筆を選んで
「執筆には、モンブランの万年筆」
かの昭和の大作家松本清張はそう決めていたらしい。
そのこだわりには、今でも心底憧れている。
真っ白な原稿用紙に文字が綴られ、そこに今新しい物語が紡がれていく。
それでこそ創作。
そう思い続けてきた。
万年筆(モンブランでも高級品でもないが)を買ったことがある。
原稿用紙の束を積んでみたことがある。
でもそれはただスタイルを真似しただけだった。
机に向かっても、思うように言葉は綴れず、辞書を繰る時間ばかりが長く、そしで何よりミミズののたくったような字に辟易する。
向いていない。
そう思った。
ワープロ、そしてパソコンへと執筆のツールは変わった。
少なくとも、見るだけで嫌になるような文字の羅列を見なくて良くはなった。
ワープロだった頃は、それでも修正のたびに、印刷した紙をくしゃくしゃと丸め放り出す、漫画的な推敲のふりをしたりもした。
パソコンのワープロソフトに変わると、間違えて消しても、その画面が汚くなることはなく、何度でもやり直しが効いた。
間に言葉を足すことも、ほんの一部だけ異なる2種類の1ページを作ることも容易いことだった。
憧れの執筆スタイルではなく、邪道だなと思いつつ、それでもその便利さが手放せなくなった。
しかし同時にどこか心の中に、その方法、手書きではない便利さに流れたその書き方を、下に見る気持ちがあった。自分自身もそうしているくせに。
キーボードを打つだけで書く話なんて、本物ではないなどと、穿った思いを抱いていた。
きちんと読んだこともないくせに、ケータイ小説は文章ではないと思っていた。
「手書きで書けないこと=才能がない」
どこかでそう決めつけていたのだろう。
いつしか、あんなに好きだったなのに、書くこと自体から離れてしまっていた。
今では週に2、3回。
うまくすれば、毎日ペースで何かを書いている。
創作だけではなく、読書日記だったり、エッセイを模した雑文であったりはするが、少なくとも続いてはいる。
書く方法にこだわらなくていい。
とにかく書ければいい。
「書き方」にこだわるのはそのあとだ。
言い尽くされた諺だってあるじゃないか。
「弘法筆を選ばず」と。
思い込みが変わったきっかけは、おそらくこの“note”に出会ったからだ。
「案件」のようで恐縮だが、隠すことではない。
むしろ今回、この企画を見かけた時に、“note”に出会った時のことを思い出したのだ。
1年ほど前に、自分の気持ちの節目として何かしたいと思っていた時に偶然出会った。
世事に疎い自分がこんな便利なものを知ることができるなんて、それだけでもありがたいことだった。
今、私はこの文章をスマートフォンのフリック入力で書いている。
あんなに書けなかったのに、するすると文章が形になる。
いつのまにか私の「筆」は、手に汗を滲ませながら握る格好ばかりの万年筆でも、文字が薄れるほどに使い込んだキーボードでもなく、手のひらの中の小さな画面とそれをなぞる親指に変わっていた。
それでいいのだと思えた瞬間から、楽になった。
正直なところ、今更「何者」かになれると信じるほどに楽天的でも夢想家でもない。
ただ書くことが楽しいと感じる。
(もちろん時々は「欲しがり」になって、ビュー数が伸びないことや「スキ」がつかないことに懊悩することはあるけれど。)
おそらく“note”でよかったのだろう。
クリエイターとして、誰かに見せる前提で書いているのだという気持ちにさせてくれる。
そして“note”自体が書くこと、続けることを励ましてくれる。
うまくすると、他の誰かからも、「スキ」という形での応援が貰える。
悪筆を見るのが嫌になり、だとしても捨てきれず、反古の影でかび臭くなっている紙の束。
パソコンに打ち込みながらも、形にならないまま終わった、鑿跡だらけの木ぎれのような文章の数々。
全て私自身で書きながらも認めてあげなかったかわいそうな残骸たちだ。
私の思い込みに埋められていたそんなものたちが、もしかしたらこれから少しずつ蘇生するのもしれない。
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