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「貞観政要」 を読んで

皆様、いかがお過ごしでしょうか。2月に入り、少しずつ暖かくなってきましたね。植え付けも始まる段階に入ってきて忙しくなりそうです。

最近は上手くいったりする時だからこそ自省も含めて常に見つめ直さなければならないことがあることを思わされます。というのも、最近はKindleの本をAIに読ませてオーディオブック化させていまして、その中で読んだ「貞観政要」。人間というのは最後の最後まで立派で居続けることの困難さを表している著書でもあるからです。唐王朝建国者の李淵の次男であり、中国の方々の中でも知らない方はいないと言っても過言ではない、中国史史上屈指の名君の一人、李世民の言行録です。

https://www.amazon.co.jp/dp/4480096957/ref=cm_sw_r_cp_apa_i_DNY7DTH51SHKB4R8NG26

この本で書かれているのは

①常に自省する
②話には耳を傾ける
③直言してくれる人間を傍に置け

主にこの3点ですが、「何だ、それしか言ってないのか」と思いがちですが、この3点が実に難しい。李世民自身も晩年は部下の直言を振り切って高句麗へと遠征して大失敗しています。つまり、自分をいつまでも律し続けるというのはいつの時代も難しいのでしょう。名君と呼ばれた人間でさえも。

日本の教科書でも出てくる、「遣隋使」として知られている隋王朝に仕えていた唐王朝の太祖・李淵の息子である李世民が部下との対話を通じて政治とは何か、名君であり続けるには何が必要かをひたすらに会話している、言わば対談集です。秦の始皇帝、漢の劉邦、前秦の苻堅、隋の煬帝と失敗をしている人物たちをは引き合いに出しながら部下に対し、「彼らの轍を踏まないためにも私に常々直言して欲しい」と本の中でも語られていますが、李世民が貞観の治と呼ばれるほどの治世に持っていけたのは隋王朝が整えた科挙を初めとした各種の制度に加えて、隋王朝の二代皇帝・煬帝が建設した大運河という既に作られたものをベースにして伸びて行ったのは事実ですから、単純に批判すればいいのではないということもまた李世民が煬帝をこき下ろしている一方でそうした恩恵も受けている訳ですから、そこを分かっていながらも恐らくは立場上、口が裂けても言えなかったのだろうと推測しています。

唐王朝のルーツは鮮卑族、所謂モンゴル系の民族です。南北朝時代の北魏王朝の異民族防衛のために置かれた「六鎮」の有力派閥・「武川鎮」の血統を継いだ子孫でもあります。つまり、お坊ちゃんの中のお坊ちゃん。だからこそ、貴族閥が唐王朝で幅を利かせていた弊害がありつつも、その貴族閥の血統であることを活かして政治を動かしていった事実もありますから、政治というのはつくづく難しいものだと感じざるを得ません。

唐王朝の「貞観の治」と呼ばれるまでの繁栄を作り出すまでには段階があって、隋王朝が滅亡した後はお決まりの通りで中国大陸がグチャグチャになりました。

17つも国が乱立していた訳ですから、どれだけの混乱ぶりかよく分かります。そんな混乱極まる中で勢力を伸ばしたのがその中の一国に過ぎなかった唐。そんな唐が群雄割拠を生き抜いて、統一王朝となったのは太祖・李淵に加えて息子である太宗・李世民の活躍は当然のことして、その配下であった名将・李靖の力が大きかったようにも思います。その李靖と語り合っている著書「李衛公問対」が知られているところです。

李世民が即位するまでにも唐王朝建国の困難に加えて、兄弟間の血みどろの権力闘争がありました。皇太子だった兄・李建成とその弟が李世民の活躍を妬むと共に「あいつが俺の地位を奪うんじゃないか」と恐怖を感じ始め、李世民も「やられるくらいなら兄貴を殺す」ということで自らの手で兄と弟を暗殺します。この時、ちゃっかりと兄の妻だった鄭観音を娶ろうとしていたりと人間の欲深いところもしっかりとあったりして人間臭さも感じます。

唐王朝が日本に与えた影響は絶大で、最澄と空海が渡海して、鑑真和上が来日した唐招提寺といった仏教を初めとして阿倍仲麻呂や山上憶良といった奈良時代のエリートの極みにあった人物達が遣唐使として渡り、日本本国では「日本書紀」、「古事記」を著すキッカケとなり、李白に杜甫、白居易といった詩人たちの影響を受けてか万葉集や古今和歌集といった文化も生まれました。どれもこれも秦王朝から漢王朝、晋王朝、五胡十六国時代から南北朝時代、隋王朝と時代を経てこその繁栄ですから、一部分だけを切り取って「今が最高だ」というのは短絡が過ぎますし、流れを見てこその今現在だと分かるとより理解ができるのではないかと思います。

唐王朝は兎にも角にも、8世紀頃の世界の覇者であったことは間違いありません。当時のロンドンの人口はたったの3万人。それと比較したら中国の人口は5000万人ですから、どれだけ唐王朝が繁栄を極めていたのか分かりますし、地図を見ても分かるように様々な国の文化をゴッソリ取り込んで発展していったことで「貞観の治」と呼ばれる大繁栄を享受できたのは間違いありません。

しかし、繁栄というのは長くは続かないもので、李世民も晩年になると後継者問題に悩まされると同時に、朝鮮半島の情勢にも対処しなければならなくなります。百済王朝と高句麗王朝に挟撃され、今にも滅びそうな新羅王朝から救援要請が来たことで高句麗を攻める決断をしますが、これが大失敗。煬帝と最終的に同じ轍を踏んだことになりますが、新羅を放っておいたら間違いなく高句麗が増長してくることが予想されたでしょうから、ここは判断が難しかったのだろうと感じます。

やがて、李世民は亡くなります。息子の高宗が跡を継ぐものの、大人しい性格だったために愛人だった則天武后が実権を握ることとなりますが、この則天武后こそが夫である高宗の正妻を殺しては自らの子供も何人も殺した一方で市政の人々には優しく、人を見抜く目に長けていたこともあって名君としての側面を発揮しました。そして時は巡って9代目の皇帝である玄宗が変革の必要性を感じながらも既得権益と化した貴族閥に阻まれ、政権内では権力闘争の激化、制度疲労による限界といった構造問題を抱えつつも何も改革出来ないことに倦み始めたのか、楊貴妃に溺れ出して政務を省みなくなり、やがては安禄山に反乱を起こされ、唐王朝は権威を失い、最後は闇塩の商人だった朱全忠にトドメを刺され滅亡する流れになります。膨張に歯止めが効かなくなり、そこから生まれる歪みや綻びに対応できなくなっていった「大企業病」は万古不易なのでしょう。

そして、時代は太宗が思い描いた形とは裏腹に五代十国時代と呼ばれる大戦乱時代を経て宋王朝の時代へと移ります。個人がいかに律し続けても、能力が高くてもどうしても限界がある。仕組みもやがては制度疲労を起こす。律し続けて、改善し続けていくことこそが大切なのは誰もが分かっていることですが、人というのは自分が慣れている方法を、楽な方法をどうしても選びがちです。ただ、そんなことも永遠に続くわけが無いことは今日の流れを見ていてもよく分かります。ただ、個人の心がけとして心掛けられることは厳しくも、難しいですが、心掛けていきたいものです。

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