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【70】新聞を題材とした、お手軽な文章練習の方法。

朝日新聞には「天声人語」というコラムが毎日掲載されている。ご存じの方も多いだろう。

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(参照:天声人語webサイト

有名なコラムで、私は昔「受験対策に読んでおいたほうがいい」、「書き写して文章の練習をせよ」と言われたがある。


とはいえ、「書き写し」に本当に意味があるのかどうかは疑わしい。
なぜなら、これが「名文」なのかと言えば個人的には微妙だと思うからだ。

「書き散らかし」感が強く、論理的な整合も取れていないようなコラムもあり、批判されることもしばしばある。

「天声人語の書き写し」が読解力向上に不要な訳(東洋経済)

朝日新聞のコラム「天声人語」も癖のある文章だ。天声人語に限らず、新聞の第一面のコラムはいずれも癖があるが、やはり天声人語はその中でもとびきりだろう。

新聞のコラム、とりわけ朝日新聞の天声人語を名文とみなしている人がいるのは私も承知している。中学、高校の先生たちには信奉者が多く、これを模範として書き写しをさせたり、要約をさせたりといった指導がなされている。

もちろん、天声人語を読むのはとても良いことだと思う。ぜひ読んでほしい。楽しみにしてほしい。しかし、これは論理的な文章とは言いがたい。しばしば論理がねじれ、意味がとりづらい。これを模範として書き写したり要約したりするのも、ほとんど意味がないと私は思っている。そもそも、これほど要約しづらい文章も珍しい。

私もまあ、おおむね同意見だ。
漫然と「天声人語だから」という理由で書き写しをしても、大して文章力は向上しない。


ただ、「論理的な文章」=「良い文章」と決めつけてしまうのもどうかと思う。
しばしば人を引き付ける文章というのは、論理性によるのではなく、勢いや感情のほとばしり、著者の生の感覚など、「文の印象」によるからだ。


したがって、文章の練習をするならば「自分が好きな文章」を題材にするのが最も良いと、私は思う。

好きな文章であれば、その模倣をするのもつらくなく、また題材を読むのも楽しい作業になる。


深代惇郎の「天声人語」

私の場合、模倣し、練習したことのある文章は次の二人の方のものだ。

一人はピーター・ドラッカーの著作の翻訳をしている、上田惇生氏。
そしてもう一人が、上述した「天声人語」を書いていた、深代惇郎という記者だ。

二人に同じ「惇」という文字が含まれているのは単なる偶然だが、私の文章は彼らの文体の模倣だ。


深代惇郎が天声人語を担当していたのは1970年代、「新聞紙上、最高のコラムニスト」と言われた彼の文章には今でも根強いファンがいる。

私はリアルタイムで彼のコラムを見ていたわけではないが、彼のコラムを勧めてもらって読んだところ、これは面白い、ということですっかり引き込まれた。

興味のある方は、ぜひお手に取ってみるとよいのではないかと思う。


「新聞のコラム」をつかった、お手軽な文章の練習法

さて、前置きはこれくらいにして、本稿の本題に入る。
それは、新聞のコラムを題材とした、お手軽な、文章練習の方法だ。

これは、私が子供のころから練習に使っている方法で、放送作家である父から教わった。
小学生でも簡単にできるほどの練習だが、文章力の向上には確実に効く。


その方法とは「他者の書いたコラムをよんで、自分の意見を書きだす」ことだ。
これより「模倣」のほうが簡単に見えるが、練習の効果は、「自分の意見を書きだす」ほうが、はるかに高い。

なぜなら「文章」を書く時に最も重要なのは、文体や文章のうまさではなく、「文章に何を書くか」だからだ。
何を書くか、という思考を抜きにして、文章力は上がらない。


だから、「漫然と文章を書き写す」のではなく、面白いコラムを読んで、自分なりの意見を書きだす練習を、私は強くお勧めする。

なお、私は前項のような理由で「深代惇郎」のコラムを題材として使うことが非常に多いので、以下で題材として実際に取り上げる。

では、練習方法をご紹介しよう。


1.まずは5分ほどでコラムを読む。

まずは、コラムを5分ほどで読む。
(題材は何のコラムでもよい。本稿では、以下の深代惇郎のコラムを題材として扱う)


超能力少年

人間の知性が曇りやすいことについて、英国の哲学者ベーコンのお話がある。航海安全に御利益あらたかなお寺があった。そのお寺の壁には、航海を終えた人の寄進した額がズラリと並んでいた。

「どうです、あなたもお祈りになったら」と町の人にいわれて、ある船乗りが「でも難破して帰らなかった人の額はないわけですね」と答えたそうである。この船乗りの判断こそ曇りない知性を示すものだ、とベーコンはいっている。

ある結果について、その原因をただちに神秘的あるいは超越的なものに結びつけたい本性を、人間は持っているのかも知れぬ。

 雷が鳴れば神の怒りだ、と思った時代もあった。スプーンが曲がれば「超能力」だと信じるのも、同じことだと言えそうだ。先日、このコラムで「手品を超能力だと称するところがいただけぬ」と書いたら、たくさんの投書をいただいた。ほとんど全部が「科学盲信(※)の独断だ」という反論だった。

 現在の科学で説明できぬ現象は存在しない、などというつもりは毛頭ない。しかし、われわれの理性、経験、知識の想像外のことがあったら、まずそれが本当であるかどうかを疑うのが常識だと思われる。なでただけでスプーンが曲がるものなら、納得いくまで自分の目で確かめたい。そこで二人の「超能力少年」に会い、目の前で実演してもらった。

 大人の力で曲がらぬスプーンを渡すと、やはり曲がらない。「念力が通らぬ」という。「念力」ではなく、自分の力で曲がらぬということだろう。見る者の視線からスプーンをかくさないと「念力が集まらない」という。トリックの場所がないということだろう。

 今週の『週刊朝日』が、テレビの人気者になった「超能力少年」のトリックをカメラでとらえ、その母親が謝っている。子供の遊びならよかったのだが、大人が割り込んで商売にして、いやな話になった。(49・5・16)

出典:深代惇郎の天声人語 朝日文庫

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