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なぜ僕がMになったのか
昨日は一日中眠かった。普段は3時とかまで平気で起きてるのに、9時に床に就いた。
という訳で朝4時に起きた。お得意の二度寝も、こう早起きだと逆に出来ない。
目覚ましがてら、昨日ぼんやり考えたことを書き起こそうと思う。
「なぜ僕がMになったのか」
タイトルから、性的嗜好のマイノリティのエッセイとか体験談とか、そういったものを想像された方がいたら申し訳ない。おそらく期待したものではないと思うので、悪しからず。これはただの自己分析ですゆえ。
まぁ、とはいえ、これを考え始めるきっかけは、まさにそういった性的嗜好関連だった。
私が専攻している倫理学では、こうした話題はたびたび耳にする。それこそ「男性ー女性」「支配ー服従」みたいなフェミニズム的な話とかも。
でも、いわゆるマゾヒストと呼ばれる人たちは、男の方が多いらしい。Wikiで調べただけだけど。
でも、男である自分に、支配的な本能を垣間見る時がないわけではない。でもでも、女にそれがないのかは私は知らない。
反対に、服従欲みたいなものも、女性が本能として持ち合わせているかも知らない。
では、自分の中にそういったものはあるだろうか・・・?
大体こんな思考の流れだったと思う。僕は自分を省みた。
僕は自分の中に、「服従欲」を垣間見た記憶があまりない。
というか、ない。
(忘れているだけかもしれないけど)
しかし、いつからか「自分はSではなくてMなのかもなあ」と思うようになったのも事実だった。
ここでいうSとかMとかっていうのは、広義というか、必ずしも性的嗜好に関わるものではないです。日常的な用法として受け取ってもらえれば。
昔は、自分をMと思ったことはあまりなくて、でもなぜかいつからか、自分はSではないと思うようになって。
それはなんでだったっけ、と。
先述したように、「服従欲」みたいなものを確信したこともないくせに。
そう思った時に、一つの仮説が頭を過ぎったのだ。
自分は、「服従」を欲したのではなくて、ただ「愛されている実感」が欲しかっただけなのではないか、と。
誤解を恐れず言えば、S/Mというのは能動/受動とも大別できる。
ただ自分は、「受け身」な姿勢であることに安心しているだけではないか、と。
能動的に相手に何かをする行為は、「もしかしたらこれは独り善がりな自己満足かもしれない」という不安と隣り合わせにある。
これは両者が望んだものではなく、ただ相手が嫌がるのを隠して、受け入れているふりをしているだけなのではないかとか、そういった不安。
この仮説にたどりついたことの一つに、自分をMだと思うようになった時期がある。
大体、高校時代の恋人と付き合ってからだ。
そしてその彼女とは、かなり悪い別れ方をした。詳細は省くが、自分の知らないアカウントで、自分の悪口を彼女はかなり長い期間書き続けていた。もちろん、それは自分にも大いに悪かった面があったのだけど。
そういった経験から、自分には先のような「不安」が常に付きまとうようになった。
だから、能動的な行動よりも、受動的な行為を好んでいるように見えるのだ。その方が、怖くないから。
相手の選択や行動を受け入れていれば、我慢させることもないし、相当嫌な時だけ自分がちゃんと拒めばいい。
いつしか自分はそういう考えを持つようになっていた。それが悪いのかは、よく分からないけれど。
相手が自分に自発的に何かをする、という現象そのものに愛を感じている節がどこかにあって。それはきっと、過去に経験した「寂しさ」の裏返しなんだろう、と。
かといって、自分は痛いのは嫌だし、(皆さんが想像するような)典型的なマゾヒズム的行為をされたことはないので、Mを堂々名乗ることは一生ないと思いますね。
自分はMだけど、それはマゾヒストのMじゃなくて、メンヘラのMだったわけですから。
(それが言いたかっただけ)
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