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村田沙耶香『コンビニ人間』(2016)感想

複数人で遊んだり飲んだりする時に、たまに「なんか○○、テンション低くない?」とか「元気ないよね、大丈夫?」とか「なんかずっと調子悪そう」とか言う人がいる。あれは心配や気遣いの言葉のようで、全然そうじゃないよなと私は常々思っていた。

あれは「あなたには私たちが集まっているこの場を盛り上げる、少なくとも楽しんでいる態度を見せる義務があります。でもそれをしていないのは、それができない何か事情があるからですよね?」という圧力だ。

人間社会というムラには、そういう圧力が無数にある。それを私たちは誰に教わるでもなく勝手に会得し、それに失敗すればコミュニティから弾き出される。
そんなことを「コンビニ人間」を読んで思い出した。


私はほとんど純文学に触れてこなかった人間だけれど、それに大した理由があった訳ではないので、今回芥川賞受賞作のなかでもかなり有名な「コンビニ人間」を読んでみることにした。
タイトルから期待した通り、内容はかなりキャッチーで難解なところはひとつもなく、文章もかなり読みやすいものだった。プロット的な意味でも、分かりやすく出来事が置かれているので、エンタメほどの派手さはないが、退屈さや縦軸の読めなさは全く感じない。何より140ページほどで読み切れるコンパクトさは素晴らしい。

文体を引きずっているせいか、なんだか文章が硬くなってしまったけれど。
普通に面白かった。
序盤は「これは私だ…!」という強い共感を持って読むことができたし、途中ある男が出てきたところからは「どうなってしまうんだろう?」という引きでページをめくれたし、結末はある種カタルシスのあるスカッとさもあった。

ほとんど純文学を読んでいない人間の私による純文学の雑な認識は、「現代社会を自然主義的に写実しようと試みたもの」である。
だから、純文学や芥川賞を読む人の一定割合は、新聞を読む層と重なっており、そのニーズも同じ「現代社会を知りたい」という所から来ている…と思っている。(この私の純文学観は、大学時代に読んだ『動物化するポストモダン2(東浩紀)』と『読者はどこにいるのか(石原千秋)』に基づいている。諸々間違っていたら許して欲しい。)

特に昨今の純文学は、現代日本の女性の悩みを切り取ったものが多い(多分)。それもまた、時代を映すというニーズが要請した傾向なのだろう。
きっと純文学の意義や定義はそれだけに留まらないのだろうけれど(念入りな保険!)。

「コンビニ人間」の主人公も、現代日本の女性である。が、特に女性特有の悩みや生活、生きづらさという訳ではなく、だからこそ私は「これは私だ」と思いながら読むことができた。

「コンビニ人間」というのは大袈裟なメタファーだ。というか、カリカチュア(誇張表現)と言った方が正確だろうか。
実際に「コンビニで働くために生きてきた」とまで実感している人間はきっとそう多くない。しかし「コンビニ人間」である彼女に共感できた人は多かったはずだ。これは、彼女が私たちの持っている性質を大袈裟に誇張した存在だからだ。

私たちは決してクラスメイトを殴って静止させようとはしない。
しかし、機械的なマニュアルにはひどく安心する。
人間的な複雑なコミュニケーションにはうんざりしている。

スーパーに行くと、店員のいるレジよりも何倍も台数の置かれたセルフレジに、いつも長蛇の列ができている。
私たちは人間に払うコストをひどく嫌っている。

あるいは、マニュアルを必要とする「自分のなさ」も特に現代には共感的に響くのかもしれない。
コンビニとは大量生産・大量消費に支えられた機械化/自動化の象徴である。
「コンビニ人間」は、簡単に言えば機械になった人間のことだ。
私たちは他人という人間にうんざりしながら、自分という人間にも疲れている。
とりわけ現代はAIに代替されない思考力や創造力だの、「自分らしさ」だの、多様性だの、自由な職業選択だのと(これらが立派な近代の発明で産物だと認めたうえで)散々言われてしまうからこそ、選択肢と可能性が広がりすぎた「私」はアイデンティティクライシスを起こしてしまう。

だから、「コンビニ人間」の欲望は、清々しい。
人間の複雑な部分をいっそ捨象して、オートメーションされたプログラムによって生きていきたいというピュアなまでに屈折した欲望。
本来はそんなこと誰もできないし、なろうとも思わないが、だからこそカリカチュアとして提示されたこの小説には、私たちがどこかスカッとするような気持ちよさがある。


話が逸れてしまうけれど、
この構造は映画「PERFECT DAYS」とも少し近いかもしれない。
あれも、トイレ清掃員の社会的地位の問題がよく言われていたが、
「誰もが現実ではできないと分かっていながら、誇張された理想像に『これなれたらなあ』と思わせてくれる鑑賞体験」を提示しているという意味では、両者は実は近いものを提供しているのではないだろうか?
そういう意味では、「コンビニ人間」の待遇や社会的地位も高くはないわけで(もちろんこの作中では、それによる葛藤なり軋轢が展開として用意されている訳だが)。

でも、主人公は最終的に、そんな社会的地位や立場、それを担保させようとしてくる男をかなぐり捨ててまで、嬉々としてコンビニに帰っていく。
コンビニより行きてコンビニに帰りし物語なのだ。
その結末にカタルシスがあるということは、やはりその「社会的地位をかなぐり捨てる」というのが、『誰もが(無責任に)やりたいと思いながらも、(現実的には)できないことを主人公がやってのける』ことなのだと思う。

だから、わかりやすく言えば、コンビニ人間の結末のその先が、彼女の20年後30年後の姿が「PERFECT DAYS」の主人公なのかもしれない。


「コンビニ人間」の話をしたつもりが、
いつの間にか「PERFECT DAYS」批判に対する応答みたいな結論になってしまった。

実際のところ、「コンビニ人間」を読んだのはだいぶ前で、この記事もその時に途中まで書いていたのを、数カ月ぶりに続けて書いているので、途中までの論旨はどこかへ吹っ飛んでしまった。

卒論を書くときとか、時間をあけて文章を書くとこういうことがあるので皆気をつけようね! 問題提起と結論は必ず対応させよう(自戒)



まあ、でも。
最近友人と話していたのは、
やっぱり私たちが人と話したり、関わったりしていくのは、
人が人であるから、私とあなたが違うから、にほかならず、
やはりそれはオートメーションされきった人格では意味がないということ。

どこかに旅をして、普段と知らない場所に行ってまで、
チェーン店に入るのがもったいないと私は思ってしまうので。

やはり私もなんだかんだで、そこでしか会えない人や文化を感じたくて、
そのためのコストをちゃんと払わなければいけないのだと思う。

そう、つまり結論はバランスである。
人間味のない「コンビニ」はとても楽で便利だし、多分私の生活はそういった人間を排除したシステムでかなり賄われているけれど、それだけに埋もれて生きていけるほど人間は強くないとも思っている…のかな。

だから、「コンビニ人間」は強く「これは私だ」と思わせる一方で、決定的に私ではなくて、だからカリカチュアなのである。


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