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#246 阪急電鉄創業者 小林一三の面白さ

いかがお過ごしでしょうか。林でございます。

最近読んでいた「小林一三(こばやしいちぞう」の本が面白く、ご紹介も兼ねてまとめておきたいと思います。

小林一三とは?

小林一三といえば、ご存知の方も多いかもしれませんが、実に多くの事業を次々と立ち上げた実業家です。
まずは、箕面有馬電気軌道株式会社と呼ばれる、現在の阪急鉄道の前身となった鉄道会社を作りました。

鉄道業以外にも、宝塚歌劇団、阪急百貨店、東宝などを手掛け、関西学院大学の誘致などにも関わっています。
関西地区だけでなく、東急東横線、第一ホテルなど、現代でも残る事業の立ち上げの際にアドバイザリーの形で関わっており、私は正直「阪急鉄道の創業者」くらいの認識でしかなかったため、一生のうちにこんなにたくさんのことができる人がいるのか、と驚きしかありませんでした。

いくつかの観点で切り取っていくと、より小林一三の事業の面白さが伝わってきます。

人口増加の傾向を味方に変える事業設計

いわゆる人口統計学の理論で、出生率と死亡率の相関関係が示されています。

多くの社会では、「多産多死型から少産少死型」へと、段階的に移行していくことが一般的です。

第一段階は、前工業化社会の「高死亡率・高出生率」のフェーズです。
医療や、保健衛生状態の悪さゆえ、特に乳児死亡率が非常に高いフェーズにあります。社会的な幼児死亡率の高さを集団の無意識が感じ取り、同時に高出生率がもたらされる段階です。

第二段階は、工業化社会前半の「低死亡率・高出生率」のフェーズです。
このフェーズでは、医療、保健衛生状態、栄養状態が改善され、乳児死亡率が大きく低下していきます。しかし、集団の無意識はその変化をすぐには察知できませんから、出生率は第一段階のまま高止まりし、人口の自然増加率は高まります。

第三段階は、工業化社会後半の「低死亡率・低出生率」のフェーズです。
このフェーズになると、出生率が死亡率を大きく上回ってきます。あるポイントで集団がそれを察知し、出生率が一気に下がるフェーズです。自然増加率は低下するも、人口そのものは第二段階の影響でなお増加中の段階です。

第四段階は、出生率も死亡率も下がり続け、自然増加率が低水準で推移していくフェーズです。総人口もやがて減少に転じてきます。

近代日本では、明治維新後しばらくは第一段階、明治時代後半に第二段階に進み、その後第二次世界大戦がなければ第三段階となったはずでしたが、第二次世界大戦があったので、戦後にベビーブームが来ました。しかし、それも特異なもので、1950年から出生率は低下し、再び戻っていません。一時的なベビーブームはあったものの、大正時代から第三段階に入り、1990年以降は出生率と死亡率の差が縮まり第四段階に入っています。

小林一三は、第二段階の人口増加の傾向を掴み、これを後押しにして事業を進めていったところに面白さがあります。
阪急鉄道の敷設も、周辺エリア開発とセットでの不動産業も、エリアの価値を上げて多くの人に来てもらうための興行事業としての宝塚歌劇団も、値段を下げることで大衆への興行解放を目的とした東宝も、すべて人口増加傾向を追い風にした事業なんですね。

小林一三は、薄利多売ビジネスの考え方があらゆる事業の根底にあるのですが、「薄利だから多売ができる」ではなく「多売の仕組みを作って薄利にする」という順番で物事を考えていたのが大変興味深いです。

前者の「薄利だから多売ができる」だと、競合が同じ戦略を取った瞬間にどこまで利益率を下げられるかというコストカットの勝負になってしまうので、泥沼試合必須です。
一方で「多売だから薄利にする」では、例えば梅田で阪急百貨店を手掛けた際には、様々な路線が合流するエリアであれば、多くの人が通るから多売ができると考え、アメリカに倣い百貨店デパート事業を始めました。

で、多売が成り立つのであればわざわざ利益率を落とす必要はないのでは?と考えてしまいそうですが、「必要以上の売上を出すのではなく、利益は客に返す」という考え方のもと、多売で一定の利益が確保できたあとは、それ以上の儲けすぎる分は客に価格を落として客に利益を返していました。
結果として、利益を返した側の客がさらなる利益を持ってやってきてくれる、という好循環を成立させていたのです。

同じ人口増加傾向のフェーズにいても、他の人ではできないことを次々と成し遂げていったことを考えると「人口増加傾向にあるから、次々と事業を興せた」と考えるのは違うと思いますね。
おそらく小林一三が現代にいたら、「人口減少傾向を踏まえた事業」を次々と興しているのではないでしょうか。

今は、多くの地域で「人口減少だから厳しい」という声をよく聞きますが、それは表面的な問題であって、大事なのはその時々に応じた時流を掴んで、そこにハマる事業を設計することなのだ、と改めて考えさせられました。

様々な「失敗」を次の事業に活かす発想

もう一つ面白い点をご紹介しておくと、小林一三のキャリアそのものにも注目できます。

元々、三井銀行で秘書課勤務時代を送っていましたが、お茶汲みと書類の整理くらいで暇を持て余していたそうです。
その後、大阪支店に異動となるも、お茶屋通いに精を出し、仕事の面白さにも全く目覚めていなかったとのこと。
その後、岩下清周が上司となり、ビジネスの面白さに目覚めますが、結婚騒動や社内政治で左遷されて不遇の時代を過ごし、ついに自ら辞表を提出するに至ります。

阪急電鉄の立ち上げに関わるようになるのはその後ですが、ここまで不遇の時代から、上述したような事業を次々と起こすようになるまで変化するとは、なかなか想像できないですよね。
まさに人の人生は置かれた環境と巡り合わせで変わるということが分かるわけですが、この話にはさらに奥行きがあります。

小林一三の考えの中核にある「健全なる住環境が生み出す健全なる精神」という考えは、三井銀行時代の左遷先で、総務部として全国支店の監査対応で全国各地に出向いていた時に磨かれたものということです。

その後、阪急電鉄沿線となるエリアの土地代が安いことに目を付け、そこに良質な住環境エリアを作り土地の価値を高める事業を担うことになりますが、これは前職の経験が十分に活きているということです。

エリア価値向上のためのプロセスにおいても、阪急沿線に人が来る理由を作らないといけないということで、他国を倣って「箕面動物園」や遊園地建設に動きましたが、動物を管理するための強固な檻の設置や、餌代などの維持費が想定以上にかかり閉園しています。

「じゃあ次は温泉だ」ということで、女性や子ども向けの温泉施設建設に動きますが、室内プールの温度管理が難しく、水が冷たすぎて失敗しました。
ぽっかり空いてしまった室内プールスペースの有効活用案を模索していたときに、大阪三越呉服店で見た少年音楽隊を見て「歌劇の時代がくる」と確信し、宝塚少女歌劇団を組成するに至りました。
当時の日本では、仕事をしていない女性も多く、ここをターゲットとする博覧会や、デパート設立に動いたのです。

このように、結果的には多くの事業を生み出しているのだけど、コアとなる考え方は「健全なる住環境が生み出す健全なる精神」という一つの軸があり、多くの失敗からヒントを得て次の事業に果敢に挑む姿勢を見ていると、本当の意味での「失敗」なんてないということが学べますね。

私も小林一三にはなれませんが、自分なりの「わらしべ長者物語」を人生の中で体現していけるよう、とにかく色々チャレンジしていきます!

それでは、今日もよい1日をお過ごしください。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

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