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唐通事からみる東京外国語大学と一橋大学

潁川重寛(えがわ しげひろ、1831-1891)の伝記(六角恒広1999『漢語師家伝 中国語教育の先人たち』東方書店)を読みました。今回は潁川の家業であった唐通事と、明治期に誕生した東京外国語大学および、それを一時期吸収していた一橋大学との関係について少し書いておきたいと思います。

唐通事とは?

潁川は長崎唐通事の家系です。江戸時代、長崎に出入りする明人あるいは清人とのやりとりをするために長崎に置かれた役職が唐通事で、いまでいう中国語通訳専門家のことです(オランダに対しては蘭通詞がいました)。

唐通事はほかの職業と同じくお家芸で、喜多田(2016)によると、慶長9年に長崎奉行の小笠原一庵が馮六という明人を任命してから、慶應3年の解散までほぼ江戸時代を通じて1644名(実数826名)いたようです。この唐通事は唐人家系が多く、潁川家ももともと葉(さらに細かく言うと陳)という姓でした。

そのため、唐通事には出自に応じて、大きく漳州、福州、南京の3つの方言の系統があり、そのうち南京は南京官話(官話とは、公的な場で用いられた共通語のようなもの)を指していたため、広く通じるものとして重宝されました。潁川もこの南京官話を職能としていたようです。

出島阿蘭陀屋舗景図 (長崎歴史文化博物館蔵)

唐通事の苦難と「東京外国語大学」

ところが、時は幕末、德川家の没落とともに幕府の長崎支配が解かれ通事を管轄していた役所も無くなります。こうして、新政府によって翻訳方に任命される者を除いて、多くの通事は家業を失いました。

そのような中、明治4年2月、清国に対する開国により必要となった通訳を養成するため、外務省によって漢語学所が設立されます。潁川は、鄭永寧(先に外国官として新政府に仕えていた唐通事)の推薦で外国官に任命されて東京にいましたが、この漢語学所の講師にも採用されました。

外務省にはほかに、ロシア語とドイツ語を教える洋語学所がありましたが、これと漢語学所は外務省から文部省に移され、1873年5月に外国語学所となります。潁川は他の講師や生徒と一緒に神田一ツ橋に移りました。

神田一ツ橋通町開成学校跡の東京外国語学校校舎

さらに同年11月、開成学校語学生徒ノ部と独逸学教場の二校と合併して東京外国語学校となります。漢語学所はここの漢語学科となりました。おぼろげながら、いまの東京外国語大学の形が現れ始めた、といったところです。

その間、清国との交渉は北京で行われましたが、それに応じて新政府は北京官話の重要性をみとめます。この北京官話人材の育成を北京でするために、1876年、漢語学科に生徒3名の派遣を要請しました。

北京官話の時代になるということは、潁川らを含め、長崎唐通事の南京官話が役目を終えることも意味しました。講師陣は北京官話をおしえる必要に迫られますが、そもそもそれを知りませんでした。

腹をくくった潁川らは、当時1冊しかなかった北京官話の教科書(ウェード『語言自邇集』1867)を講師陣で書写し、北京から来た清人に一から北京官話の発音を習ったのでした。

一橋大学の登場

その後、潁川が同僚2名と教え子1名を失なう中、1884年3月、東京外国語学校に高等商業学校がなぜか附属校として設置されました。一つの変化が訪れました。

翌年1885年8月、東京外国語学校の仏語学科と独語学科の教師と生徒すべてが大学予備門へと転学することになりました。大学予備門はそもそも、東京外国語学校英語学科が1874年12月に分離独立して、東京開成学校の英語予備門となっていたものを引き継いだものでした。

さらに同年10月末、東京外国語学校と附属高等商業学校は、東京商業学校に突然吸収合併されることになります。外国語学校の漢・露・韓語科はここの第三部となりました。

東京商業学校は、1875年に森有礼が開設した商法講習所に起源をもち、いまの一橋大学の前身でした。これが東京外国語学校のもとにそっくり移ってきて、それを吸収して校名も変えてしまったのです。

東京市神田区一ツ橋通町 東京高等商業学校になったころ

商人風の気質に耐えられない旧外国語学校の生徒たちは、この合併に反発したようです(自分は外国語を学んで外国に行くために来ており、商売を学びたいのではない!といった感じです)。潁川ら講師も先の読めない文部省の方針に苦しみ、退学届けを学校当局に突き付ける生徒をただ見るしかありませんでした。

そしてその翌年1886年正月、語学部と名称変更された旧外国語学校は2月をもって廃止されると告げられます。大方の生徒は自主退学し、潁川ら講師も用済みとなってしまったのでした。

漢語学所設立から激動の15年間、潁川の漢語講師としての活躍も幕を閉じました。しばらく江戸ですごしたのち、故郷長崎へ帰って余生をすごしました。1891年4月、大槻文彦が日本初の近代的な辞書『言海』を完成させたメモリアルな月に、潁川は61歳で亡くなりました。

おわりに

私は昨日、ちょうど東京外国語大学に用事があり、ついでに図書館1Fの常設展示を鑑賞してきたところでした。この常設展示では、東京外国語学校から東京外事専門学校、そして東京外国語大学に至る歴史がパネル展示されていました。

その後、ゆっくりと潁川重寛の伝記を読みながら、日頃一橋大学に通い、週末は神田神保町という両校の祖地で働く私は、非常に親近感を覚えたのでした。

この伝記には、一唐通事からみた東京外国語大学や現一橋大学の黎明期が生き生きと描かれています。東京外国語学校といえば、露語学科にいた長谷川辰之助(二葉亭四迷)が有名ですが、漢語学科を巡る話もなかなか興味深いです。

特に、潁川ら講師が教材もネイティブもほとんどいない中、1冊の本・1人の清人に必死で食らいついて北京官話を習得しようと共勉する姿は圧巻で、講師はまず自分自身が研鑽しなければならないのだ、と強く思いました。

読書も良いですが、こうして色々なところに足を延ばし、その地が辿った運命を読書で学んだことと連鎖させていくことはもっと有意義です。

こうして点と点は繋がり、学問が少しづつ動いていくような気がしました。


喜多田久仁彦2016「唐通事の中国語について」国際言語平和研究所『研究論叢』87,pp.9-20.

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