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どうして読むのか~わたしはいつもちょっと憂鬱でちょっと幸せ~


本を読むこと

わたしにとって本を読むことは、肌寒いときのブランケットとか風邪を引いた時のあったかいスープみたいなもの。疲れたときのお風呂やリフレッシュのための一杯の紅茶でもある。これらは、日常的なちょっとした心地の良いものに思えるが、ないと軸が揺らいでしまうような背骨でもある。

シルヴィア・プラスの『ベル・ジャー』の中で、主人公エスターがお湯とチキンスープの効果を述べる部分があり、私にとっては、これが本を読むことにも適用されると思う。どんなときでも正常なところに引き戻してくれたり、気分をすっきりさせてくれたりする。もちろん、お風呂とスープについても同感だけど。

熱いお風呂が解決できないものは、きっとたくさんあるのかもしれないけれど、私は一番、癒される。いつだって、悲しみに死にそうになるときも、不安で眠れないときも、恋している誰かに一週間も会えないようなときも、落ちこむだけ落ちこんだあとに、一人、口に出して言う。「熱いお風呂に入ろう」〔中略〕熱いお風呂の中でなら本当の自分を取り戻すことができる。(p.31)

「頭を屈めてカップの中のチキンスープを一口すすった。口の中が砂でできているみたいだった。もう一口、そしてもう一口、またもう一口、カップが空になるまで飲みつづけた。清められ、神聖で、また新しい人生をやり直せるような気持ちになった。」(p.67)

シルヴィア・プラス著、青柳祐美子訳『ベル・ジャー』(2004)河出書房新社

エヴァの葛城ミサトの名言のひとつにも、「風呂は命の洗濯よ」というものがあるけれど、読書も命の洗濯だと思う。風呂が身体的アプローチだとすると、読書は精神的アプローチとも言えるだろう。温かさが液体を通じて肌に浸透したり、胃に吸収されるのは何故心地よいのだろうか。お風呂上りはいつもさっぱりするし、スープを飲むとホッとする。読書では、活字を本という媒体を通じて脳や身体に取り込んでいる。活字というお湯につかって、魂を充電しているのかもしれない。

日本の純文学でもイギリスのコンテンポラリーでも世界的に有名なクラシック文学でも、エッセイでも小説でもビジネス書でも、活字に触れること自体に意味がある。更には、読むこと自体に加えて、物理的な本に触れることや、本を探すことも読書にまつわる安らぎの軸となっている。何なら書店で本を眺めているだけでもいい。読書が今の私にもたらすものは、とても大きい。

憂鬱と幸せの中で

情報量の多すぎる社会に揉まれて働いていると、正気を保つのが難しくなる。9時から5時まで、月曜日から金曜日まで。そういうと残業や休日出勤や夜勤がないなんてラッキーと思われるかもしれないけれど、私の場合は労働に対するもともとのHPが少ない。とにかく、いまの私にとって労働は楽しいものではない。

でも嫌なことばかりじゃなくて、友達や恋人とご飯を食べて他愛もない話をしたり、緑の多い公園を散歩したり、水泳をしてさっぱりしたり、旅行に行ったり、ミュージカルをみたり、そんなことで幸せを感じる。

そんな感じで大部分の私は仕事で憂鬱で、同時にちょっとしたことで幸せでもある。そんないつもちょっと憂鬱でちょっと幸せな日常で本を読むことは、私の憂鬱を和らげて、幸せを増幅するような存在。他の幸せエレメントよりも、根幹でベースになっているようなものなのだ。

味わうようにじっくりと

たくさん読めるに越したことはないけれど、ゆっくり読み込むのも悪くない。特にその本に夢中になっているときは。すらすら読めるのも気持ちがいいけれど、少しハードルが高い内容の本を嚙み砕いていくときはアドレナリンが放出される。そういう読み方ができる本は限られている。最適なタイミングで最適な本を読むことはなかなか難しいから。

ジュンパ・ラヒリは、著作『べつの言葉で』の中で第三の言語であるイタリア語で本を読むことについて以下のように表している。

「ていねいにゆっくりと、苦労しながら読む。どのページもうっすらと靄がかかっているように感じる。障害はわたしの意欲をかき立てる。新しい構文がどれも奇跡のように、知らない言葉がどれも宝石のように感じられる。」(P28)

ジュンパ・ラヒリ著、中嶋 浩郎訳『べつの言葉で』(2015)新潮社

トレーニングをするように読むこともいいのだと教えてくれる。ラヒリほどの情熱はないけれど、クラシック文学の原書に挑戦するときは「読みたい」、「好き」、「難しい」、「きつい」と「楽しい」が拮抗する。筋トレやランニングをする人の感覚に似ていると思う。私自身、あまり身体的な負荷のかかることは苦手だが、一応身体を駆使することの楽しさも知っている。私の場合は読書による楽しさの方が性に合っているだけで。

どこでも一冊たずさえて

私はどこに行くにも本を持ち歩く。会社に行くときも、友達と会うときも、本屋さんで本を見るときにも、公園の芝生で寝転ぶときも、カフェで抹茶ラテを飲むときも、散歩をするときも、旅に出かけるときも。電車での移動中は特にはかどる。もちろん、持ち歩いていたのに少しも読まなかったなんてこともあるけれど、それでいい。

併読派の私は、どの本を持っていくか悩む。特に長期の旅行に行くときなんかは気分の変動も読めないし、とても悩む。アメリカのコメディドラマ『Gilmore Girls』の主人公Rory Gilmoreは学校に行くときに何冊も本をバックパックに詰め込むところを母親に揶揄される。Roryの言い分としては、小説の気分の時とバイオグラフィーの気分の時と、また別の小説の気分など複数ないといけないのだ、と。

加えて、本のサイズも大きな要素だ。日本の文庫はどんな鞄でも持ち運べるけれど、洋書のペーパーバックはなかなか大きい。分厚さによっては重い。紙の本が好きなので、Kindleを携える日はなんだか少し気分が上がらない。ロンドンの地下鉄は電波が通じない部分も多く(最近はかなり通じるようになってきたけれど)、車内では新聞や本を読んでいる人が多い。隣の人は何を読んでいるのかと、ちらっと目をやることも日常茶飯事。驚くほど重たそうな大きなハードカバーを読んでいる人もいる。

人の家の窓を覗くように

私は夕暮れ時に、人の家の窓から様子が覗ける瞬間が好きだ。何もストーカーのようにじっと見たりするのではなく、「キッチンでごはん作ってるな」とか「テレビの明かりが漏れてるな」とか散歩しながら、またはバスの2階から思うくらいなので許容してほしい。ロンドンでは夕暮れ時であればカーテンを閉め切らない家も多い。
少し灯りが漏れていて、夕飯の匂いがする。そんな雰囲気をちらっとかすめとることが好きだ。それぞれの人々の人生の瞬間を垣間見ることができるようで。

映画とかでも主人公の部屋からどんどんズームアウトしていって、マンションの住人や街の人々の様子が俯瞰的に映されるシーンをよくみる。先日観た『ブリジット・ジョーンズの日記 きれそうなわたしの12か月』でも、失恋したブリジットが自分以外はみんな恋人と幸せそうに過ごしているのだと悲観するように、ブリジットの家の周りは幸せそうな恋人たちの様子を窓から映していた。

読書に話を戻そう。私が人の家の雰囲気を感じ取ることが好きなのは、物語を感じるから。あの物語の登場人物はこんな家に住んでいるのかもしれない、あの人の家は小説で描写されるように素敵に見える。なんて想像できるから。つまり、私は実生活でも読書でも他人の人生を垣間見ることが好きなんだと思う。自分の周りだけではなく、色々な人の気配を感じたり、日常生活では見れないような世界を見たり。そんな体験ができるという意味では、映像作品もとてもいいが、なぜか観終わると物足りない気分になる作品が多い。読書では妄想が無限大だから、満足度が高いのかもしれない。

読書スランプや積読

いかに読書が心の支えや癒しになっているかを述べてきたが、少し、ほんのちょっとフラストレーションになるときもある。

例えば読書スランプ。ついこの間まで何の問題もなく本を読み進めていたのに、突然どの本にも集中できなくなる。何を読んでも「これではない」感が拭えなかったり、そもそもあまり本を開く気になれなかったり。好きで読んでいるはずなのに、進捗が悪いと気になってしまう。読みたいときに読みたい本を読み進められる感覚は心地よいから、逆に読みたい気がしているのに読み進められないときは気持ち悪い。

もう一つは積読。これも悪いことではないとわかっていても、積読本ばかりどんどん増えていって、読了本が増えないのは少し気が滅入る。買ったり借りたりした本をすぐに読んで、積読などしなければ一番いいのだが。洋書も含まれるとそうもいかない。日本語本に比べて、洋書は装丁がツボなものが多く、ついついすぐ買ってしまう。そして読むのには日本語の本よりも時間がかかる。

否応にも読書に対してフラストレーションがあるときは、気にしすぎないことが一番だ。読み進まなくても気にしないとか、ライトなものを選んでみるとか、参考に読書に関する本を読んでみるとか。文章を書くなどのアウトプットをしているうちに、インプット欲が戻ってくることもある。気にしすぎなくても、遅かれ早かれ読書の季節がくることは誰よりも私がよく知っているから。

とはいえ、たくさんの本に出会うためにフラストレーションがない方がいいのだけれど。同時にちょっと憂鬱でちょっと幸せな私の日常では、すべてが上手くいくことは少ないから。「本や読書について書くこと」も最近の楽しみでもある。

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