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あの日のメリークリスマス

生まれてはじめて渋谷という街に来たのは、17歳のクリスマスイブだった。

ハチ公口の改札口のその先、交差点前には人が溢れかえっていた。
爆音で流れるクリスマスソングが空で合唱している。
夏の田んぼでよくみるカエルの合唱のようだった。
イルミネーションがともり始め、青や緑、黄色の看板が光り出す。
叫び声に近い笑い声は、夏祭りのどんちゃん騒ぎのようだった。
さすがにこれだけ混みあっていると会話もままならない。

「すごいね」
「ん?ごめん聞こえなかった」
「ううん、大丈夫。行こう」

私が彼の左手を強く握り、彼もまた握り返す。
スクランブル交差点の信号が青色に変わって、後ろから波に押されるように私たちは歩き出した。

2002年、12月24日。
どちらかがこの手を離したらすぐちはぐれてしまうかもしれない危うい街に私たちは立っていた。


北関東の片田舎で、学校と自宅の往復を繰り返していた日々。
学校からの帰り道、彼の自転車の後ろに乗って走る。
公園で夕日を眺めながら長いキスをして、たまに繁華街のゲームセンターに寄り道をして遊んでいた。
制服で遊んでいると巡回中の警官に注意されるから、時間には気を配っておく。
とはいえみんながやっていることだから、と少しスリルを楽しんでいた感もあった。
夏休み明けの放課後は、大人になった話をたくさん聞いた。
全力で走り、全力で笑い、全力で恋をして、生きていた。
全ての力を出し切っていて、過去も未来も考える余裕がなかった。
何もかもが現在の一瞬に凝縮されていた。

私たちは時々手をつなぎなおしながら、祭りの中を歩き始めた。
CDショップで流行りのCDを視聴。
この歌詞が好きだの、イントロのギターがかっこいいだの、好き勝手なことを言って笑いあう。
ヘッドホンをそれぞれ片耳に当てて目を閉じると、音楽の向こう側に彼の体温を感じる。
音楽聞いてる横顔好きだなあなんて見てると、不意に目が合ってしまって距離の近さに驚く。
彼はこのころ洋楽が好きで、MDウォークマンでエミネムなんかをよく聴いていた。

「でも洋楽って歌詞がよくわからないんだよね。訳せなくもないけど、日本語にしちゃうと違う感じがする」
「まあね、多分雰囲気だよ、雰囲気。ほらみてこれなんかカッコいいじゃん」
雰囲気ねえ、と私はアヴリル・ラヴィーンのジャケットを手に取った。
日本だろうがアメリカだろうが、世界はとても近いものだった。
というより自分たちは何でもできて、これから輝かしい未来が待っている、と疑いもせず信じていた。

化粧品売り場に寄り道して、新作のグロスを試してみる。
「どう?」
CMのモデルみたく唇を強調してみると、彼は困ったように「食べちゃいたい」と照れながら言う。
なんだか私まで恥ずかしくなって、こらえきれずに笑ってしまった。
「じゃあどうぞ」
なんて言ったりもして、普段の学校だったら恥ずかしくてできないけれど、このお祭りの中なら許されるような気がしたのだ。
誰も私たちのことを見ていない。
この町にいる人は、みなそれぞれの一瞬に夢中なのだから、と。

一瞬一瞬を積み重ねているうちに、時間が18時に近づいていた。
日はとっくに暮れている時間なのに、街はむしろ昼間より明るくなっている気がした。
渋谷の駅から10分くらいは離れている界隈、駅前の混雑も少し落ち着いていた。
道端のインテリアショップのショーウインドーに飾られた赤い椅子に足を止めた。
「あれいいな」
彼が示した先には2人用くらいのダイニングテーブルと、背もたれと座面が赤く塗られた木の椅子が2つあった。
「あの赤い椅子?」
「そう、あの椅子」
丸まった角が可愛らしくて、あたたかい色の照明に照らされていた。
「あんな椅子がお部屋にあったらね」
「うん、すてきだと思う」
ショーウインドーに私たちの顔が反射して、私と彼が2つの赤い椅子に座っているように見えた。
「あの椅子に座ってなにするの」
「えー、テスト勉強?」
「もうちょっとおしゃれなことしようよ」
彼は私の方を見て、少し考えてから言った。
「じゃあ、日曜日の朝にあそこで朝飯たべる」
「いいね、何食べる」
「フレンチトーストがいいな」
食べ物の話題になったとき、2人同時にお腹の音が鳴った。
一瞬目をあわせて、その次の一瞬に笑っていた。
何度握りなおしたかわからない手を、もう一度気づかれないように握りなおした。

この椅子を彼に買ってあげたい、そんな気持ちがこみ上げていた。
今はまだ高校2年生だけど、3年生になったら大学受験だ。
来年、ふたりで同じ大学を受けよう。
再来年、ふたりで部屋を借りて、一緒に住もう。
そしていつか結婚しよう。
それまでずっと他愛のないおしゃべりを続けよう。
自転車に乗って夕日を眺めて、ヘッドホンを分け合いながらCDを聴こう。
たまに少し大胆にキスを迫ろう。
そして日曜日の朝にフレンチトースト作って、ふたりで食べよう。

ショーウインドーの中には未来が照らされていた。
いくつもの一瞬が幾重にも重なり合った未来。

椅子の値段は、2万円という高校生にしてみれば途方もない数字だった。
大人になればすぐに買えるんだろう。
でも2万円なんて高校生がすぐに出せる額ではない。
それでも彼は椅子を眺めていた。
「あっ、でもほら私年明けからバイトするから。そしたらそれで買おうよ」
「そうだね、俺もバイトもっとするし」
また来年こようね、といって私たちはショーウインドーを離れた。
「待っててくれるかな」
そう彼に聞くと、優しい声で言う。
「待っててくれるよ」
つなぎなおした手の中にはタイマーがあって、きっとその一瞬を捉えていてくれる。
時間が止まればいいのに、と明るい夜空を見上げた。

その手は、翌年の夏に離した。
どちらが先に離したか、というよりもどちらも同時に離した。
そしてつなぎなおされることはなかった。
約束したクリスマスは来なかった。

あの赤い椅子があれからどうなったのか知らない。
誰か別のカップルが購入して、オシャレな部屋に置いたのかもしれない。
そこでテスト勉強をしたもかもしれないし、あるいは洋楽でも聴いたのかもしれない。
大胆なキスを迫ったり、あるいはそこでプロポーズでもされていたのかもしれない。

あの椅子の未来を想像すればするほど、私たちが交わした約束が、どれほど浅はかで、無責任で、適当な約束なものだったかを思い出す。
現在の一瞬に夢中で、何も疑いもしなかった。
ただひたすらに明るい未来を信じていた。

この渋谷の街の片隅で、何物にも代えがたい幸せを握りしめていた。

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