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子供に「なぜ人を殺してはいけないのか」と聞かれたら答えることはできるだろうか?

あなたは、自分の子供に「なぜ人は虫や動物を殺すことは許されているのに、人を殺してはいけないの」と聞かれたとき、適切にその理由を答えることができるのでしょうか。
やはり多くの人がこの問いに明確に答えることはできないのではないでしょうか。
今回はそんな問いを題材とした一説を紹介させていただきます。


数年前に、もし子供たちに「なぜ人を殺してはいけないのか」と問われたらどうこたえるかという議論が起こった。

しかし私には「なぜ人を殺していけないのか」という問い自体がずいぶん抽象的に思われた。

「なぜあなたを殺してはいけないのか」とか、「なぜあの人を殺してはいけないのか」とか言った質問ならば殺人の対象となる本人がすぐに「生きていたいから」とか、「むしろあなたに殺されなければならない理由は何か」と返答するであろう。

多くの人が、子供たちの発する「なぜひとをころしてはいけないのか」という問いにすぐに答えられなかったのは、それが「人」という一般的なものを対象にしているからである。

ある特定の人物を殺害する場合には、その行為を禁止し抑制するのは、共感からか(その人を殺すのは気の毒)、あるいは互酬性(自分か自分の愛する人が報復される)の結果を予測するからである。しかし一般的な形で問いかけられた場合には、殺人の対象となる人物を具体的にイメージできずに、殺人の停止を訴えかける声(それは報復を準備する声でもある)がどこからくるのかわからなくなってしまう。

殺人という行為に対して相手(の仲間)から報復がやってくるということをすぐに思いつかなかった人は、法律の支配する社会に安住しているのではないだろうか。復讐というかたちの互酬性を禁じ、同時に、道徳的行為を普遍的な指令として一般化しているのは、法律でその住民たちを支配している社会である。法的社会とは、暴力を一元的に管理し、独占している社会のころである。

ニーチェによれば、ルサンチマン(怨念)とは、復讐を果たしえない人間が、それを内面化し、精神化し、反動化して、腐敗させたものである。
復讐をそのまま実行しようとするものは古代ギリシャ神話の英雄たちのように「怒りの人」であり、ルサンチマンを持つことがない。 

ルサンチマンを持つ人間は「最後の人」と呼ばれるが、「最後の人」とは法的社会が作り出したものであり、それはニーチェによれば、負債を返済できないでいる人間なのである(以前の著作で論じたが、少年の「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対してすぐに回答できなかったのは、殺人を禁止する理由を人間の相互性のなかにではなく、自分の心理的な動機の中に探していたからである。そして、殺人を禁止する根拠が自分の内部にはないことに気づいたのであろう。こうした内面中心主義・心理中心主義の問題とこれから述べる法的社会の問題を深く関連している)。

だから、上位の法的権力が存在しない国際社会では、「なぜ人を殺してはいけないのか」と同じ形の「なぜ他国を攻撃してはいけないのか」という問いを発する国家は存在しない。そうした科白(台詞)をはいたこと自体が、戦争準備の宣言と受け取られ、かえって先制攻撃をされる口実を与えるかもしれないからである。

ある特定の個人について、「その人」を殺してはいけないと述べるのは、本人自身とその人に共感する〈その人を愛している〉人々であろう。
それに対して、「人」を殺してはいけないと命じるのは、法的社会である。「その(特定の)人を殺してはいけない」という指示は「内面」な自己指令である以前に、他者からの要請や懇願であり、それを行ったときには攻撃に出るぞ、という他社からの警告でもある。それは国際的な停戦協定のようなものである。わたしたちがその要請に従っているのは、相手との戦争という互酬状態に戻りたくないゆえである。しかしこれが、「人を殺してはいけない」という道徳指令になったときには、問題は私と相手との関係ではなく、私と法的社会との関係に移行しているのである。「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いは、それゆえ、法的社会へ反抗のような意味合いを持っているのだろう。

これまでの哲学的あるいは心理学的あるいは心理学的な道徳感情論は、共感が一般化される過程を抽象的に論じてはいても、それを社会の法と権力に結びつけて論じる仕方が頼りないように思われる。それゆえに、道徳的規範、特に近代社会のそれが普遍的な指令性を有していることを説明しそこなうのである。

私たちは、自分が直接に見知っっている人たちに共感する(しないこともあるが)普段は嫌っている人でさえ、その人が亡くなったと聞けば、ある種の悲しみと喪失感を感じる。しかし個人的な心理的能力である共感を超えて、ある範囲の人々に道徳的行為を要請するのは法的社会である。

ジラールは、『暴力と聖なるもの』という著作の中で聖書やユダヤ子文書、ギリシャ悲劇、前ソクラテス派の著作、文化人類学からの報告などの様々な資料をもとにして、供犠(いけにえの儀式)がどのような社会的機能を持つかを解明している。

結論から言えば、供儀とは暴力の拡散を防止するための暴力である。ジラールによれば、共同体の中で何らかの暴力が発生した場合、互酬的な作用に基づいて暴力は暴力を呼び、復讐は復讐を呼んでいく。互酬性は限りのないプロセスを生み、報酬の増殖は小さな社会の存続自体を危うくしかねないほどになる。社会はこの暴力の連鎖を断ち切る必要があるが、宗教的な社会におけるその方策が供儀なのである。

供儀は、死んでも惜しくない別の生き物(いけにえの動物、あるいは人間)を、文字どおりに「身代わり」としていけにえに捧げることで、暴力の矛先を向き変える。供儀は拡散した暴力をいけにえの上に集中させ、共同多胎にとって当たり障りのない対象にそのはけ口を与える社会的装置である。

さて、ここで注目すべきは、供儀の本質ではなく、次のジラールの主張である。互酬的な暴力を回避するために人間が用いる方策はいくつかある。宗教がいまだに重要であるような社会の中で、復讐の対象をすり替えて問題を回避する方策が供儀である。これに対して現代社会では、法体系が復讐が合理化し、復讐について絶対的な独占権を有している。この方による暴力の独占によって、復讐を抑え込み、激化させないようにしているのである。

そのために法的秩序は強大な暴力を必要とする。ジラールによれば、法体系の根底には供儀と同じ暴力が持ち越されているのだ(ここで「暴力」とは何かと定義しておくなら、「人を無力化する強制力」としておく。そのもっとも端的な表れは、もちろん人を殺すことである。他方、権力とは、「他者を服従させる力」と定義できる)。

しかし以上の論点は法哲学においてはすでに自覚されて久しいものかもして
ない。暴力とは通常、不法な暴力のことであり、法の実行(警察や軍隊の使用)そのものは暴力とみなされてはいけない。法が正当な力であるためには、法が暴力的であってはならない(同委によって法は守られなければならない)とされている。

こうして、法は社会の暴力を独占し、暴力を自己に属するものと属さないものに振り分け、事故に属する暴力を自今尾維持の手段とする。法は、自己の外に不法な暴力を措定して、自己自身を非暴力として演出するのである。

河野哲也「善悪は実在するか アフォーダンスの倫理学」


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