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2022旅行記 Part.2 隆盛極めし盛唐と向かい合う日本。文化遺産から見える唐王朝の影響

皆様方、いかがお過ごしでしょうか。腹痛やら何やらでエントリを書くのが遅れてしまいました。忘れない内に、記録として残しておこうと勝手ながら思い立ったので書かせて頂きます。前回1月3日に綴った旅行記の続きとなります。

5.薬師寺



天皇家の権力闘争、壬申の乱を勝ち抜いた天武天皇が恐らくは帝位簒奪の罪の意識からか、建立しようと決めたようにも感じられました。この頃の日本は仏罰というのをとにかく1番に気にしていたのかもしれません。旅行後に調べてみましたが、天武天皇は妻である持統天皇の病気治癒のためということも含めて建立したようです。

仏像はもちろん撮影禁止でしたので、ここには載せられませんが、実際に間近で見る薬師如来は黒々としてただ、ただ有難い感情が沸き起こってきました。

また、今回は三蔵法師として知られている「玄奘」の大唐西域記のエピソードと絵画も公開されていて、玄奘が回った地帯の絵画も公開されていて、元々は「西遊記」と違って密出国で長安を出て、そこからインドを目指すという物語ですが、飛行機も車もない時代。ただひたすらに歩き続けてインドに辿り着き、戻る際も死ぬ思いで長安へと戻ります。

ただ、この当時は戻ったら戻ったで無断で出国したら死刑に相当します。つまり、このまま帰れば斬首刑になるわけです。ということで、玄奘は当時の皇帝だった李世民に取引を持ち掛けます。李世民は優秀極まりない玄奘を配下に起きたいと考えましたが、頑なにスカウトを断り続けた結果、李世民から「部下にならなくてもいいが、その代わりお前が持っている西域の情報を朕に献上せよ」と折衷案としての取引条件を持ち掛けられ、国家の利欲に利用されていることを知りつつも了承します。

後世の人々が精神的な安らぎを手に入れられるのであればと「大唐西域記」を献上します。結果として、軍事機密を知りすぎてしまったがために愛弟子は殺されてしまう悲劇はありましたが、そうした悲哀を乗り越えて仏教が日本に伝わったのだと考えるとドラマを感じます。

6.唐招提寺


盛唐玄宗期の末期。日本においては脱税のために仏教徒になる人間が続出したため、戒律を授けられる僧侶が必要ということで鑑真和上に白羽の矢が立ったことは知られている通りです。鑑真和上は唐王朝の首都であった長安ならびに副都・洛陽において並び立つ僧侶がいないと言われるほどの僧侶だったようです。

長屋王が袈裟に

「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」

(地域や国が異なっても、風月の営みは同じ空の下でつながっている。この袈裟を僧に喜捨し、ともに来世での縁を結びましょう)

このような文字を刻んだものを手に長安へ渡った栄叡と普照の2人の僧侶の情熱が伝わり、鑑真は失明をしてでも日本へと仏教の教えを伝えようと日本へ密出国してでも渡ることを決意してくれた結果が今の歴史的建造物を、文化を残すことに繋がったと真近で見たことでより強く伝わってきます。

鑑真和上という人物は非常に運が良く、唐招提寺が建立されたのは759年。この歳には中国大陸はとんでもないことになっていました。中国の歴史に残る大乱の1つ、「安史の乱」が巻き起こっていたからです。安禄山と史思明によって長安と洛陽は悉く破壊され尽くし、その有様を見た杜甫が思わず「国破れて山河あり 白春にして草木深し」で知られる「春望」を詠んだくらい荒廃していました。

李隆基は四川へ逃げ、楊貴妃の一族は悉く殺され、皇太子は勝手に挙兵し、華南の自兵団が自ら安禄山の軍勢と戦って防衛に成功するというするという混乱極まる唐王朝の現実があり、巻き込まれていたら日本に伝わらなかったものも多かったのではないかと想像が付きます。逆に「安史の乱」が発生してしまったからこそ日本へと帰れなかった人物が阿倍仲麻呂です。

「安史の乱」以降、唐王朝は慢性的な財政難と地方の節度使たちを抑え切れずに、その現実に皇帝たちが諦観してしまったのか遊び呆ける皇帝が次々と出てくる有様となってしまい、唐王朝は一時的に節度使撃退と税制度改革に成功するも150年後に滅亡してしまうという結末を迎えます。その結果、首都が長安から港町・汴州、後の開封へと移り、ここから農本主義から貨幣経済へと一気に舵が切られることとなる唐宋変革期を迎えます。

鑑真もあのまま長安にいたら命を落としていたかもしれませんから、まさに「万事塞翁が馬」。武則天が自らの政権を固めるために利用した仏教と仏教徒たちが図らずも日本文化を深化させる大いなる一助になったことを考えると、歴史というものが如何に一筋縄ではいかない複雑さを併せ持っているかが分かる気がします。

7.二条城

京都にも来たので折角なら訪れようと思って参りました。京都を歩いてみて幕末という徳川家が築き上げてきた政治システムが大きく揺れ動く中で幕府を倒して新たな体制を作ろうと考える勢力と守り抜こうとする勢力がぶつかり合った街なのだと考えると、京都が如何に血の犠牲によって作られた街なのか考えたりもしました。

京都がなぜ戦いの舞台になり続けてきたのか。その理由は「天皇がそこにいたから」です。その始まりは奈良時代末期に称徳天皇が寵愛した道鏡を始め、仏教勢力たちが本来の教えからは逸脱した振る舞いをして、増長し出したように退廃的色彩を帯びてきていた事が大きく、そのことを危惧した桓武天皇が仏教勢力の影響力を削ごうと考えて平安京へと遷都したことから京都の歴史は動き出しました。だからこそ、「源氏物語」のような日本が誇る名作が生み出される土壌が生まれたとも言えます。

ただ、日本のイメージの大半はやはり幕末。そんな幕末において、徳川家最後の将軍、徳川慶喜が大政奉還をした場所として知られていますが、幕府を運営することの限界を感じていて、日本の行く末を考えた上での決断だったのだろうと今ならば現場を見たら推察できます。現代日本の始まりの場所。そこに大いなる意味を感じますし、当時の徳川慶喜はフランスとイギリスが自分たち日本人を利用するだけ利用したら、最後は植民地支配に乗り出すために動き出すという見え透いた手口を分かっていたはずで、だからこそ実権を朝廷に返すことにし、内戦を長引かせて海外が干渉してこないように手を打ったという見方も出来ますので、最後の将軍としての決断の重さと、日本が今まで経験したことがなかったことに対する重圧もあったであろうことに加えて、複数のことが次々に起こったからこそ、決断したことだったでしょう。それが正しかったのか、間違っていたのかは分かりません。けれども、孤独の中で下した決断が日本の今に繋がる道を作ったのだと思うと、先人への感謝が増すばかりです。

〇終わりに
ずっと行きたかった所へと赴くことが出来ましたので良い旅になったと個人的に考えております。奈良は思っていた以上にとても広く、日本の始まりの場所としての意味も時間軸の長さと深さもこの身で少しだけですが体感できた気がしました。

そして京都では天皇という存在を巡って命を散らし合った男たち、女性たちの人間ドラマが詰まりに詰まった街のように感じられました。もちろん歴史に彩られた風靡な華やかさが京都にあります。しかし、長い時間軸で見れば京都は血によって作られてきた街でもあります。そして、舞台が明治維新となり、京都から東京へと移っていくのもまた変わらないものと、変わっていくことの無常観とそこに隠された本質を歩いていて感じられた気がします。

オミクロン株が拡大してきて、まだ油断ならない状況ではありますが、自分の時間が許すのであれば奈良や京都だけでなく各地を時間を少しだけ作って回ってみたいと考えています。


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