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雪降る日に復活礼拝堂(Erik Bryggman設計)を再訪した

こんにちは、Mayuです。私は今フィンランドのAalto大学大学院にデザイン留学をしています。私のnoteではデザインとフィンランドでの日々について書いています。

先日、トゥルクにある復活礼拝堂(Ylösnousemuskappeli)を訪ねました。8年前にも訪れたことがあるのですが、その時はろくに調べもせずに一人でふらっと行ったため、ちょうどお葬式が行われている最中でした。

復活礼拝堂/ エリック・ブリュッグマン(1941)
こちらは先日訪問した時の写真です

遠目に建物の外観だけ見て、帰ろうと思った時に、スタッフのおじさんが声をかけてくれて、入っていいよ。と。
まさにお葬式の最中だったので、本当に良いのかな、ご家族の了承は得てるんかな、と思ったんですが、当時は英語で咄嗟に確認することもできなくて、お言葉に甘えて入らせてもらいました。
一番後ろの列にひっそりと座らせていただいてたんですが、その時のお葬式は本当に静かで優しくて、やっぱり建築もデザインも、ものそれ自体ではなくて人の行為が合わさった時に本当にその価値がわかるんだな、と感じたことをよく覚えています。それでまたいつか絶対に行きたいと思っていました。

世間のクリスマス休暇より一足先に大学の授業が休暇に入ったので、ふと思いついて礼拝堂だけをみにトゥルクまで日帰りで行ってきました。
トゥルクはフィンランド最古の都市で、歴史的な建造物が今なお多くのこる街です。ヘルシンキからは電車か高速バスで2時間程度で行くことができます。

この日は誰もおらず、まっさらな雪の上を歩いてきました

復活礼拝堂はエリック・ブリュッグマン(Erik Bryggman 1891-1955)による設計です。以前に書いたフィンランドデザイン史の記事で少し触れていますが、ブリュッグマンは中央ヨーロッパの機能主義をフィンランドに紹介した中心人物の一人です。アルヴァ・アールト(Alvar Aalto 1898-1976)の少し先輩にあたり、アールトがトゥルクを拠点にしていた時にはコンペでも度々競いあい、また1929年のトゥルク700周年祭では協働して機能主義建築をフィンランドで実践しました。

その後ヘルシンキに拠点を移し華々しく活動するアールトとは対照的に、ブリュッグマンは目立つことをあまり好まなかったようです。彼は故郷であるトゥルクで生涯の殆どを過ごし、その地に重要な建築を数多く手がけました。また彼は歴史的建築を熱心に勉強していたらしく、トゥルク大聖堂の修復やトゥルク城といった歴史的重要建造物の修復に携わっています。

復活礼拝堂の建設は1939年に開始されましたが、すぐにフィンランドとソ連間の戦争が始まり一時中断します。その後1940年に建設が再開し、1941年春に完成しています。この間、礼拝堂の装飾を手がけていた芸術家が戦争で亡くなり、また資金不足で材料計画を変更せざるを得ないなど、礼拝堂は戦争によるさまざまな不条理を経験しています。

当初はスウェーデン産の石材を使用する予定だったのが戦争の影響で入手できなくなり、フィンランドで調達できる石材に変えたそう

復活礼拝堂で最も特徴的な設計の一つが、十字架に対して斜めにふられた座席の配置です。ここに座ってふと外を見ると、松林の美しい自然が目に飛び込んできます。厳格に十字架を見据えることよりも、送り出す人の心が少しでも和らぎ癒されるように設計されているように感じます。
ブリュッグマンはこの頃、機能主義の厳格さに疑問を感じ始めていたと言われています。特にこの礼拝堂の設計中に仕事仲間を含め多くの人が戦争によって亡くなったことを受けて、送り出す人に寄り添う空間を目指したそうです。中世のフィンランドの石造り建築の要素、新古典主義の要素、生命感のある装飾類が、それでいてモダンですっきりとした一つの全体としてまとめられています。

ボールドの天井は中世の教会を模している
南側の大きな窓の外に目を向けると、豊かな松林が広がっている
こちらの照明はパーヴォ・タイネル(Paavo Tynell 1890-1973)によるもの
フィンランドの冬は本当に暗いですが、それでも礼拝堂内は優しい光が差し込んでいて、あたたかさを感じる空間です。


礼拝堂の周囲にはお墓が広がっており、ブリュッグマンもその中に眠っています。

復活礼拝堂の見学時は、事前に見学可能時間を確認されることをおすすめします。
こちらのページに記載の電話番号か、メールでも対応いただけます。


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