前島来輔「漢字御廃止之議」(慶応2年12月)小西信八、前島各序について
前島密のいわゆる「漢字廃止の議」について取り上げる。漢字廃止論、言文一致論その他おおくの後続運動がその始祖として引用するものであり、影響も甚大である。語りつくすのにどのくらいの記事を書くか見通しも立たないが、今回はその各種序文について。
小西信八序について
冒頭に小西信八(こにし のぶはち、1854-1938)による明治32(1899)年の序がある(総かながき、わかちがき)。小西は前島の郷里の後輩であり、かつ聾唖(きくこととはなすことがむずかしいこと)教育の発展に寄与した。言文一致運動に熱心で、はじめて公の願書に言文一致体を用いたとされる「言文一致」(『中央公論』明治34年11月号)の提出者の一人でもある(森1969)。
以下も参照したが、いずれの団体も小西が初代会長をつとめたという。
序のなかで、小西は明治15-6年ごろの「かなのくわい」「ろうまじくわい」運動の挫折をなげき、言文不一致による弊害のみならず、書記言語すら「新聞体」「手紙」などでことなっている当時の状況にたいし、学習効率という点から批判をくわえる。聾唖教育を開拓しつづけた小西とっては、書記言語の通俗化こそが、さまざまなハンディキャップをかかえた人びとへの教育の通俗化(あるいは教育の機会均等や民主化ともいえる)と連動する最大の目標だったといえようか。
ところで、これらは文体の「すみわけ」(身分や状況≒TPOによって文体をつかいわけること)を「分裂」ととらえる近代的観点であり、おおくの明治の言論人が近世の文体状況を批判する論調に共通する(例えば、江戸時代は本の大きさによって、文学の内容・文体・読者層などが「すみわけ」されているのがある意味当然であった)。
また、学習効率云々をいうのは、安田敏朗が論じたように、漢字廃止論者のなかでもとりわけねづよくこびりついた「能率」という論拠による批判でもある(安田2016)。
その是非は別として、そういう意味では、漢字廃止論主流派の意見の代弁でもあるとみてよいだろう。
余談だが、おそらく「新聞体」を“しんぶんてい”としている。文体も「ぶんてい」とよんだのだとしたら、「文体」史研究をするうえでの用語の呼称という観点からは示唆に富む資料である。
前島序について
明治18(1886)年7月、漢文訓読体。もともと開成所(東京大学の源流のひとつで、1863年10月11日に翻訳事業を担当する洋書調所を改正設置したもので、幕末の混乱で一時廃止されるも復興し、1870年1月18日に大学南校に引き継がれた)の頭取であった「松本壽太夫」におねがいして徳川慶喜に上奏したもの。
松本は蕃書調所以来の頭取で、大阪町奉行並や勘定奉行並もつとめた幕臣であり、アメリカへ軍艦を注文するために渡航した経験もあったという(田辺他1966)。
前島は以上の案を文久(1861-1864)の末ごろからあたため、長崎時代に瓜生寅(うりゅう はじめ・はじむ、1842-1913)、何礼之(が のりゆき、1840-1923)、青江秀(あおえ ひいず、1834-1891)に相談したという。
瓜生寅は福井藩士の長男として出生。洋学・漢学をおさめて幕府の英語学校教授をつとめたが、維新後は官僚として活躍する。病気を機に明治12年に退官してからは実業家に転じた(渡辺1979)。明治45年、日本ではじめて『東方見聞録』を『マルコ・ポーロ旅行記』として翻訳刊行するなど、かずおおくの著作ものこしている。
瓜生は安政7・万延元(1860)年18歳で長崎に行き、フルベッキの最初の英学生となったが、前島とは元治元(1864)年9月ごろ、ともに私塾「培社」を立ち上げている(長崎フルベッキ研究会)。この培社は貧しい学生のための合宿所であり、前島は慶應元(1865)年正月には薩摩藩に行ってしまうので、前島が構想の相談をしたのはこの頃のものとみてよいだろう。
何礼之(礼之助)は唐通事の家に生まれ、瓜生と同じく来日したフルベッキの最初の弟子として英語も学び、平井義十郎とともに済美館学頭となって後進を育てた。何は岩倉使節団に召集された際に従者として前島を連れていき、江戸まで向かうも途中の事故で引き返している。その後、長崎に戻って私塾を作り、塾長に前島を任命、のちに何は前島と瓜生に、さきの培社の開設を認めてもいる(前島『鴻爪痕』)。
遣欧使節の派遣は元治元(1864)年とみられ、やはり文久末頃にあたる(文久4年は新暦1864年2月8日~3月27日まで)。何はその後明治4(1872)年には岩倉使節団に通訳として随行し、モンテスキュー原著『万法精理』(明治8年)を翻訳出版するなど、政界に大きな影響を与える(日本人名大辞典)。
青江秀は前島の学友で、「郵便葉書」の発案者とされる(日本国語大辞典)。どうやら「中村某」という名で何の私塾で学んでいるようである(大久保1986)。その後、前島のよき理解者として、『 駅逓志稿』(明治15年)も刊行し、薩摩や北海道での行政に大きく貢献した。
この交流圏には明治20年代に教育勅語制定に勤しんだ文部大臣芳川顕正(よしかわ あきまさ、1842-1920)もいる。芳川は安政4(1864)年、24歳のとき長崎へ渡り、「医師中村某」つまり青木秀の知遇を得て塾頭となり、翌年瓜生寅、何礼之に英学を教わったという(水野1940)。
以上はみな何礼之を中心とする学友の圏内であり、漢学にくわえ、洋学・英学を学習しようとしたものたちである。くわしくしらべてはいないが、このあたりの交流史研究はぶあつそうだ。瓜生や何がなぜ漢字廃止案に賛同しなかったのかはまだ確信をもてないので、さらに探求する必要がある。
その後、前島は薩摩にわたり、「繁野安繹」等にも相談したそうだが、もちろんこれは重野安繹(しげの やすつぐ、1827-1920)のことである。のち明治35(1902)年4月、重野は前島とともに、音韻文字採用・言文一致体採用・標準語制定などを調査方針とした国語調査委員会の委員に命じられている。重野は国史学の重鎮であった。
以上、安政末期以降相談を重ねた前島だが、賛同者は青江しかおらず、それから20年ほど経った明治18年にも、そのような状況はかわらなかったようである。
のちに前島は本稿を出雲の飯塚納(西湖、1845-1929)と連名で起草、明治2年に中外新聞(日本人による最初の新聞で、外国事情の紹介や翻訳紹介をおこなう)に投稿したという。飯塚は明治4(1871)年にフランス留学に行き、ドイツ人と結婚・離婚し、同13(1880)年帰国。翌年「東洋自由新聞」を発刊し、自由民権運動を推進した。
上記人物はほぼ、のちに言語政策のみならず行政の中枢に影響をおよぼしており、程度の差はあれ、それなりの論拠もあっただろう。詳しくは次回にゆずるとして、前島の漢字廃止・言文一致思想の萌芽は長崎にあり、唐通事・洋学・翻訳を項目とするウェブ上にあったことはいえよう。先行研究にあたるうちに、中国語・文言・白話といった一連のテーマとの接点も浮かび上がってくるかもしれない。
個別事案としては、青木秀の賛同根拠などをさぐってみるといいかもしれない。史料があればよいが。また、「中外新聞」に掲げたと言っているが、その原文はあるのだろうか。さがしてみることにする。
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