやってくれているのだろうという事で納めた。

背中をながしおえた後千代は、特になにも言わずに礼だけして、お風呂場から出ていった。
湯船につかって、窓の外に見える月を見ながら色々考えさせられるそんなお風呂だった。
絶対あの母親笑っているだろうな……。
そんな気しかしない。
あれは事故だ。見えてしまったが、事故だ。
二回目の事故だがよく頭に残るな。
ほんとに肌が綺麗だった。

しばらくしてお風呂から上がると交代するように千代が入って行った。
居間に戻ってみると、母親がニコニコしながら待っていた。

「お風呂はどうでしたか?
湯加減は良かったですか?」

「世加減はちょうどでしたよ……
それより千代を差し向けたのはお母さんですよね……」

僕はさりげなく聞いてみた。

「そ、そんなことないわよ?
あの子が勝手に行ったんでしょう
まぁまぁ良かったでしょう
布団は敷いてありますよ
寒くならないうちに入った方がいいですよ」

流されてしまった……どうせ答えてくれないと思うからおとなしく布団に入ることにした。
暖かくてふかふかした布団に入り天井を見ていた。
暗い部屋。目を閉じて眠りに落ちそうになった時、誰かがふすまが開いて誰かが入ってきた。
暗い所に目が慣れてしまっていた僕は、ふすまから差し込んでくる光がまぶしくて目を細めて
布団を深くかぶった。

ふすまが締まり光が途切れたと思ったら、布団の中に誰かが入ってきた。
正確には入ってきたと気づいたのは自分だけだと思う。
向こうは気が付いていない。

今動くのはまずいと思った僕は、ピクリともせずに息を殺して布団の中にいた。
間違えて女中さんがここで眠ってしまった。そんなことがあり得るかもしれない。
変な汗が体からあふれてくる。

寝息が聞こえ始めてきたのを確認して恐る恐る、布団から出てみようとする。
少しずつ移動してなんとか布団から抜け出すことができた。
抜け出すだけでどっぷりと疲れて、そのまま大の字になった。
気が付くとそのまま目を閉じて眠ってしまったみたいだ。

朝日が部屋に差し込んで来て目が覚めた。
隣には誰が眠っていたのか、結局分からないまま朝を迎えた。
布団は丁寧に畳まれて部屋の隅に置かれていた。
一体誰があの時、布団に入ってきたのだろう。

そろそろと立ち上がり、居間に行った。
朝ご飯が用意されていて、千代が座ってちまちまと食べていた。
それに混ざるように座り、食べ始めた。

そんないたって平和な時間が続いていた。

平和な時代ではない事を、思い知らされるようにサイレンが鳴り響く。

「またですか……最近はなかったのですが……」

居間でくつろいでいる千代が呆れた顔で言った。
どうしてそこまで落ち着いていられるのか分からない。
そのサイレンを聞いた時、僕は気が動転してしまった。
騒ぎ立てるようなことはしなかったが、あたふたはしていた。
この家の人たちは特に驚きもせず、逃げようともせず。
只々、いつもと同じように暮らしているのである。

「逃げなくていいのか!?
空襲だぞ?」

僕は言った。

「別にここに落とされることはないと思います……
山の中ですし
狙われるのはいつも町の方ですよ
もう焼け野原になっているのに……」

もうこの人たちは悟っているのだろう。
どうすることもできない現実に打ちひしがれているんだろう。
だが僕はそんなのはおかしいと思う。

「おい……そんな事言うなよ
もしかしたらがあるかもしれないだろ
どうするんだよ目の前で、そんな光景を見ることになったら」

声を張って、千代に怒鳴ってしまった。
最初からそうだったのかもしれない。
この子は、自分の命を軽いものだと考えているのかもしれない。
じゃなければ、知らない土地で、知らない人について行き、知らない人の家に泊まるなんて事しない。
単純に馬鹿だった。そんなことは……ないとは思うんだが。

「びっくりするじゃないですか……
聡が暮らしていた所とは違うのですよ
毎日のように聞いていると慣れてしまうのですよ
あぁ……今日も来たんだなと思ってしまうんですよ」

千代はどこか悲しそうな表情をして言った。

慣れてしまうってなんだよ。
そこまで疲弊してしまうのか。
自分では想像もできないほどの重圧と毎日戦っていたのか。
僕は頭を抱えて、座り込んでしまった。
何も言えない。
今の僕の言葉は千代には届かない。
知っていたつもりで、千代の事をなにも知らなかった。
現実を思い知らされる。

そしてサイレンは重低音と共にやんだ。
離れた所に煙が上がっているのが見える。
確かにここにいれば、あんなことになることはないだろう。

「ほら……終わりましたよ
さぁさぁ朝ご飯も食べ終えているじゃないですか
片付けてしまいましょう」

そんな中冷静に振舞っている千代が怖く思えた。
その目は冷静ではなく冷酷で光のないまなざしをしているようにも見えた。
今まで見てきたものが違うのだろう。
そうでもなければこんな風になるわけがない。
まだ年端の行かない少女ではないか。

「あぁ……そうだな……」

すっかりとその目に威圧されてしまった僕は、萎縮してしまっていた。
なにも無かったかのように、過ごしている千代に合わせるだけでその時は、精いっぱいだ。

朝からサイレンが鳴ったが、それ以降その日はなることはなかった。

そしてここに来て少し経つが、気が付いたことがある。
男の人が居ないという事だ。
父親はこんな時にどこで何をしているのだといいたい所だが。
この時代では兵役と言う物があった。
兵としてどこかにいるのだろう。

ずっと居間にいるのが退屈になったのか、千代から散歩のお誘いがあった。
さっきの雰囲気はどこかに消え、いつもの朗らかでどこか抜けているような雰囲気が戻ってきた。

「聡!
なんだか暇なので少し山の中を歩きに行きましょう!
気分転換にもなりますよ!」

千代が言った。

ここに来てしたことと言えば、散歩と日常生活で当たり前の衣食住。
それと女中さんや母親との会話位だ。
他になにかないものかと思いながらも、千代の意見に賛同する。

「あぁそうだな……その方が気分が晴れそうだ
空気も良さそうでいい気分転換になるだろう」

身支度をし、千代の後について行く。
いつもとは違うけものみち。
およそ道と呼べるものではない所を歩いていく。
千代はそんな悪路でも歩調を乱さずに、快調に進んでいく。
反対に僕はというと、普段こんな道を歩かないからすっかりばててしまっている。
舗装されたアスファルトがどれほどありがたく、電光表示などがどれほど偉大な物だったのか。

「どうしたんですか?
もう疲れちゃいました?
むむむ……体力がありませんね
悔しかったら私に追いついてみてください!」

人の気も知らないで、千代は平気でそんなことをいう。
そんなことを言われたら負けてられないじゃないか。
僕の少し先をかけていく千代を必死に追った。
言葉を発する余裕すらないくらいだった。
まぁ追いつけるわけもなく、だらしなくだらだらと走っていた。

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