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はじめてのピアノコンチェルト

緊急事態宣言の中、どうにか開催にこぎつけたすみだトリフォニー小ホールでのコンサート。観客は半分以下、挨拶はなし等感染対策に留意した内容で。私も宣伝はせず、身内の3名だけに来てもらった。

主催のT先生を中心とした、アマチュア演奏家を集めたコンサートだったが、全体のプログラムとして、お越しいただいた方々にも満足してもらえる充実した内容だったと思う。学生オケやコーラス部が、プロより面白い演奏をすることが多々あるが、そういったエネルギーと、高い演奏技術を合わせ持つ、素晴らしい演奏会だった。

私はモーツァルトのピアノコンチェルト20番の1楽章を弾かせて頂いたのだが、コンチェルトは初めての経験となった。それにしてもこの1ヶ月は、久しぶりに練習した。滅多に頑張ることがないせいか、夫に「身体から何日か貼った絆創膏を剥がした時みたいな匂いがする」と言われ悲しかった。とは言っても1日2時間程度しか弾けないのだけれど。

止まらずに最後まで弾けるようになったのが2日前だったから、相当に緊張し、当日の朝、「もう行きたくないよう」とぐずったほどである。

今回こんなに焦ったのは、周りの演奏レベルと真剣度が高すぎたことにある。私の有する数々の交わし技を繰り出せる雰囲気ではなかった。仮装はおろか普段着での出演すら許さぬ感じだ。グループ式のレッスンで他の方の演奏を聴くたび慄いた。

しかし終わって見ると、それが良かったのだと思う。明らかに、曲に取り組む前と違う地点にいる実感がある。そして、いつもの気軽なステージとは違う、音楽の真の楽しさもちらっと垣間見えた気がする。逆に言うとそれすら分からずに、なぜこの歳までピアノを続けているのか我ながら不思議ではあるが、まあいい。このような場でなかったら、いつものように中途半端な出来でへらっと舞台に上がり、輝く笑顔で誤魔化していたに違いないのである。

受付やステマネなどを協力して分担し、皆が一つの大きな船の船員のようにコンサートを作り上げられたのも良かった。真剣度とレベルの高いコミュニティを作り、グループレッスン等を通じて、一年延期となった本番までの期間、高い集中力を保ったまま引っ張ってこられたことこそが、今回主催のT先生の手腕だったと言えよう。切磋琢磨する仲間がいる方が成長が早いのだ。今日のドラゴン桜でも言っていたぞ。参加してみてはじめて、「ああ、先生は、こういうことがしたかったんだな」という全貌がよく分かった。小さな子が自由に書いたような鮮やかな筆筋で、「こうなったらいいな」とイメージしたこと、その絵の中にいさせてもらったような気分だ。過去を優しく認め、未来への希望の匂いがする、個人の夢のようで、皆の希望もふんわりと内包している、豊かで美しい風景だった。

コンクール等の手段も使わず、純粋に音楽の質を高めることを目的にできるのは、各々が自立した大人の集団だからこそできることだ。でも、ま、時々でいいかな・・。そう頻繁に臭くなったりしたくない。


私はひょんなことから2ヶ月前に参加できることになり、どうにか間に合うかもとモーツァルトを選曲したのだが、週2回限定でリモート勤務のみの仕事だからこそ決められたことである。


外からは分からないが、演奏家はみなそれぞれに、確保できる練習時間と、体力や経験、能力を考慮した、本人にしか分からない本番までの時間割りを算段している。この算段は経験を重ねるごとに上手になっていき、まあ悪く言えば守りに入るわけだが、それを含めたのが演奏家としての能力でもある。


フルに働いていた頃の自分を思えば、演奏までの工程を、受験勉強や仕事のように、何時間練習すればここまで進める、と積上げ式に計算をしていた。でも自由になる時間を得た今、練習しない時間に、なるべく自分を、好きなようにのびのびさせてやることがとても大切なのだと分かる。ぼーっとお茶したり、思い立ってお菓子を作ったり、ふと買い物に行ったりするような、とても役に立つとは思えないようなこと。単なる数字上の時間ではなく、時間の豊かな膨らみのような、遊びのような、充実のようなこと。


今回その算段も熟練され、演奏技術の経験も十分で、特に素晴らしい演奏をされたと感じたのは、やはり私より恐らく5-10歳くらいは上の方々だった。これからも演奏を続けていけば、ああいうところまで行けるのかなと思えば希望がある。そういう人達も、子育てや仕事の時期を経てその算段がうまくなったのだろうから、必死な時間も大切な経験だったのだ。人生にはいろいろな季節がある。だから算段を間違えて演奏で失敗し、開き直りつつも内心がっくりしていたあの頃の自分に、よくやってるよと声をかけてあげたい。その頃は人生における仕事の比率が高かったんだから。これからも失敗するだろうけど、たぶんそれでいいのだ。

こういういった能力と理想の間の算段は、むろん演奏の間にも継続する。望む演奏に対して、即興的な挑戦がどこまでできるのか。思考から感性にどこまで手綱を渡せるか。技術と自信が足りなければ思考を握りしめ、演奏は小さくまとまってしまう。老練になるほどレーサーがカーブに挑むようにギリギリを攻められるようになり、滅多にないことだが、うまく行けば、鳥が羽を広げてふわりと地表から離れるような、高度で刹那の自由を得られる。


それぞれ本業で、期間内でお金を取ってもよいレベルに仕事を仕上げることを日々やっているアマチュア達が、その能力を投影して演奏を仕立てる算段が熟練していくのは当然だ。でもおそらく、仕事の効率性を求めるような努力の同軸上には、その解は存在しない。


そもそも楽器演奏には、生真面目な優等生タイプでなければ一定のレベルに到達しないが、いざ演奏となると、空気とか読まない自由人の方が面白いという宿命的パラドックスが横たわっている。私ものんきな人を演じたところで根が真面目だから、とても「自由」を感じられるところにまでは至らなかった。

そう、誰しも人が思いっきりやるところを見たいが、自分は大衆の面前でこけたくない。それが人情。そういった意味では、昨日もっとも思い切りが良かったのは、プーランクのアンサンブルではないかな。楽屋で聴いていただけだけれど。熟練の算段と感性を両立させたクロイチェル、技術と迫力のブラームス。生演奏は、勢いあまって飛び出しちゃってバランス悪いくらいがいいのかもしれない。それが生の味ということなのだろう。スクリャービンのコンチェルトも、うまかったなあ。とても書ききれないけれど、他もそれぞれに、全部素晴らしかった。人の心を打つのはいつも、計算を超えたところ。

頭の中の計算が演奏を成立させ、一方でつまらなくもする。そして素晴らしい景色を見せてもらった。有難うございました。

(2021.5.23 SUN)