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今宵の猫のように

「おつかれさまです、お先に失礼します」
アパートの一室の扉を開けると、ひんやりとした夏の夜の空気に包まれる。
時計は20時を回っていた。
駅へ降りていく線路沿いの坂道を下る。
ああ疲れた。
いったい今日は何時間働いたんだろう。
お昼ごはん何食べたっけ。
そもそも食べたっけ、あれどうだったっけ。
笑い声がどこからから聞こえた。
カレーの匂いが香る。
お腹と涙腺がキュッと収縮した。

今の職場、大宮駅近くの訪問介護事業所に入職して1年は経った。
人手不足に次ぐ人手不足、病欠に次ぐ病欠、残業に次ぐ残業。
無事に、というわけではないが、我ながらよく続いたと思う。
出入りの激しい業界だ。
よっぽどの要領の悪さでなければ半年経てば中堅、1年経てばベテラン、それを越えればお局扱いになる。
幸いにも中堅を経て、ベテランに至っていた。
お局になるその前にどうにかして寿退社したいんだよなあ、なんて思いつつも颯爽と連れ出してくれる白馬の王子様なんていない。

27歳。
流されるように生きている。

今日はやけに疲れていた。
仕事内容的には充分楽なものだったし、酷いクレームをもらったわけでもない。
お局様のご機嫌もよかったのに、なぜか体も心もぐったりしていた。
顔の表情筋が痙攣しはじめているし、振動が足から全身に響いてくる。
「腰やっちゃったかなあ」
と1人で呟いてみたけれど、理由はわかっていた。
1つは近づく低気圧で頭痛がひどいから。
2つは数日前に元同僚が思い切って異業種に転職をし、天職を見つけたという話を聞いたから。
そんな彼を少し羨ましいと思ってしまったから。
仕事も何もかもやめてしまいたい。
自分の好きなことだけをして生きてみたい。
3つ、じゃあ好きなことややりたいことが何かあるかと聞かれれば何もないから。
仕方がないよね、と空を仰ぐ。
表現し難い葛藤に叫び出したくなる。

小さく呼吸をしたとき足元で小さく
「ミィ」
と聞こえた。
交差点脇の花壇、街灯の下。
一瞬幻聴かと疑ったが、足元には確かに子猫がいた。
「どうしたの、こんな夜遅くに」
「ミィ」
「なにも持ってないよ、おうち帰りなよ」
猫はパッチリとした眼で私を見ていた。
何かを待っているようなまっすぐな瞳に月が反射している。
ごめんね、多分あなたが待ってるのは私じゃないと思うんだ。
心の内を透かしたように、子猫は少しトーンを落として鳴く。

背後から坂道をくだる自転車の音がした。
カラカラとやかましい音を立てて、少し後ろで止まった。
「松岡さん」
さっきまで一緒に勤務をしていた同僚の松岡さんだった。
髪型や髪色が若いから同世代にも見えるんだけど、近くで見るとそれなりにおじさんだなと思う。
なんとなく気だるい印象なんだけど、表情はいつも穏やかに笑ってる。
自転車のカゴのねじが1本外れてうるさいから早く直せ、とお局に怒られていたっけ。
そのやかましい自転車を押して、こちらを見ていつものようにニッと笑った。
「その猫、俺待ってるの」
「ええ?」
いいから見てなって、と背中に背負ったリュックから巾着を取り出した。
「ミィ」
子猫がきっと嬉しそうに鳴いて、松岡さんの足元へすり寄っていく。
「……うっそだあ」
信じられなかった。
「本当はいけないんだけどさ」
と言いながら松岡さんがキャットフードを猫にやる。
猫は松岡さんの大きな手からポリポリとご飯を食べ始めた。
「可愛い……」
思わず口に出た。
「ね、可愛いよね」
自販機の明かりの下、ほんの少し涼しい風が吹いた。
キャットフードをもっと欲しい、と子猫が鳴く。
「可愛いですね」
子猫の愛らしさに思わず笑ってしまった。
こんな気持ちは久しぶりだ、と目頭が熱くなる。
ミャアミャア鳴く子猫を撫でながら、松岡さんが口を開く。
「こういう仕事って何故か急に辞めたくなる瞬間ってあるじゃん?介護の仕事は嫌いじゃないはずなのにさ。多分疲れてるんだろうなって。だからさ、たまに猫ちゃんに話聞いてもらうんだ」
松岡さんの大真面目な顔を初めて見た。

松岡さんとはさほど仲が良いわけではない。
プライベートの話などしたことがないし、アドレス交換すらしていない。
というより他の誰ともアドレスの交換をしていない。
仕事の愚痴をゆっくり話せる間柄の同僚は少ない。
仕方ない、訪問介護という個人プレーの色が強い職場だから仕方ない。
でも少しだけ寂しいかなとも思う。
朝から晩まで文字通り身を削りながら働いて、給料日だけを楽しみに生きる。
好きなことをして生きたいなんて思っても、じゃあ好きなこともわからない。
考える暇もない。
そんな生活は、少し寂しい。

松岡さんが子猫のお腹を撫でながら話しかける。
「おつかれさまだよね。がんばったよね」
「ミャア」
「俺がんばってるよね。えらいよね」
猫に話しかける松岡さんの言葉にどきっとした。
ときめきだとか恋とかではない。
さっきの寂しさが色と熱を持って心に押し寄せてきたからだ。
思わず涙が落ちそうになったけど、ギリギリのところで堪えた。
上を向くと大きな月が鮮やかににじんだ。
「月、めっちゃきれいですよ」
「本当だ」
撫でる手を止める松岡さんの指を、子猫がパンチする。
また笑って子猫を撫でた。

それからしばらくして子猫におやすみを言って、曲がり角で松岡さんと別れた。
「では」
「また明日ね」
ネジが1本外れた自転車はまたやかましい音を立てながら、住宅街に消えていく。
うるさいからいいかげんに直しなよ、と思いながらその背中を見送った。
左側をついてくる月を見上げながら、線路沿いの坂道を下っていく。
やがて駅が近づき、人生を励ますメロディが駅から聞こえてきた。
人生に旅立つ電車を見送るメロデイ。
現れたのは白馬の王子様じゃなくて、自転車に乗ったおじさんだったけど。
私は私でもう少し頑張ってみよう。
この汗も涙も、いつの日か輝くだろう。
今宵の月のように。

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