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ありのまま、あるがままな家族写真を。


普段、掲載許可をもらっておいてまったくもってどこにも掲載できていない写真が山ほどあって、今日こそは使わせて頂きます。

だいたい、クラウド納品システムを使って、撮影から2週間以内に納品をします。今朝納品したお客様からすぐさま、ご丁寧にお礼のメールをいただいて、そのメールに返信しつつ改めて掲載のお願いをしたので、絶対に今夜書くぞ!と誓い、ようやく書き始めたところです。

僕が常々思うのは、その家族における余白を残すこと。

↑の写真なんかは、バンザイして、なんか言ってないけど、盛り上がっていく中でこうすると子どもがマネしてくれて、のってくれることがわかって、パパママも普段からこういう遊びをしてるのかな、というくらいに一致団結でバンザイで遊んでくれて、弟くんはじっとしたくないので前に出ながらバンザイして、そんな写真です。

僕は写真館で勤めさせてもらっていたので正統派写真の大事さが頭にインプットされていて、こういうそろっていない写真は「パパママ、おじいちゃんおばあちゃんがイヤがるかな」「もっとちゃんとそろった写真が求められてるだろうな」と想像するのですが、

こんな”家族らしさ”の出る、”狙って”撮ってない写真が大好きです。
子どもちゃんたちには、本人の世界で好きなように過ごしてもらいつつ、「これならのろうか」ということをやってもらいつつ、「オウケイ、次はこうしてみない?」「そろった」写真を”狙って”いく。

らしさはギフトで、狙うのは義務です。そんな感じ。

スタジオで30〜40分撮影して、車移動で海浜公園へ行く。サッカー場のまわりにある緑と撮り、そのあとすぐ横の海へ。うちのスタジオ最上級プラン。


ああしてこうして、というお願いは、「光と背景を見て立ち位置を決める、並び方を決める、どう立つのか、どう座るのかでバランスを決める」、そういう全体像を決める役割りは必要ですが、そこからどうなるか、どれだけそこに居てくれるか、というのはそのご家族の流れ次第。
理想は「分からないようにアシストをして、気づいたらよくなっていた」

撮っては移動、撮っては移動を繰り返す中で、こちらが用意していなかった、思いがけずに「良い背景」に出会うことは多々ある。常に光の向きを見ながら被写体を見続け、「あ!なんかここいいっす!(撮るつもりじゃなかったけど)ここも撮っときましょう!」という、偶然との出会いをいくつもむさぼる。こちらが想定した必然と、それだけではおもしろくないので、偶然をいくつもゲットする。それがあるから毎回違う写真が撮れておもしろい。

こういうなんでもない移動中の写真が好きで撮ってしまう。人によってはこんな写真を撮らないだろうし、人によってはもらっても嬉しくないのかもしれない。でも僕は、こんな”素”の状態がたまらなく好き。

この日が写真撮影だったからこんな格好をしたとか、
こんな表情をしたとか、こんな並び方をしたとか。

それも思い出となってイイものだけど、それを引き立たせるのがこういう”あいだ”の時間じゃないかと思う。そういうマインドを持つ僕は1秒たりとも逃さずアンテナびんびんに、けれど空気のようにただよい、ひたすら撮り続けるもんだから、あとの編集はまあ大変です。特にセレクトが。

もともと数が多いので、減らしても減らしても減らない。狙う瞬間が多いほどセレクトするシーンが増えるから、コスパは非常に悪いだろう。だけどそれを悪とは思っておらず、編集アシスタントの学びにもなるし、自分の学びにもなる。

ありのまま、あるがまま、そんな家族写真が好き。
20年後、30年後にこの子たちが写真を見返したとき、違和感のない、
恥ずかしくない写真でいてほしい。それがうちのコンセプト。

お読みいただきありがとうございました。


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