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"自己の連続性"と"モノ"

 アイデンティティをどこに立脚するかはその人によって異なるが、流動性という観点においては他者に立脚することは危険だと言える。他者とは自己のコントロールできないものであり、基本的には身体性を有さないものだからだ。ならば、自己に立脚していれば安心できるかというと、そうではない。自己というものも、十分な流動性を有するし、その身体性が損なわれる可能性は常に存在するからだ。仮にその人が、自身の能力にアイデンティティを立脚していたとしても、それは、事故によって失われるかもしれないし、ましてや老化によって失われることは回避できない。

 考え得る中で最もましな選択肢に、自己の連続性に立脚するというものがある。他人と全く同じ経験をする人間はいないからだ。しかし、自己の連続性においても、それの喪失の可能性は存在する。人間は環境の変化によってしばしば過去の自分との断絶を起こす。幼稚園や小学校に通っていた自分と、大人になってからの自分が完全に完全に連続した存在であるという確証がある人間がどれだけいるだろうか。(生物的にも、前者と後者は全く違う存在であると言える。)現在と断絶した、過去の自分の記憶は、もはや現在の自分にとって意味を持たない。そうではない、現在の自分との連続性を保っている記憶のことを「思い出」と言う。思い出は、自己の連続性を確かめる唯一の方法と言えるが、哀しいことに、人間の記憶とは信じられない程不確かである。(人間が持つ思い出は、ノスタルジーとして多くの場合で美化される。思い出を肯定することは、それと連続する自分を肯定することと同義だからだ。そして逆もまた然りである。)

 そこで人類は、モノによって自身の連続性を補完しようとした。思い出をモノに込めて、古今東西ありとあらゆるモノがそれぞれの思い出の品になってきた。思い出の込められたモノは、連続性を失った過去に対しても、それを通じて人間に連続性を感じさせることができるのだ。


 そしてモノたちは人類の連続性を、未来の人類へつないでいくのだ。

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