虚無虚無キャンパスライフを、振り返る。
タイトルにもある通り、私のキャンパスライフは「虚無」だった。
それは偏に私の怠惰と臆病によるものである。
今回はそんな4年間の自分の行いを振り返り、反省したい。
そう、これは反省会だ。
長いようで短い大学生活を、私はどう過ごしてきたのか。
主に勉強面と交友面、創作面について、明け透けに語っていきたい。
どう楽しむのでも構わないけれど、同じように怠惰で臆病な大学生に、そして、これから大学生になる人に読んでもらえればと思う。
そして、どうか私と同じような過ちを犯さないようにしてほしいと切に願う。
1年前期
~勉強面~
まずは勉強面から振り返ろう。時間割は以下のようだった。
「あそぶんがくぶ」などと揶揄されているだけあって、コマ数がとても少ない。特に理系の方などは驚かれた人も多いだろう。
ここだけは言い訳させて頂きたいが、これは私の履修登録が特別ひどい訳ではない。私の通う大阪大学の文学部は1年生で取れるコマ数が限られている。
もちろん卒業要件を超えて余計に取ればいいのだけどね?
受験勉強という抑制に抑制を重ねた地獄を抜けた先に、こんなぬるま湯みたいな環境があれば人はどうなるか。
答えは簡単。堕落するのだ。
ここで、私の単位習得状況を整理しよう。
1年前期に登録したのは週11コマ(合計15単位)、
一方、私が習得できた単位はうち8コマ(合計11単位)である。
既に4単位落としていた。
何がひどいって、落としたうちの一つは火2木2の共通概説。つまり必修である。
文学部は進級できないということがないので留年はしなかったので良かったが(良くはない)、普通これを落とす人はいない。
でもなぜか当時の私は、これに3回しか出席しなかった。教務に呼び出しをくらったのはこれが最初で最後だった。
なぜか、というか理由は覚えていて、この必修はいわば専修選択の為のガイダンスなのだ。でも当時私は倫理学専修を選ぶことを半ば決めていて、(あとは単純に他の専修が興味なくて)出席を怠ったのだ。
しかし今になって思うと、この時もっと他の専修のことを検討しておけばなーと反省する。選んだ専修が悪かった訳ではないが、もっと興味があって、もっと私に向いていて、もっと苦しまずに卒業できた場所があったようにも思う。特に日本語学か英語学か、言語学系の専修に行きたかったという気持ちは未だにある。(そもそも文学部ではなく社会学系の学部に行きたかったという気持ちも)
とはいえ、こんなものはタラレバだし結果論だ。言語学への興味に気付いたのは、それこそ2年以降に履修してみてからだし。自分がどんな勉強に向いているのか、それを知るのも結局先のことなのだ。
まあそれでも一つ確かに言えることは、必修の単位は落とさない方がいい。それだけである。
勉強面はこんな感じだろう。
ちなみに、嘘だろと思うかもしれないが、これはかなりマシな方だ。
~交友面~
キョムキョムキャンパスライフとは、もちろん大人数では成し得ない。
たとえ単位を落としまくっても、学業に如何に身が入らなくても、大勢の友達に囲まれればビーハッピー。それすら青春なのである。
ご期待の通り、私の大学生活はそうではなかった。
むしろこの点が一番大きかったのでは?とすら思える。
そんな私にも、大学で毎日のように友達と遊んでいた時期が唯一あった。
この1年前期である。
私は陽キャとも陰キャとも言い切れない微妙な立ち位置にいる。かっこよく言うと、marginal manだ(多分、厳密にはだいぶ違う)。
コミュニティ加入最初は陽キャでいられるのに、だんだん陰キャになっていく。
中学でも高校でもそうだった。最初は頑張って、交友関係を広めようとして、色んな人と色んな話をする。初対面の人との距離の詰め方は、それなりに上手だったのかもしれない。
しかし、途中でどうしても疲れてしまうのだ。
なんなら徐々に網目のように形成される人間関係が窮屈になって、逃げ出したくなってしまう。
こうした私の性質から、この頃の私はかなり頑張っていた。
色んな人とサークルに行って、ご飯を食べに行って、時には朝まで遊んだりして。
今思えば恵まれていたが、当時はそんなことは思っていなかったような。
幸せって失って気付くものなんだ。まあ、コロナ前のことなんて皆そうか。
兎にも角にも、この頃の私はまだ人間として形を保っていたのである。
~創作面~
最後に、重要なのが創作だ。
大袈裟に言えば、これが私の生きている意味であり、そして大学生活を虚無にした元凶とも言える。
私は昔の記事にも書いたが、大学にはモラトリアムの延長が目的で進学した。人生の夏休みと揶揄されるほど自由なその4年で、思いっきり創作がしたかったのである。
そういった経緯があるから、私は勉学をおろそかにする都合のいい口実として創作を使っていたのだと思う。酷い話だ。
では、おろそかにしてきた学生の本分の代わりに、どれだけ立派なものをお前は世に残してきたのか。それを見ていこうじゃないか。
2019年7月、私はボカロPとして処女作を初投稿する。
(どうでもいいけど、処女作ではハモリをミュートしたまま投稿してしまうという悲劇が起きた)
前期で発表したのは、この処女作を含めて2曲である。
当時の登録者数はおそらく34人くらいだった。
まあ、駆け出しだからこんなもんでもまだ仕方ないと許してくれ。
ひとまず、先に進もう。
1年後期
~勉強面~
全休を2日も作るな。
こうして人は怠惰になっていくのだ。
夏休みには夜の8時に目覚めることも珍しくない身体になっていた。
高校まで週五日朝8時に起きていたことなど、もはや信じられなかった。
結果は10コマ(合計14単位)、うち修得したのは7コマ(10単位)である。
なんでこんなに暇なのに単位を落とすのだろう?
落としたのは英語ふたつと哲学。
哲学は、本当に最初から最後まで頭からお尻まで何を言っているか分からなくて、苦痛だったから仕方ない。4回目以降は出席もしなかった。
だが、言語は言い訳できない。
英語なんて出席して真面目に課題をやっていれば、単位を落とすなどまずありえない。もうあまり記憶もないが、多分面倒だったのだろう。
大学の英語学習はあまり楽しくなかった記憶だけがある。
そんなこんなで、1年の間に習得した単位は合わせて21単位。
卒業要件は、卒論の10単位を除けば120単位なので、4で割っても全然足りない。この時点で、だいぶしくじっている気がする。
普通、大学の単位ってのは3年までに取りきっておくもの。
しくじり先生からの当たり前のアドバイスだ。
でないと、俺みたいになってしまうぞ。
~交友面~
俺のしくじりは続く。
入学以前から張り切って維持し続けてきた人間関係が、後期になって目に見えて減っていた。否、私が半自主的に減らしていた。
例えば、前期で同じ授業を受ける友人とは、授業後そのままご飯を食べることが習慣だった。そういう人が、まあ何人かはいた。
しかし、後期になって授業が被らなくなると、そういう交友も自然と減った。連絡先は知っていたけど、わざわざ連絡する用もなかった。
敗因は、単に私が疲れた、怠惰だったというだけに留まらない。
それは、私の交友関係が全て一対一だったということも影響していると思う。
一対一の友人関係には、進展性が乏しい。よほどの共通の趣味や目的がないと、そのコミュニケーションは停滞する。
常に同じ教室に閉じ込められる高校以前の環境なら、共通のどうでもいい話題はいくらでもある。同じバイトをしているなら、同じ愚痴でも話せたかもしれない。
しかし、同じ学部とはいえ、クラスも共同体意識も殆どない中で、ほんの少し授業が被っているだけでは、毎日話し続けるのも限界がある。一対一では尚更そうだ。
だから、私は過去の自分に言いたい。
「コミュニティに所属しろ」と。
もしかしたら親友は一対一でも作れるかもしれない。恋人なら況や、一対一でも充分だ。
しかし、同性異性に拘わらず(というか恋愛感情がなければ)軽い友人関係を作りたければ、コミュニティに所属するのが一番手っ取り早いのである。
部活やサークル、バイト、なんでもいい。そこに共通の話題、目的があるのなら、それだけで充分楽になる。
だが、過去の私はこう言い返すだろう。
「いや、サークルとかバイトとかやってなかった訳じゃないよ」と。
私は入学当初からDTMのサークルに所属していたし、バイトは家庭教師も塾講師もやっていた。家庭教師はともかく、どちらもコミュニティと呼ばれるものだ。
一度だけ、1年も終わりかけの3月にDTMサークルの合宿(という名の缶詰)に参加した。それはまあ、死ぬほどつまらないものでも不快でもなかったが、死ぬほど楽しいものでもなく。
ちょっとだけ今まで話さなかった人と話して。ちょっとだけ仲を縮めて。
合宿後に緩やかに距離が開いていった。
自転車が漕ぎ続けないといつか倒れてしまうように、
人間関係も維持しようという意思がなければ簡単に切れてしまう。
私にはそれをする勇気も元気もなかった。怠惰で臆病だったからだ。
しかし、まあ、仕方ない面もないとは言えないだろう。
合宿を終えて数日経ったころ、私たちの目に映ったのは、コロナウイルスのニュースだった。
~創作面~
さて、創作の話を少しだけ挟もう。
7月に「夏星」でめでたくボカロPデビューした私は、当時とても胸を躍らせたものだ。
見ず知らずの人に、自分の書いた歌詞を、メロディを、聞いてもらえる。
同じように曲を書く人と、創作の話ができる。
そのどれもが楽しくてうれしくて、それはもちろん今も変わらないけれど。
だから当初の活動は割と精力的である。
9月、腐れ縁の友達に歌詞を書いてもらった「After the Rain」を投稿。
11月に「惚気話」、12月に「♡Q」と、曲調もバラバラに、好奇心の赴くままに曲を作り続けた。
しかしそれ以降、私のチャンネルは4月まで更新されなかった。
結局後期に投稿したのは前期と同じく2曲。当時の登録者は70人くらいだった。
更新が途絶えた理由は二つある。
一つは、10月から私が新たな創作を始めたことだ。
それは小説の執筆である。高校までに何度か書いたことはあったが、Webサイトにアップするのは初めてだった。
「カクヨム」というサイトで私は恋愛モノの長編を書いていた。1話は3000字前後だが、それを最初は毎日から毎週くらいのペースで更新していた。
10月末から3月にかけて、私は22話を更新した。文字数にして大体65000字だ。
1月は期末課題に追われ1話しか更新できなかったが、かなり頑張っていたように思う。内容も、途中までは今読んでも面白いなと純粋に思える。
実際12月にコンテストに応募した際は、(読者選考があるので)かなり多くの人に見てもらえるようになった。ブックマークは500を超え、年内にPVも2万を超えた。
3月9日のスクショを見ると、ブックマーク676件、PVは3万8千になっている。初投稿にしては上出来すぎる結果だった。
私はこの頃、作曲と執筆の二足の草鞋をそれなりに楽しんでいた記憶がある。だが、やはり小説に煮詰まると音楽がおろそかになり、音楽に煮詰まると小説がおろそかになる、ということは何度もあった。
ただし、曲の投稿ができなかった理由はもう一つある。それは次項で説明しよう。
2年前期
~勉強面~
この年の4月、緊急事態宣言が発令された。
授業はすべてリモートになり、大学に1時間半かけていくこともなくなった。
結果から言うと、登録した11コマ(時間割外の英語学習があった)17単位のうち、習得したのは10コマ16単位だった。
正直、この頃の記憶は殆ど残っていない。
ただ何もかものシステムが変わって。いつの間にか誰も彼もが何も疑わずにZoomを使うようになって。一人で勉強することになった。
唯一良かったのは、良い椅子を買ったことで勉強効率が上がったことだった。一年生の間はちゃぶ台に座って勉強していたが、ことごとく集中できなかった。危機感を持って買ったのが成功だった。私の買い物が正しかったことは珍しい。
だから殆ど単位は落としていない。相変わらず英語は一つ落としたけれど。
覚えていないことは反省できないので、致し方がないな。
とはいえ、もう少し授業は多めに登録してほしい。
~交友面~
パンデミックで最も打撃を受けたのは、言わずもがなコレだ。
それは多くの人にとって、そうであろうと思う。
先に断っておくが、私はなんでもかんでもコロナのせいにしたい訳ではない。
それどころか、自分の大学生活が虚無であったこととコロナ禍に、相関や繋がりのようなものをそこまで感じていない。
これは、冷静に考えるとおかしな話というか、過剰な自責思考な気もする。
「コロナだからって楽しく過ごせる人もいる」とか、そんな話ではなく、「コロナによって損なわれた/失われたものはある」、それはシンプルな事実だからだ。
でも、多分当時の私はコロナ禍になって、どこかせいせいしていたのだろう。
どこか解放された気持ちになっていたんだろう。
一年なんとか続けてきた社会的で社交的で活発で健全な人間関係から、その生活から逃れられることに。
何より大事な創作ができる時間が増えたな、くらいに思っていたのかもしれない。
だから、私は大学生活が虚無だったことにコロナは無関係だと思っているのだろう。
しかし、こうして客観的に振り返って見ると、虚無の大きな原因のひとつはコミュニケーションである。一年生の間に紡いできた、か弱く緩やかな繋がりは、パンデミックの間に容赦なく絶たれた。
何よりサークル、そして大学に対しての帰属意識が薄れていった。
これが一番深刻で、私はもう一度交友を手繰り寄せようという意欲さえ、失ってしまったのである。
~創作面~
4月、久しぶりに曲を投稿した。
初のコラボ曲だった。
そう、私はネット上で知り合ったボカロPさんとコラボ曲を制作していたのである。恐らく、その話が出たのが夏くらい。実現にかなり時間がかかってしまった。
事情はシンプルで、編曲でつまずいたからだ。
コラボはお互いの歌詞をお互いが作編曲するというシンプルなものだったが、結局私はそのコラボ曲を作りかけのまま3か月くらい放置していた。
コラボだと思うと、半端な曲を作ってはいけないと思ってしまうらしい。
そういうある意味HSPっぽい思考により、私はなんとなくPCに向かうのが嫌になり、他の楽曲を進めることもなく、小説にだけ逃避していたという訳である。
コラボはとても楽しい。実際とても楽しかった。
だが、私の性格を考えるとどうやっても進捗が遅くなる。それを知った春だった。当分コラボはいいと思った。
4月に共作「ブーゲンビリアの花束を」「LOUPE『Q』」を無事投稿できてからは順調だった。5月に「コトの葉」、6月に「今年も桜は綺麗に咲きました」を投稿。8月には、また腐れ縁の友達の歌詞を借りて「青夏」を投稿した。
意を決して合宿で少しだけ話したサークルの先輩にギターを弾いてもらったので、とても完成度の高い曲になった。
コメントで「この曲だけでいいから伸びろ」と言われて少しだけ凹んだが、創作をやる者は全員感想に飢えた化け物なので、そんな言葉でさえ嬉しかったりもする。
登録者も順調に増えていった。8月には一気に290人に達した。
まあこれは「青夏」が伸びたというより、「♡Q」をYouTube広告に流しただけなのであるが。それでも、国内外からコメントが寄せられ、韓国の人にファンアートまで頂いたのはとてもいい経験だった。
再生数や登録者なんてものは、お金で買える代物である。しかし、それに対する抵抗感はあまりなかった。
良いものを作っていて、それが届くべき人に届くなら、と。そんな青いことを考えていたような気もする。単純に、ボカロPは伸びてからの方が大変なので、そこまでの道程を楽にできるなら広告(お金)に頼るのは全然ありだとも思う。
話がかなり逸れてしまった。
一方の小説はというと、順調とは言えなかった。というか不調だった。
自分で書いていて「この展開面白くないな」と思ってしまい、書くのが苦痛だった。4月は一度も更新できなかった。
しかし、多くの人に見てもらえた以上、なんとかその期待に応えたいと思い、私はリスタートを決断した。
そして、5月に話を急ピッチで完結させた。
いわば「打ち切り」だ。25話、約7万5千字。
そして、私は同じ話をもう一度頭から書き直すことにしたのだ。
私のカクヨムのサイトに同じタイトルの小説が2作品あるのは、そういう訳だ。
その「仕切り直し」は2年生の7月31日から始まった。
そして、それは現在も続いている。この時から、私はこの作品をより面白く完結させるための長い旅を続けている。
2年後期
~勉強面~
2年の10月になって、愚かな私はようやく気付いたらしい。
単位がとんでもなくやばいことに。
私は夏休みに履修登録をする際、学生便覧を見て(あるいは久々に友人と履修登録の話をして)こう嘆いた記憶がある。
「なんで前期の俺は、9コマしか入れてないんだ……?」
もっともな疑問である。
私はこの時初めて自分の異常さに気付き、慌てて授業を詰め込んだのである。(これで?と思われるかもしれないが、言い返す言葉もない。)
結果、14コマ24単位のうち、12コマ21単位を修得した。
ひとつは本当に意味の分からない哲学だったからともかく、相変わらず英語もひとつ落としていた。
しかし、今までを思うと頑張った方である。
このペースを入学当初からコツコツ続けていれば、3年後期には120単位取りきっていたのに。怠けていた私は、負債を返済するのが大変だ。
何と言っても、翌年からは就活という地獄が待っている。
~交友面~
この頃は、高校以前の友達と遊ぶことが割合的に多かった。
大学で大阪に引っ越してきたので、回数は決して多くない。
兎にも角にも、コロナで大学の人と遠ざかり、高校までの関係に依存しかけていたのは事実である。そういえば、高校の部活の友達を誘ってAmong usやったのは懐かしい。珍しく自分から誘ったので、とても緊張した。
皆が自分と同じように楽しかったかは分からないけど、少なくともああいう勇気はちゃんと持っておきたいと思う。
話は変わるが、2年生からはそれぞれの専修に進む。
しかし、前期は一度も同期と顔を直接合わせることがなかった。
そこで、9月に2年だけで顔合わせが開かれた。もちろんマスク越しの顔合わせだ。
しかし、それも一度きりのことで。結局それが何か先に繋がることはなかった。名前も当時は殆ど覚えていなかったと思う。
既に私の帰属意識は、研究室、サークル、大学のどこにも残っていなかった。もしそれがまだあったなら、何か変わっていただろうか。
~創作面~
小説は順調に書き進められていた。
仕切り直した新しい方でも、読者は順調に増えていた。
前期は1章まで(19話,約5万字)を書き上げていたが、
後期は3章まで(22話,約6万5千字)更新した。
一方、曲の投稿は芳しくなかった。
シンプルにDAW(作曲ソフト)に向かう機会が減って、機会が減ったから編曲が上手にならず、上手にならないからやる気が出なかった。
最悪だけど、よくあるスパイラルだった。
大層な目標を掲げた割に何もできない自分が嫌になった。
そんな自分に、再び発破をかけようとしたのが「北極星」という曲である。これは2月末に投稿した、処女作の続編とも呼ぶべき作品である。
後期に投稿できたのは、この1曲のみである。
当時の登録者は広告で「青夏」が伸びたのもあり、380人くらいだった。
この曲は簡単に言えば、「これからまた頑張るぞ!」である。
半年何もしなかったことを反省して、初心に戻る曲である。
そうして気持ちを入れ替えた私の背後で、魔の手は確かに忍び寄っていた。
3年前期
~勉強面~
1年で落とした共通概説(必修)をようやく回収。
いやー、えらい(えらくはない)
リモートだから新入生の中で浮くこともなかったし、助かった。
結果は、12コマ22単位のうち10コマ18単位を修得。
落としたのはアートメディアと英語学Ⅱ。アートメディアは、死ぬほど話がつまらなかったような気がするが、よく覚えていない。Zoomだと授業に参加しながら全く授業を聞かないということができるのでよくない(よくないのはお前だ)
英語学は途中から急遽対面になって、行くのを面倒臭がった。最低だ。
だが、1年間ずっと家に閉じ込められていたのに、急に1時間半かけて山に登って大学に朝から来いというのは、やはりきついものがある。
2限に大学なんて来れる訳がないのだ(反省する気、ある?)
~交友面~
人生至上、もっとも孤独だった半年間だったかもしれない。
当時のスケジュールを見ても、スマホのアルバムを見ても、この半年には何の思い出もない。ただ、無機質にESの締め切りがカレンダーに点在していて、スーツを着た自分の愛想笑いした写真があるだけ。
就活を始める直前が、一番鬱だったかもしれない。
始めるのが恐かった。人はいつだって、未知を恐れるから。
今は全然元気だし、生きる気あるからいいんだけど、当時を思うと少し悲しくなる。本気で死のうとしていた自分のことを、もうあまり覚えていないから。
でも、多分、眠れない夜がたくさんあって。
消えてしまいたい朝がたくさんあって。
誰の優しい言葉も信じられない時があって。
涙を流してしまう時があって。涙を流させてしまう時があって。
自分が死んだらどうなるのか、家族がどう思うのか、たくさん考えて。
遺書まで書いて。書いてたらまた泣いてしまって。
それでも、生きていけたのは泣いてくれた人がいたからだ。
階段から飛び降りようと全身の力を抜いた時、
「なんでこんなことで死ななきゃいけないんだ」って
憤った自分がいたからだ。
そんなこんなの痛みも苦しみも、もっと交友関係が、セーフティネットという糸がちゃんと残っていれば、ちょっとは感じなくて済んだのかもしれないな。
~創作面~
鬱になったのは、多分5月くらいからだ。就活を始めたのは6月だから。
4月はどっちかというと母親が鬱っぽくなってて、「親守唄」という曲を書いた。母の日にURLを何も言わずに送ったけど、多分息子が書いた曲って分かってなさそう。
5月にはniconicoとTwitter限定で「いきなきゃ」という曲を投稿した。自分の気持ちをリアルタイムに反映させた曲だった。
6月は2回目のコラボ曲が投稿された。前とは別のボカロPさんと、今度は1年くらいがかかってしまった。だから前年は滞ったのかもしれない。
そして、6月にはもう1曲投稿した。「遺書」という曲だ。
初めてボーカロイドのラップに挑戦したので時間がかかった。だから実際に歌詞ができたのは、やはり5月だったと思う。
「遺書」と言っても、本当にこの時死ぬつもりがある訳じゃなかった。
ただ、死ぬとしたら多分曲を作る暇もなく死んでしまうだろうから、いつでも死ねるように作っておきたかったのだ。
しかし、久々にラップ詞を書くのはとにかく楽しくて。
書いている内容は死ぬほど重いのに、それに反して私の心は浮かれていた。
創作によって生を実感していた。私はどうやっても創作に生かされていた。
この年の前期で、これ以降の投稿はなかった。
また、この時点でようやく登録者が400人を超える。
当然、小説の方も投稿頻度は落ちていった。
6月から9月はほぼ月1になってしまっていた。読者もだいぶ脱落した。
内容も、推敲するのがしんどくなってしまい、投げやりで更新ボタンを押していた時もあった。
逆に、5月は7話も更新していることに、今更驚いた。
GWで毎日投稿を決意し、4日目で挫折したのはまだ鬱になる前だが、私は5月下旬になってもちゃんと3話小説を書いていた。えらい。
前期に書いたのは、最終章の直前まで(14話,4万6千字)。
そして、10月になっても、冬になっても、次の春になっても、そして夏が終わっても、最後の5章が更新されることはなかった。
3年後期
~勉強面~
…なんだか雰囲気がだいぶ重たくなってしまった気がする。
そういう趣旨の記事ではないので、テンションを戻したい。
・・・は?
なぜ全休など作れると思ったのだろうかこいつは。
単位はまだまだ全然足りないのに、どうしてこんなことができるのだろう。
というか、金5の表現術は本をグループで制作する授業で、この時間に集まることの方が少なかったから実質週休4日だ。てか4連休だ。これ狙ってだだろお前。
9コマ18単位しか登録していないのに(もちろん取り消したのもあるけど)、取れたのは7コマ14単位。ひどすぎる結果である。
調子に乗って文学部以外の授業も取ったが、レポートが全く書けず無事亡くなっている。多分、有事だ。
私の、このレポート書けない病はついぞ完治することはなかった(せいぜい寛解程度である)。
創作でも似たようなことが起きるのだが、自分でもゴミだと分かっているものを労力を割いて具現化し、それを人様に見せるというのは、途轍もなく辛い作業なのだ。
創作と違うのは、ゴミをマシにしていく過程、考え直す過程、より良いものに修正していく過程が何にも面白くなく、ただ苦痛だということだ。本当に思いつかないので、永遠に絶望する羽目になる。
だから、私はこのあたりから基本的に自主性の低いレポート課題を出す授業か、レポートの代わりに期末試験をする授業に絞り始める。
答えのある問いは勉強すればある程度はできる。少なくとも終わりがある。それが救いだ。
答えのない問いは勉強すればできるというものでもなく、終わりも見えず、ひたすらに救われない。そう、その最たる例が卒論とかいうやつなんだ。
~交友面~
就活で精神をすり減らした。
バイトを減らしたことにより収入が激減し、更に精神をすり減らした。
精神をすり減らしたことで、余裕がなくなって、人と話すのがより嫌になった。誰と話しても、劣等感や焦燥感に苛まれ、上手く話せなくなった。
単位を取りきって、バイトばっかりして、お金が貯まるだけの生活をしている人の話とか、就活をそつなくこなしている人の話とか。
その人自身に対する好意に拘わらず、とにかく余裕がある人の話を聞くのが辛かった。
結果嫌われたのか、自己嫌悪なのか、余計に人は寄り付かなくなっていく。
そうして私はまた、精神をすり減らした。
~創作面~
あまりにもDAWと向き合わないので、練習がてら耳コピした曲を10月に投稿した。自分の下手さを痛感しつつ、いい勉強になった。
その後、12月にまたラップを書いた。研究室の同期が作ったトラックに歌詞を乗せた。ヒトとの仲良くなり方を忘れた私は、音楽でしか「友達になりたい」と表現できなかったのである。怪物か?普通にドン引きされるだろ。
実際にドン引きされたのかどうか。
そんなことも分からないくらいに彼との仲は縮まらなかったのであるが、それも偏に自分の余裕の無さのせいだろうと思う。
やはり就活が忙しく、投稿できたのはこの2曲だけだった。
そして、先ほども述べた通り小説は1文字も書けなかった。
実際には最終章のプロットを練ってはいた。だが、なぜか全く執筆に向き合えなかった。読者が離れかかっていたのが余計にモチベを減退させたのかもしれない。
4年間で最も創作できなかった半年だった。
創作に生かされていた私は、余計に死にたくなった。しかし、「私は死ねない」ということさえもう知ってしまったので、無駄に辛くなるだけだった。
4年前期
~勉強面~
11コマ21単位のうち、7コマ13単位修得。
なぜここまで頑張れないのか、不思議だった。
就活は4月中旬には、無事に終わっていた。
当面の憂いのひとつが解消され、晴れやかな気持ちになったのも束の間。
今度は、卒業できないこと、卒論が書けないことに対する憂いが空を覆った。なまじ行きたい会社の内定を得たことによって、それが取り消されたらもう人生おしまいだと余計に不安症になっていたのだ。
だったら尚更、単位取得にもっと躍起になってほしいものなのだが、なぜこうも単位を落としているのだろうか。
先にも出た「レポート書けない病」が重症化したのだ。とある授業では、中間レポートすら書けずに途中で脱落している。
また、リモート化によって、出席代わりにコメントシートを書かせる授業が増えた。これにもかなり苦しめられた。適当なことを書けばいいのに、それを読んで教授がどう思うのか考えて、結局何も書けずに死ぬ。
美学なんか、授業は面白いのに、コメントのハードルが高くて(ただの感想はやめろと再三言われていた)それだけで授業を見ることが億劫になってしまった。
7月、8月は本当に病んでいた。
自分のあまりの不甲斐なさに、情けなさに、嫌気が差していた。
おまけに卒業論文の中間発表でも滅多打ちにされて、もう「なんでもいいから卒業できる最低のクオリティラインを教えてくれよ」と思っていた。
8月になっても9月になっても、私は卒論の構成すら見通しが立っていなかった。
~交友面~
特に特筆して筆を執ることもないくらい、何もなかった。
大学に行く回数は増えたが、残り1年で今更関係性を深めようとも思えず、というか同期は皆研究室に対する帰属意識が低い気もする。同期の繋がりが薄いのは、やはり研究室初年度にコロナイヤーだったこともあるのだろう。
そんな訳で、私が会っていたのは基本的に高校までの友人たちで。
しかし、本当にお金がなかったので本当に仲のいい人には「本当に社会人になったら奢るから」と、ご飯を奢ってもらうことも何回かあった。
そういう人たちに、金銭的にも精神的にも生かされていたので、私はちゃんと彼らに恩を返していきたい。そうずっと思っている。
~創作面~
4月に内定を得て、私は少しだけ未来が楽しみになった。
鬱とは「未だ来ぬ未来に来てほしくない」と思うことなので、これは良いことである。
その想いのまま、5月には「青年も、大志を抱く」というラップ曲を投稿する。
リリックの完成度はピカイチだと思う。逆にこれを超える歌詞は、なかなか書けないだろうと思えるものができた。
という歌詞からも分かる通り、社会人になっても創作をするぞ、という曲だ。
これがちょっと反響をもらって、日刊トップテン!にもランクインしたりした。
しかし、今までラップのトラックはすべて他人が作ったものをお借りしていた。それどころか、コラボ曲やら依頼やらで、自分で編曲するということがめっきり少なくなっていた。
それに危機感を覚えた私は7月、niconicoの「無色透名祭」という企画に参加した。これはボカロPが匿名で(しかもMVも白無地黒字に統一して)曲を一斉に投稿するというもので、シンプルに楽曲のクオリティを見てもらいたいという意図から始まった企画だ。
私はここで自分の編曲力を試すことにした。
そこで制作したのが「絶海の挽歌」というバラードである。
結果は、はっきり言って惨敗だった。
勿論バラードというジャンルがそこまで受けるものじゃないのもそうなのだが、単純に編曲力の低さがはっきりと結果に表れたと受け止めている。
しかし、曲が伸びなくても私はそこまで落ち込まなかった。
もちろん多少は落ち込みはするけれど。でも、何より嫌なのは曲が完成しないことなのだ。下手なのは、いい。数をこなせば、ある程度までは上達する。
MVを新たに付けた「絶海の挽歌」をYouTubeに投稿したのが8月。
その後、現在に至るまで私のYouTubeチャンネルは一切更新されていない。
…このオチ、もう飽きたな。
4年後期
~勉強面~
4年後期にこんなに授業取ってる大学生はいない。
だが無理もない。
残っていた単位は、なんと16単位もあったのだ。
流石にぴったりは肝が冷えると思い、10コマ20単位分を登録した。
その中には、英語の発音を録音して、ひたすら毎週提出するだけの授業があった。期末課題などは一切なく、シンプルにその点数だけで成績が出るのだ。
私は英語のリスニングやスピーキングは大の苦手で、軽い気持ちで履修したのを後悔した。最初は10点中3点なんてザラだった。単位取得の為には6割は取らなくてはいけないのに、大丈夫か?と思った。
12月ごろには、なんとか頑張って6割ギリギリを維持できていた。しかし、私はやけになったのか年内最後の課題をとても投げやりにやってしまい、10点中1点という大失態を犯してしまった。締切がクリスマスだったから、むしゃくしゃしていたのかもしれない。そうだ。むしゃくしゃしてやったのだ。結果、単位取得はかなり絶望的になった。
その他の授業は、そこそこ真面目に受けた。
それでもZoomの授業を聴くのは辛かったし、コメントもだるかったし、レポートも悩んで悩んで沢山ゴミを提出したけれど。
出さずに諦める、という選択肢はもう残っていない。
後がない私は、とりあえず全てを終わらせるしかなかった(魔王?)
卒論の構成が決まったのは11月に入ってからだった。遅すぎる。秋と冬は、クリスマスも返上で、書いて、書いた。
最終的には2万5千字くらいのものを提出することに。個人的には面白い内容になったと思ったけど、口頭試問で滅多刺しにされて、教授のことが大嫌いになった。面白いのは私の論文ではなくて先行研究の内容だと、発表当日に気付かせてくれなくても良くない?
年々、審査のハードルが上がっているという卒業論文の結果。
そして、成績発表。卒業者認定。
すべては3月までお預けになった。
私は毎日のように神社に通って、卒論が受理されますように、卒業要件の計算が合っていますように、と祈った。
~交友面~
この時期に何かがある訳ないだろ、と思ったが、そういえば4年前期で書き忘れたことがあった。
それは、「内定者同期」という新たな交友関係である。
冒頭に申し上げた通り、私は最初は頑張るタイプなのだ。それで段々疲れて、逃げ出してしまう。
だから、今回はあえて最初に頑張らなかった。そして当然のごとく、あんまり仲良くなることができないまま1年が経った。
人間関係、むずかしい。
そもそもの問題として、私はこの4年間で多くの社会性やコミュニケーション能力、いわば「人間力」を失っており、その衰えは簡単に取り戻せるものではなかった。
一度だけ内定者同期での飲み会にも参加した。
しかし、二次会には行けなかった。シンプルに疲れていたし、既に仲睦まじくやっているように見える周りの人たちに溶け込める自信もなかったのだ。
もちろん、入社して一緒に研修を受けるようになれば、話はまた変わるかもしれない。
そこには、私が期待したような共通の話題、問題、目的があるのだから。
そのコミュニティに多少なりとも帰属意識を持って、たまに逃げ出したり、たまに居座ったりしながら、よしなにやっていければ良いと思う。
そのためにも早く人間力を取り戻したいところである。
~創作面~
先ほども言った通り、曲はこの半年ひとつも投稿していない。
だが、小説の更新は再開していた。
事の発端は、9月。
私は卒業までに運転免許を取れと急かされ、鳥取に来ていた。
その合宿中、私は最終章の執筆ばかりしていたのだ。
2週間あまりの間に書いたのは、恐らく7話,2万5千字くらいだろう。
前回の更新が去年の9月で終わっていたので、丸一年越しの更新となった。
最終章の内容は、奇しくも就活の内容だった。そのため、自身の就活前のプロットを没にして、就活を経験した身としてプロットを書き直した。
それが読者にとって求めていたものだったかは疑問だが、それでも、1年空かなければ書けなかった内容になったのは間違いない。
結局私は、10月に3話、11月に1話、1月に1話を更新した。
つまり、後期に限っていえば私は5話,2万3千字くらいしか書けなかった。
恐らく、完結まで6~7話は残っている。
しかしまだ後期が、学生生活が終わった訳ではない。
私は3/31にまでにこの作品を完結させる。
…などと大層なことを言いつつ、2月3月全く更新していないのは何事か。
そう指摘されたら、ぐうの音も出ない。
2月は入社前課題やら、忙しくて受けられていなかった運転免許の学科試験やらで、なんだかんだ忙しかったのだ。
それも全て、私の後回し癖によるものなのだが。
地でReal Faceを行くのはキャラじゃないのでやめていただきたいものだ。
私はギリギリで生きていたくない。
おわりに
3月8日13時。
大学の卒業が、めでたく確定した。
後期の成績は、10コマ20単位(+卒論10単位)習得。
初めてのフル単だった。発音の成績は滅茶苦茶ギリギリだった。最後に満点取っていなかったら駄目だったと思う。
感動のフィナーレである。
…などと言っていると、勤勉な大学生に怒られそうだからやめよう。
これは決して美談などではない。
美談ではなく、限りある若い時間を、余りある自由なキャンパスライフを、「虚無」にしてしまった失敗談である。
もちろん、振り返れば自分なりに頑張ったこともそれなりにあった。
世に残せたこともあった。楽しかったこともあった。
それはそれで認めておきたい。これは、そのための備忘録でもある。
でも、私はもっと幸せになりたい。
もっと創作を遺したい。
もっと人に愛されたい。
そう、まさに努力 未来 A BEAUTIFUL STARなのだ。
どういう意味?分からない。
兎にも角にも、私はこの失敗をあなたに伝える。
あなたには同じような失敗をしてほしくない。
そう、未来の私。あなたに言っているんだ。
今回便宜的に割と思いつきで分けた「勉強」「交友」「創作」だが、これは割と教訓として示唆的かもしれない。
あなたは、この3つを大事にしなくてはいけないのだ。
ここでの「勉強」とは、「生きていくためにしなくてはならないこと」と読み替えればいい。これを怠ると結局、自分のしたいこともできなくなる。
「交友」は、そのまま交友でいいか。楽しく生きるために、あなたは何かしらのコミュニティに属して、親友とまではいかない距離感の友達も作って、もちろん長年付き合うような親友とも仲良くしていく必要がある。独りで生きていくのは、きっと心の健康に悪い。
「創作」は、「自分が本当にやりたいこと」だ。何が何でもこれを手放したら駄目だ。恐らくあなたは仕事みたいなやらなくてはいけないことをちゃんとこなして、毎日のように同期や先輩後輩、旧友と遊んでも、恋愛に耽溺しても、それだけでは満足しない人間だから。ただただ「楽しい」を消費するだけではなく、「楽しい」を生産したいと思う人間だから。
だから、その本当にやりたいことを忘れちゃ駄目だと思う。諦めちゃ駄目だと思う。忙しいとは思うけど、あなたはそれに生かされているんだから、死ぬまでそれを手放したらいけないって、今の私は思うよ。
この3つが上手くバランス取れて、どれもそこそこに充実できたなら、私は幸せになれる気がする。
……なんて、思いがけず大層な話になってしまったけれど。
未来に期待するなんて、いつものことか。
結局は今を、頑張るしかないのだ。頑張りたいな。
もう後悔しないように。
手遅れになる前に。
今が更ける前に。
了
2023年3月14日
付録:キョムキョムキャンパスライフ
こんにちは、もうすぐ学生じゃなくなるゆず/柚子湯/しとろんです。
ここまで長い文章を読んでくださった方、ありがとうございました。
何やら小説の「あとがき」みたいなものが始まったな、とお思いかと思いますが(ややこしい)、正解です。これは「あとがき」です。
ずっと、書きたいと思っていたんです。
あ、いえ「あとがき」の話ではなくて、この記事の話です。
半年くらい前から、自分の大学生活を客観的に振り返りたいなと思っていたんです。
そして、実際に卒業が決まってから書こうと思っていたんですが、
やってみたら死ぬほど大変でした。
多分、これ普通に合計20時間くらいかかってます。3日に分けて書いたけど、どの日も結構な時間書いてたので。
いやー、下書きどころか構成も全く考えずにnoteの記事を書くのは毎度の事ですが、なんだか今回は上手くまとまった気がします。
「おわりに」なんか、若林正恭が乗り移ったみたいになってましたね。それは失礼か。すみません。
アドリブで書いた割に、淀みなく、そして綺麗にまとまったので嬉しくて「あとがき」を書いてしまったという訳です。すみません。
内容は重かったり、暗かったり、そもそも私という人格がしょうもなかったりと、色々問題点はありますが、それなりに面白いものになったのではないでしょうか。
読んだ方にとって、そうであることを願うばかりです。
(もうエッセイストみたいな風格出すな)
さて、見出しに書いてある「付録」ってなんやねんと言うと、これはおまけです。
4年後期は1曲も投稿していないと書きましたが、実はお蔵入りになったラップがひとつあったんです。多分9月から10月にかけて作りました。
その曲のタイトルが「虚無虚無キャンパスライフ」でした。
前期の成績を受けて相当落ち込んでいた最中に作っていたんでしょうね。
私は内定を失う訳にいかないし、卒業するしかない。でも、卒業できなかったらどうしよう。もうその時は、死ぬしかないか。
…なんてことをぐるぐる考えていた時に、「生き延びなきゃ」と書いた曲です。
最後に、この場をお借りして、その歌詞をここに供養させてください。
それでは皆さん、お元気で。
素敵なキャンパスライフを過ごせますよう。
大学4年間で私が成したこと。
勉学・・・修得単位134単位
小説・・・長編2つ(25話+74話?)、短篇1つ。合計およそ30万文字
音楽・・・オリジナル曲16曲、カバー1曲、ショートソング3曲
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