「あなた」という抒情――高塚謙太郎『哥不』感想

「そしてぼくは、ひとつの魂とひとつの身体のうちに真理を所有することもできるだろう」(アルチュール・ランボー『地獄の一季節』)

「詩はそこでより真なるものになるのではない。詩は、この縁に(sur ce bord)、この限界に(sur cetre limite)に置かれ、放され、打ち捨てられるだけだ。そこから出発してはじめて、真理を――つまりなによりも詩という最後の語の、捉えることができない、予測することができない、意味することのない、来るべきもの(L'a-venir)としての真理を――未来において所有することが、ただ名指されれているだけのこの縁、この限界に。」(ジャン=リュック・ナンシー『限りある思考』)

もう俺は詩を捨てちまった。そんな俺にどんな感想が言えるというのか。とはいってもこの所作が、この<書くという行為エクリチュール>が図らずも多弁となる。

高塚謙太郎『哥不』は、冒頭のエピグラフに「抒情的同位体」と記されているように、己の感情が揺さぶられ、表出し、――そして「あなた」という語の頻出によって、ある種の感傷や痛みを読み手へともたらす。
「あなた」――恋人か、肉親か、兄弟か、子供か、それらはどうでもいい――への切実な訴求として、この詩集は産み落とされた。

しかしどのようなつながりも所詮は時間の経過に伴って解体するほかはない。
私たちは生き、集い、歓談し、諍い、――そして死んでゆく。
家族も、友人も、会社も、趣味のつながりも、「今・ここ」に集まっているのは他でもない、奇跡というほかはない。
その一瞬、その刹那をこの詩集は描いているといえるだろう。

はなをとおったような空
と飛行機の音
髪留めのそこで
ヒナギクが
まわっている
あなたのことばによってわたしをあらわす
血潮の
めぐり
(高塚謙太郎「菊屋めぐり」『哥不』)

私たちは死者とつながっている。私たちは死者に多くを負っている。
ほかならぬこの言語自体が、今はもういない者たちが作り出し、何百世代にもわたって継承されてきたものだ。
法律、国家、貨幣、戦争、コンピュータ……等々。それらは無数の匿名の死者たちが作り出し、現在に至るまで継承されてきた。
高塚が「あなたのことばによってわたしをあらわす」というとき、あるいは「あなたの鳴き声とわたしのさえずり/交叉してわたしの声あなた/あなたのわたしは鳴き/あなたはさえずり」というとき、私には『哥不』に出てくる「あなた」がもうこの世にはいない存在――すなわち死者なのではないかという思いにとらわれる。
そこで高塚が試みようとしているのは、「あなた=わたし」「わたし=あなた」であることによって、ジャン=リュック・ナンシーの述べた「限界」、「縁」と同根ではないだろうか。

私たちは「ともにいる」とも「ともにいない」ともいえる、その限界、その縁に。

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