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君がいた海へ よしもとばなな『海のふた』

『海のふた』は、ふるさと西伊豆の小さな町の海辺で、かき氷のお店を始めたばかりのまりちゃんと、まりちゃんの家にホームステイしながら、ひと夏を過ごすはじめちゃんの物語。物語の最初でふたりは出会い、一緒に過ごす夏の日々が始まる。はじめちゃんは、大好きなおばあちゃんを亡くしたばかりで深い悲しみの中にいる。

はじめちゃんは初めて来た町で、まりちゃんのかき氷屋さんのお手伝いをしたり、ふたりで色々なことを話したり、海に入って泳いだりしながら、日々を過ごしていく。その中で心身に負った傷や痛みは少しずつ癒えていく。まりちゃんもはじめちゃんと共に過ごす日々で様々なことを感じたり、考えたりして少しずつ変化していく。

この物語は、まるで海を眺めているような感じがする。静かな浜辺に佇んで、寄せては返す波を眺めたり、波の音に耳を澄ましたり、穏やかな潮風を頬に浴びているような感じ。または、夕暮れ時の海で赤い夕日や光る水面を眺めているような感じもする。読んでいると、心がゆっくりと落ち着いていき、すーっとした感じになる。

私はこの物語をかなり前に読んでいて、最近再読してみたところ、物語がまりちゃんの回想という形で語られていたことに気がついた。はじめちゃんと過ごしたひと夏が終わった後で、楽しく愛おしい思い出として、日々のことは語られていた。

この物語で「かき氷」というのが、とても象徴的だと思う。出来たてのかき氷はとてもキラキラしていて美味しそうだけれど、溶けていくと最初の眩ゆい輝きは失われていく。それは、楽しかった時間が思い出に変わっていく感じと似ている。

まりちゃんが住んでいる町は、昔はもっと活気があって、キラキラした輝きがあったけれど、今は廃れてしまっている。町の人たちが自分たちが暮らしている町に興味を失っていると、彼女は語っていた。

町の衰退について、まりちゃんがモノローグで語るところで、私は自分の住んでいる内野町や馴染の新潟大学周辺の昔の姿を思い出して、何だか切なくなった。よく行っていたけれど、今はもうないお店やもういない人々のことも思い出して。

物語の中には、松林の風景も描かれていて、自分の住む町からほど近い五十嵐浜や、小針浜なども思い出した。海の近くには同じく松林があるので、風景のイメージを重ねながら読んだ。物語の西伊豆の海とは全然違うんだろうけど。

この作品の文章は、抽象性を持たせて、良い意味でぼんやりと書かれているので、物語で描かれる風景は自分の住んでいる町にも重ねられるように思う。海辺の町に住んでいる人ならなおさら。

さて、ここで話がいきなり変わるけれど、私は寺山修司の海の詩が好きだ。だから、海と聴くと寺山のいくつかの詩を連想する。「書物の中に海がある 心は航海をゆるされる」と書かれた『あなたに』という詩や「つきよのうみにいちまいの てがみをながしてやりました」と書かれた『てがみ』など。

『一ばんみじかい抒情詩』という詩は、
なみだは
にんげんのつくることのできる
一ばん小さな
海です

と、書かれている。さて、よしもとばななさんの『海のふた』の話をしていたつもりが、寺山修司の詩の話になってしまった。『海のふた』の話に戻そう。

『海のふた』を読みながら、人が亡くなったり、場所や物が無くなってしまうと、後には何が残るのだろうということも考えていた。

海という果てしなく広大で、永遠に存在するようなものに対して、人間はあまりにちっぽけで、生きていられる時間もあまりに短く儚い。そして、人生の時間には多くの悲しみや苦しみが溢れている。だからこそ、どんな人も最後は「持ちきれない花束みたいなきれいなもの」をいっぱい持って行ってほしいと思う。若くして亡くなった人の最後は、特にそうであったならと本当に願う。

場所や物が無くなってしまった場合には、その後もそれらが存在していた時の思い出をちゃんと持ち続けたら良いと思う。受けて来た恩恵や愛情について、ふとした時に思い返してみて、ふふっと笑ったら良いと思う。感謝の気持ちとともに。そうすれば、かつて存在した場所や物は、現在の世界や時間にイメージとして浮かび上がる。この世界に存在していたことが認められるように思う。

もういないもの、ないもののことは気にするなという考えもあるかもしれないが、かつて存在していたもののおかげで、我々は現在に存在している。多くの不在のものたちが我々を支えているとも言える。生者は死者とともに生きている。ふとした時に思い出し、微笑み交わせばよいと思う。

『海のふた』を読んでいると、心や記憶の中の海を眺めている感じもする。海の風や音、匂い、砂浜の感触などの感覚的な描写が、心や記憶の中の感覚を喚起させるからかもしれない。その点で、詩や音楽のようにも感じる。読んでいると、何だかとても海へ行きたくなる。

君がいた海へまた行って来ようと思う。コーヒーを一杯持って。懐かしい歌を聴きながら。

追記
※小説『海のふた』のタイトルは音楽家・原マスミさんの同名の歌から。ばななさんは長年の熱烈な原マスミファンだ。原マスミさんのライブを昔、見たことがある。遠藤賢司さんとのジョイントのライブだった。場所は東京・渋谷の某所だったはず。お二人が共演した曲があって、お二人ともウクレレを抱えて並んで、一緒に歌っていた。何の曲だったかは思い出せないけれど、可愛い曲で、少し切ない演奏だった。音楽も海みたいなものだなと思う。

※『海のふた』には、沖縄出身の版画家・名嘉睦稔さんの版画が挿画として収録されている。沖縄的なトロピカルな色彩で美しく、物語を鮮やかに彩っている。物語の場面と挿画がとても良いハーモニーを奏でていて、うっとりする時がある。文庫版と単行本版では、文章に対しての挿画の配置が異なっていたが、収録されている作品数は同じみたいだ。

※「持ちきれない花束みたいなきれいなもの」は、『海のふた』の物語の中で、はじめちゃんが話す言葉の中に出てくる。何だかとても気に入っている言葉。この物語の中にはふとした会話の中やモノローグの中にとても印象的な言葉が出てくる。読む人によっても、時期によっても印象に残る言葉は違ってくると思う。やっぱり海の景色みたいな作品だと思う。

※海という場所は、様々なものが流れつく場所だ。流木や貝殻、魚の死骸などが浜辺に漂着して転がっている。かつて生きていたものが、死んで砂浜に当たり前のように散逸している。浜辺は海と陸の境界であり、生と死の境界だと思う。美しい夕暮れ時の浜辺を歩いていると、自分が生きているということが不思議に感じられる。そして、自分も死んでいくんだなと思うと、淋しく切ない気分になる。生と死の境界だから、そう思うのかもしれない。

『海のふた』単行本版と文庫版
寺山修司の文庫本
夏の日本海 佐渡は海の向こうにうっすらと


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