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日本で一番敷居の低い心理カウンセラー

皆さん初めまして!ゆうやです。
「ゆるい、面白い、気をつかわない」カウンセリングしてます♪

この自己紹介を書いたのは、カウンセラーとして人の役に立つために、まずは自分がどういう価値観を持っているのかを振り返るため。ゆうやのカウンセリングを受けるか迷っている人は、まずこれを読んでどういう人間なのか知ってほしい。知ってもらえたら、カウンセリングを受けるかどうか決めることもできるはずやと思う!

超神経質で内向的なゆうや少年が、ひとの目を気にしない、気を遣わせない自由人間になっていく物語を見ていってな~

三重県の端(恥)で育ったゆうや赤ちゃん
87~

俺の生まれは三重県の四日市市。
四日市ぜんそく」で有名なあの町です。

生まれ育った”高花平”という町は山の上にあり
老人が95%を占める(体感)小さな町で
標高が高いため空気も薄く山の下”下界”に出向く
ときは必ず耳抜きが必要やった。

天気の子ならぬ、二十歳の子

俺を20才で産んでくれた両親も
その”高花平”で育った子…空気が薄いせいか勉強が苦手で二人とも中卒。

お母さん、お父さん、ゆうや、妹の4人の家族で
埼玉県にお住みでなじみ深い野原一家と構成は同じ。

でも野原一家のような、愛が溢れる家族力のようなものはなく愛情もチームワークも感じることができない家庭やった。

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全てのキーワードは”お母さま”(87~93)

「あの家には鬼がいる…」
近所の老人たちはそう言っとったと思う。
一番嫌やったんが…
デヴィ夫人もびっくり‼ 理不尽(夫人)お母さん!

昨日言った事と今日言うことが真逆なのはあたりまえ!95%の確率で機嫌が悪いのも特徴的です。

昔のお母さんを思い出すと、飲んでいるとき以外は
しかめっ面をしている表情しか思い出せやん。

知恵のついてきたゆうや少年…保育園の時には
お母さんが友達とお酒を飲んで、機嫌良いときを見計らってばあちゃんを呼び出し、下界に行き「ゲーム買っていい?」のお願いごとをしとった。

そうゆう意味では…お酒は好き!
おれが酒好きなのも原点はここや!笑

反抗的な態度をとったり言う事を聞かんだら
シばかれて、髪の毛を掴まれ、外に掘り出される。

「うわぁーん! ごめんなさい!入れてください!!」
と泣き叫んで玄関をドンドン叩くと、鍵が開きヌルりと開く扉… 「靴忘れとった」と投げ捨てられる。

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あ、ほんまに入れやんのや…とさらに泣き叫ぶ俺…

でもアパートの住人が2階から降りてくる音が聞こえたら、くしゃくしゃな笑顔で…
「こんばんわー☆」としっかり挨拶。

世間体を気にする母から生まれたゆうや
顔色を見て生きる人生がスタートしていたのだ。

神経質で顔色を見て生きる少年時代93’01

小学校のときには、友達の影響で地元の剣道の少年団に入った。暑い!くさい!つらい!の黄金3点セットを兼ね備えたこの鬼畜スポーツ!

厳しすぎる稽古は、厳しすぎるお母さんに比べたら息抜きみたいなもん。
干からびて脱水症状になりそうな時でも水はNGやったけど、持ち前のズル賢さでトイレの水道水を飲んで生きのび、並外れた我慢強さで6年生最後まで耐え抜いて三重県大会で優勝し、全国大会にも行くことができた。
初めて自信がついた瞬間やった。

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ただお母さんは稽古にも試合にも見に来てくれやんかった。
「あんた剣道上手くなったん?」
っていうセリフは友達の母が聞いてくれた…
嬉しかった…あざす!

練習どころか、お酒飲んで練習後のお迎えを忘れられることもあった。
最後まで母を待つ俺ら兄妹に、友達の母
「乗せてったろか…?」と言ってくれる。
「ううん!お母さんもう来る!ありがとう!」
とウソをついて片道4キロ夜道を妹と泣きながら走って帰ったこともある。

お母さんに甘える事ができやんかった。
というか、甘える隙を見せてくれなかった。

”ほおっておいたら恥をかく”
”自分の事は自分でしやなあかん”


過保護の逆「放置プレー教育」により
小学生ながら研ぎ澄まされた神経質になっていた。
そして、頑張れば何とかなるという事を少しづつ分かっていった…。

中学では「幼なじみの友達がおるで…」の理由で
入りたかったサッカー部ではなく卓球部に入った。
(やりたかった剣道部は3年前に廃部)

卓球部には気の合うメンツが居らず、部活に行く回数が減ってったけどお得意の人に合わせて顔色を見るマンで、友達とは上手いことやっとった。

ちなみに小中学校の9年間の学校生活で”うんこ”をした事はない。
”友達に何を思われるか分からん”のと、超恥ずかしがり屋で内気な性格だった為、ストレスと一緒にうんこも耐え抜きました。
※おかげ様で便秘症は今でも健在。

神経質で自己主張できない少年は、人に合わせて生きるものまね人間で学生時代を終えていく…。そんな気がしていた中2の終わり…。

天気の子ならぬ、人生の天気(転機)’02’03

中3の春にクラス替えで人生は変わった。
一緒に剣道をやっとった幼なじみを含む4人組の仲良くなったグループは、県内トップレベルの高校を目指す”カシコ島野郎ども”。
そのころの俺といったらこんな感じ…。

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周りの友達が通っていたので塾や家庭教師もつけてもらった。
それでも成績は変化なし!本当のバカやった。
空気が薄い山の上に住んでいたのは、幼なじみも同じ…言い訳できやん。

テストの合計点数を1~10段階で評価する数字はずっと「2」
カシコ島野郎たちは「7~10」…うん、友達になっていけないレベル!

いっきに押し寄せてきた恥ずかしさと焦り…。

顔色を見て生きる人生
それは自分の家庭環境も大きかった…。

・小6で親が離婚し、寂しい思いをしたこと…
・家賃3千円の風呂無し市営住宅に住んでいること…
・家に犬が5匹もいて、制服につく臭いや毛が恥ずかしい…
・弁当箱の入れ物が恥ずかしくてナフキンで隠しながら食べたり…

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世間体を気にして家庭環境がバレないようする事に必死やった。
寂しいやつ、貧乏なやつって思われるのがめっちゃ恥ずかしかった。

だから隠しとった!…でもテストの点数は隠せやんかった!
塾の先生にも「このままいったら〇〇高校のレベルやな」と言われる始末
(うそやろ…?アホ高校やん…恥ずかしすぎる…)
とヘラヘラして焦っていないふりをした。

休み時間、俺以外のカシコ島野郎は、勉強の話ばかりで付いていけやん。
仲間に入れない疎外感…ヘラヘラしながら話を合わせる事にも限界がきとった。

気が付いたら塾と家庭教師を辞めて、卓球からサッカー部に転部していた。
初めて自分の意志で決断して行動したことやった。
それから友達から誘われる”遊び”というものを全部断わり、机にだけ向かった。

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勉強したことが無いでやり方がわからん。
頑張っとることを周りにバレたくないで、友達に聞けない。
だから自己流で"ひたすら教科書をうつす"作業を繰り返した。

もともと塾と家庭教師以外の時間は宿題もしやん0時間男が、1日に10時間以上は勉強した。

ビビるくらい成績が上がらんくて当時理由は意味分からんだけど、少しずつ…少しずつ… 上がっていった!

病気か !ってくらい勉強する俺を見てお母さんは
「もう勉強辞めな!」
って言ってきたけど無視してやり続けた。

早く就職して貧乏生活を脱出したかったのもあり、当時就職率100%と言われていた県内一の公立工業高校を目指してた。
学校の先生や友達にも「ゆうやそれは無理やろ…」と言われていた。

推薦入学も希望した。推薦に響くなら…!と校内の駅伝選手に候補し、別に足が速かったわけじゃなかったけど、死ぬ物狂いで走って、駅伝選手になった。
でも中学3年間の内申点が影響するので推薦されず…ダメ…。
全ては試験当日の1発にかかっとった。

公立受験の前に受験した市立の難関の進学校が落ちると思って受けたら、なぜか合格!(なぜ中卒の私の子が?)お母さんは泣いて喜び「頑張って働くで大学まで行ってくれ!」と言われたけど、それも無視した。

お母さんは、自分にはできない勉強を地道に頑張り続け、結果を出す俺を見る目が変わっていた。

工業高校に行って、大企業に入る…俺はなる!」(ちょっと違う)

受験の直前は追い込みすぎて人生初の金縛りを体験。
おばけの女の子にも「勉強しすぎだYO」みたいな目で見られたのち…
中3の最後のテストには自己最高の段階「7」にまで上げる事ができた。

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人生で初めて選んだ自分の道に揺らぐものなんてなかった。
⚫︎アホ家族と貧乏は恥ずかしい
⚫︎お母さんを見返ししてやる!という反逆心
それだけで、ラストスパート死ぬ物ぐるいで机にむかった。

そして、県内一の公立工業高校に入ることができた。
学校の先生や友達は泣いて喜んでくれた。
クラスは9クラス中、下から2番目の学科ではあったけど、この高校に入れることが夢みたいやった!

自信がついたゆうや青年!神経質からの解放
(’03~’06)

高校生活では、ほどよく自分を表現し、気の合う友達もできていた。
”頑張った分だけ結果もついてくる”ということで味をしめた俺は、自信に満ち溢れていた。
自分を隠すどころか、貧乏つらいエピソードトークで笑いをとっていた。

「外より家のが寒い冬」「こっちの壁を叩いたら真逆の壁が揺れる」
「ナメクジやゴキブリに名前をつけて生活」
「新しいお父さんや犬の余ったご飯を俺らが頂く」

ちょっと盛ったトークとさらけ出した俺の性格に、みんなが寄ってきてくれて、友達といる時間が唯一の現実逃避になっとった。

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人に隠すことなんてない!
”恥ずかしいこともさらけ出そう…
思った事を全部言おう!

勉強のほうも3年間変わらんクラスの中で、常に10位以内に入っとったで、就職に対しては安心感と自信でみなぎっとった。
小学校で優勝したことのある”自信の象徴”剣道部にも入って、3年生の時には剣道部主将に選ばれた。

それに学校でうんちも出来た!最初は緊張したけど…なんとか踏ん張った!
いろんな意味で全部だしきった学生時代は、最高に楽しくて充実しとった。

絶対に潰れない大きい会社に入る!という夢を果たすべく、就職活動には本気で挑んだ。男子高校という事もあり、基本クラスにはふざけた奴しかおらんだけど、中学校の時に味わった”頑張れば報われる説”の経験をもとに友達らをフル無視してただただ、就職活動に励んだ。

そして第一希望やった自動車関係の一部上場企業に内定が決まった。

始動しよう!夢の大企業で無事死亡!(’06~’07)

そもそも俺は「化学科や」。自動車関係の会社に入れたは良いものの
唯一不安やったのがびびるくらい自動車に興味がないこと。

3か月新入社員教育が終わって、配属された職場で
「神田くんはこの作業な」と言われて、紙みたいな製品を設備に入れて扉を閉める…という開始30分で覚えれそうな仕事をやり続けた。
うん!5分で覚えれる!

半年経っても一年経ってもそれ以外の事を教えてくれる気配はない。もう、うすうす感じとったけど

"オレコノ作業イツマデヤンノ?"

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大きなロボットを使って小さな製品を造り続けるこの大きな会社!
そんなロボットを触っているのも、ロボットみたいな人間のゆうや!
単純な作業にやりがいや楽しさが全く感じられず、まさに地獄やった。

そして一番びっくりしたのは、この状況に全く違和感を感じることもなく淡々とロボットを操るロボット(先輩)たち…。

これが働くという事なんやー。って頭では分かっとっても無責任な作業っぷりと、やる気のなさが言動でバレとるんやろな…。
休憩中とかの職場のメンバーからの会話は1年間なかった。

…でも悲しいとかつらいとかそういう感情はなかった。
お金を握りしめたゆうや少年…いや、ゆうやサラリーマンはいろんな現実逃避先があってプライベートはめちゃくちゃ充実しとった。

この刑務所の中の世界をmixi(当時のSNS)で面白おかしくブログの記事にして発信したり、友達とゲーセンで一生コインゲームしたり、お風呂入りにいったり…。それにスロットにも出会えた!

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やっとの思いで入った大企業で先制パンチを喰らったけど、小学生のときから無意識でやっとった現実逃避でサラリーマンの息づまりを解消していた。

母再び、軍隊職場で打ち砕かれる自信と精神!
(’07~09’)

職場では相変わらずあまり馴染めやん環境が続く中、めっちゃ苦手な先輩が昇格して班長になった。

これからが本当の地獄の始まり!

例えていうと、班長は”会社版お母さん”やった。
理不尽で、威圧的で、細かくて、超スパルタ!職場のみんなが怖がっとったで、逆に一体感があったおかげで会話をしてくれるようになった。周りの職場からは軍隊職場って言われとった。

そん中でもしっかりと目をつけられていたのは俺!

お母さんの影響もあり「顔色を伺うこと・要領よく生きること」はプロやと自負しとったのにいつも怒られる。

入社して2年目で朝遅刻をしてしまったときは、全力で謝った。そんなルールないけど”謝罪文”を書いて提出した。
でも許しては貰えずその日から1年間半無視される事になった。

現実逃避はできるけど、会社はほんまに面白くない!どうにかしやなあかん…。あの班長が頭に浮かび、会社に行くのも嫌で仕方なかった。それでもどうしたらいいのかわからないまま、いろんなストレスの症状がではじめた。

・お腹の中からミツバチに刺される様な痛みの帯状疱疹
・赤ちゃん!背中を叩かないとゲップがでない呑気症
・またうん〇の話!便秘症になり2回救急搬送される…カンチョー
・愉快なくらい痒い…体中から蕁麻疹かいーのー地獄

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「今まで学校で頑張ってきた事が全く通用しやん」
「人の顔色をうかがってヘラヘラしても見抜かれる」
「現実逃避しても何も解決につながらん」

身体が悲鳴を上げとる…。
それにこの鬼班長をどうにか認めさせたい!
”まじでどうにかしやなあかん”
と思って自分を見つめ直したときに
上手くいっていた事があった。

……スロットや!!

スロットで真似ぶ!それは学ぶこと(’06~’09)

社会人デビューとほぼ同時に初めて友達と行ったスロット。賭け事の世界ではビギナーズラック→”何も知らない初心者が勝てる”という現象があるみたいやけど俺にはそんなラック(幸運)なかった。

数年間負け続けて借金はしやんだものの、300万くらいは使ったと思う。
すぐ依存症クソ野郎になった。

仕事中でもレバーを叩いて設備を動かす作業の時は、スロットのハナハナのランプが光るイメージで叩く!頭の中はつねににスロット

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金をかりるとか無断欠勤とか友達を裏切るとか★5クラスの悪いことはやってこやんだけど★4クラスはやっていた。

・友達との約束に遅れる
・彼女に行ったの嘘ついて「コンビニで寝とった」
・負けたのに「ちょい勝ち」のウソ

寝ても覚めてもスロット。目に入るものすべてスロットの演出にしか見えやん。辞めようとした回数なんて数えれやんくらいあるし、何をやっても辞めれやんかった。そんな時期を3年すごし、考え抜いた結論が……

”勝つしかないわ”

その時にやり始めたことが
”勝っている人の真似をすること”

パチ屋におる勝っとるやろなって人の動きを見よう見まねで真似してみたり、勝っとる人のブログを読みあさってそのまま同じことをやってみた。
勝ち負けをしっかり分析できるように”収支表”もつけるようにした。

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最初は窮屈で仕方なかったけど、大好きなスロットをやり続けたい思いと、依存している自分をうまくコントロールできるようになりたくて、自分のやり方を全部捨てた!

パチンコやパチスロで勝てる人って1割って言われとるけど、真似をすることで11か月連続で勝てた。
学ぶって成功方法を真似することやん!
高校受験のときは恥ずかしくて周りに頼れず一人で必死やったけど
社会人では”周りを見て学ぶ” 新しい頑張り方を覚えた。

ギャンブルのチカラで、いチカラ積み上げる(’09~’11)

”仕事でこのスロットで使ったメタモン方式を使ってみよや”
なぜか班長に怒られやん先輩がおったで、その人達のものまねをした。

・自分の与えられた仕事に興味を持っとる(探求心)
・仕事モードとおちゃらけのメリハリがついとる
・メンバーとの人間関係を大切にしとる

その先輩たちは、職場のメンバーからも凄まじく信頼されとったで、俺もこうなりたい!これを真似しやん手はなかった!

そして俺がやったのは1つ。
「毎日班長の良いところをノートに書く」ということ。
班長からは絶賛シカト中やったけど、なんで俺を嫌うか分からんかったし、まず俺が班長のことを知ろうと思った。

忌まわしき憎き班長の”良いところ”を毎日家に帰ったらノートに書く!
うん!できまん!笑 でも書いた!

今思えば明らかにパワハラやろレベルの素っ気ない態度をされても、無視されても仕事で分からない事は、ほかのメンバーでなく班長に聞きにいった。

定期個人面談の時には、勇気を振り絞って「僕と飲みに行ってください」と言ってみたけど「行かんわ!」と玉砕された。

…でも明らかに何かが変わってきとった。

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「仕事を知ることで楽しくなってきた。」
「周りのメンバーが話しかけてくれる様になった」
「班長が話しかけてくれるようになった」


ノートを書き始めたことで、相手や仕事を知ろうとする癖がついた。
先輩たちはそれが出来とった。俺は逃げとっただけ…楽しくない仕事に本気で取り組もうとしてなかっただけ…。
ノートを書き出して1年が経ったとき、こんな事を言われた。

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「ほんとうに神田は変わったな‼」

その言葉には、顔色を伺って要領よくしとるだけじゃなく、探求心と信念を持って仕事している俺を認めてもらえた気がした。
そしてどんどん仕事が楽しくなってった。

一年後、班長は昇格し係長になり、その係長の一声で俺はリーダー格になった。先輩たちの良い所を真似することで、嫌いな仕事と班長のことが好きになれた瞬間やった。

オラオラリーダーの登場!母と同じ道、人生で最高潮に病むの巻(’11~’13)


係長の指示でリーダーポジションとして新しい職場に転籍になった。
その後、今までの関係が嘘だったかのように係長との関係は良くなり、周りからは「師弟関係」と呼ばれていたらしい。
”あの軍曹係長からのお墨付き”というだけで、他の職場の上司やメンバーからも声をかけてもらう事が多くなり、自信に満ち溢れとった。

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新しい職場では初対面の人ばかり…「若造のくせに偉っそうに」と思われないように、はっきりと意見を言うようにしとった。
そんな中でも相変わらず、ものまねは継続してやった。

(この問題…あの先輩ならどうするんやろう?)
(こうゆう時、係長なら何て伝えるんやろう?)
一回自問自答してあの人達を思い浮かべる…。で、行動!に移した。

自分の好きなようにできる環境と自信に満ち溢れた俺が自己中な俺をヒートアップさせた。そこには…

”自分の考えがなく一貫性のない俺の言動”
”自分は動かず、人には強く当たる”

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少しずつ…少しずつ…俺に話かけてくれる人はおらんくなっていった。
まさに、俺が小さい頃にお母さんにされていた事と全く同じことを職場のメンバーにしていた。

(あの先輩やったらどうするやろう?係長やったらどうするかな?)

いろんな人の真似をしたけど、すればするほど苦しくなり自分の事が嫌いになってく…。
ネットで【仕事 人間関係 好かれる方法】って調べても答えはでてこやん…。会社に行く途中の車の中で心臓がドキドキしてくるし、休憩中は人を避けるように独りで休憩。好きだった先輩と話している時でさえ、顔が引きつって何を話していいか分からへん。
プライベートではスロットが面白くなくなって、友達と遊んでいても笑えやんくなった。
そして会社を一週間仮病で休んだのち、係長に職場の転籍依頼をした。
人生で一番つらかったときやった。

独りになったとき、”一人の理解者”にひとつだけ聞いたこと(’13~’14)


社会人2年目のときに”人助け”をしている男性と知り合った。その男性も「ゆうや」というカッコいい名前を持っていて、同い年。
カウンセリングやコーチングといった仕事をしているらしいが、この人のすごさを知らずに、ただの遊び仲間として出会った。

岐阜県の子やったで、頻繁に会うこともなかったけど…さすが陸上選手。〇〇競技の大学チャンピオンで体育会系な事もあり、人生と人に超アツい男やった。

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実は人生で息詰まったことがあれば
いつも”岐阜のゆうや”に相談しとった。

・お母さんに泣いて初めて自分の意見を言ったとき
・大事な恋人をキズつけてしまい、土下座して謝りに行ったとき
・班長を知ろうとノートをとったり食事に誘ったとき

いつも相談してアドバイスや課題をもらっとった。

そしてこの人生で一番つらかったときも、毎日電話して助けを求めていた。
「今までみたいに俺に課題をくれ。今の環境を変えたい…頑張るから…。」でも”岐阜のゆうや”はこう言った。

「おお、今のお前は何も問題ないやろ~はっはっは」
(ちょっと待ってくれ…再絶頂で病んでんねん…)

俺の気持ちを汲み取れやんくなってしまったんかな?さらに不安になった。週末は必ず岐阜から三重に来てくれた。俺は何も楽しくなかったけど普段通り風呂にいったり、飯に行ったりした。

会社の人間、彼女や友達…ほぼ誰と会っても顔がひきつって、自分らしく居られない。気をつかい過ぎて気が狂いそう。やからといって、独りでいるのは不安でしかたない。でも、岐阜のゆうやだけにはこころの声を全部話せていた…そしてあるとき、電話で「人の3倍苦労しろ」ようやく課題をもらった。

大事なことは全部過去に詰まっていた(’13~’15)

それから水を得た魚のように、前向きに課題をこなそうと努力した。
誰よりも早く会社に来て、トイレの水回りの掃除をしてみたり、休憩所のゴミ出しをしてみたり、誰もやりたがらない仕事を率先してやってみた。

さらに職場内でも人の3倍苦労する事を心がけた。
誰の為に? …うん、自分のために頑張った。

「自分ノート」を書いていたあの頃のように
仕事に興味を持ち、次々と新しい事にも挑戦した。

それを半年~1年間繰り返していると、ほんの少しずつ周りの人が話しかけてくれるようになり、自信と知識がついてくる事で人がついてくるようになった。少しずつ少しずつやけど、気持ちも楽になっていった。

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今思えば、高校受験のときにカシコの友達を見て焦って鬼勉強したときって、誰にやりかたを聞くでもなくひたすら教科書を写し続けた。
それでも勉強を苦痛に感じる事もなく頑張り続けれたのは、自分のやりかたで自分のペースで自分らしく頑張れたから。

先輩の真似をして上手くいったこともあったけど…でも、それは俺の考えでやった訳じゃない。モノマネだけでは上手くいかんこともある。
「あの人ならどうするやろ?」
そんな不格好な生きかた…息苦しくて…生きている居心地がしやんかった…

”岐阜のゆうや”は気付いとったけど何も言わんだ。

教えてくれやんだ訳っちゃう…自分らしさが無くなった俺に自分で考え抜き、自分らしく生きていく事の大切さを気付いてほしかったんや。

鼻っから答えだけ聞いとっても”オラオラ”の俺には何も響かんだと思う。答えを教えずに…相手に寄り添う。

”俺の事を俺よりも考えてくれている理解者に俺は救われた”

自分らしく生きる それが自分の人生 (現在)

 動 公園 クライエント 楽しく

今の会社を辞めて
相談業を仕事をしていくことを決心した。

俺が本当にやりたいことは”人を元気にすること”
それが俺にとって一番の幸せやと思った。
自分で選んだことに後悔はない。

そして“1人の理解者がいるだけで、
”どんな壁も乗り越えられる”
”本気をだせる”

それをみんなに実感してもらいたい。

10年間俺が体験してきたことそれを次は俺がやっていきたい。

動 カウンセリング 再会2

生きていくという事は”人と繋がっていく”ということ。
独りで生きていけやん!

自分だけが経験したつらいことが
自分らしさ”を妨げてたら

俺が変えてみせる

【人は変わらない】
口々にひとは言うけど…そんな事あるか…

”自分が変われば、必ず人は変わる”
”自分を変えることなんて超簡単”

動 勇哉 カウンセリング4

過去を振り返ったときにパッとでてくる人達。

お母さん、係長、岐阜のゆうや

すべてが自分のために必要だった人達…。
今ではみんなに感謝できる。こころから。

俺の生き方に感化された母さんは、今では良きライバル。”死んだ妹の夢だった花屋さん”を始めた。

係長は課長になり何百人もの部下がいる。
俺の永遠の恩師。あのとき断られた「飲みのお誘い」
4年前から毎年恒例で楽しみや。

そして岐阜のゆうやは今も俺の理解者。
カウンセリングやコーチングを教えてくれる
俺の一人の理解者。

動 四日市商店街 おちゃめ勇哉

幸せになるには、自分らしく生きること。

自分らしさが分からんかったら
一緒に探しにいこう。

逃げ出したい時には
一緒に逃げよう。

あなただけの”こころの銭湯”に俺はなります。




最後まで読んでくれて本当にありがとう!

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