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「富」とは何か。富の不平等、貧困の起源について。

-お金持ちになりたい。

ただ漠然とこのように思っているような人は、決して少なくはないと思います。

-とにかくお金持ちになって、働かずに遊んで暮らしたい。
-とにかくお金持ちになって、何でも好きなものを買って、好きなものを食べて、好きなところに行きたい。

理由として多いのは、こんなところだと思いますが、このような願望で言うところの「お金」は、必ずしも「現金」や「預金」といったお金を意味するわけではないと思います。

もちろん、そのようなお金(現金や預金)を「たくさん持てる」というだけでも、大抵の願望は叶うと思いますが、それが資産価値のある「土地」や「貴金属」などでも問題はないはずです。

それこそ、現代であれば「ビットコイン」などの仮想通貨を大量に持てるだけでも、それは実質的に「お金持ち」と同義になると思います。

要するに「お金持ちになりたい」という願望における「お金」とは、いわゆる「富(とみ)」を全般的な対象とするものと言っていいと思います。

富(とみ)とは何か。


-価値のある資産・財産が豊富であること。

辞書などを引いて出てくる「富」の教科書的な答えは、このようなものだと思います。

ここで出てくる『価値のある資産』という文言は、決して主観的な価値観に基づくものではなく、客観的および「一般的な価値」を意味するものであり、端的に言えば『多くの人が認める価値』を意味します。

正義、美徳、愛といったような、人それぞれの主観(価値観)に左右されてしまうようなものではなく、世間一般的な「経済的な価値」や「金銭的な価値」が、ここで言う意味の『価値』を意味するということです。

よって「富」という概念は、多くの人がその経済的、金銭的な『価値』を認めるものの有無や、その「豊富さ」ということになるため、これは「富」が『流動的』であることを意味しています。

世の中の「多くの人」が、その経済的、金銭的な価値を認めるものは、少なからず、その時代の経過と共に移り変わっているからです。

富の「価値基準」は移り変わる。


例えば、中世の日本は「米の埋蔵量」などが富の象徴でした。

現代の価値観で言えば「お米をたくさん持っている」というだけの人に対して『その人に富が集まっている』とは、まず誰も思わないはずです。

また、身近な例で言えばほんの十数年前まで、仮想通貨の代表格であるビットコインは「10000BTC」という単位(枚数)で20ドルにも満たない2枚のピザとの交換に応じてもらえるくらいの価値しかありませんでした。

ですが、2024年時点のビットコインの価値、1BTC 70000USドル(1050万円相当)であれば、この2枚のピザと交換された10000BTCは「7億ドル(約1000億円)」に相当する価値になっています。

つまり、ほんの十数年前であれば「富」とは見なされなかったようなものが、現在の価値基準では、誰もが「富」に相当するものとして、その価値を認めるものになっているということです。

「富裕」と「貧困」の価値基準。


一般的に、富を多く持つ人は富裕(豊か)であり、富を持たない人は貧困(貧しい)と言われます。

ですが、上述した通り、その価値基準は決して一定ではなく、時代の変化と共に、多くの人が「価値」を認めるものの対象は移り変わっています。

ただ、多くの人がその「価値」を認める対象となるものの移り変わりはあっても、その「富」が『多くの人が価値を認めるものの豊富さにある』という点については、決して移り変わりはありません。

富となるものの「対象」や「物差し」は、時代の変化と共に変わっても、富というものの「普遍的な概念」は、決して変わっていないということです。

ゆえに、いつの時代にも多くの富を持つ「富裕層」と、富を持たない「貧困層」が存在し、いわゆる『富の不平等』がいつの時代にも、1つの社会問題になっています。

まさに『富の不平等』が、時に内戦や革命の引き金となり、また、時に、これが対外的な国際戦争などの要因の1つにもなっています。

むしろ「富」というもの自体の起源が、ここで言う「不平等」そのものの起源と言える側面さえあるのではないかと思います。

富の起源こそが「不平等」の起源?


いわゆる「不平等」は『法律』や『制度』などのもとで形成されることもあります。

歴史を遡れば、国や政府が定めた法律や制度自体が「不平等」を推進していた実例が数多くあるからです。

ですが、そもそも「法」や「制度」を司る中央集権的な国家(その原型となるもの)は「富」にあたるものを蓄えた有力者や、そのような有力者達が互いの「富」を守ることを目的に作り出したものと考えられています。

国家の起源とは。国家が形成された理由と要因について(準備中)

未開社会から古代社会までの「富」は、牛などの家畜、穀物などの農作物、そして、それらを生み出す土地などだったと考えられています。

そのような「富」の所有(私有)を互いに尊重し合い、そして、それらを外敵(部外者)の略奪から保護すること。

これらを目的とした集団間の合意のもとで、その集団間における「私有(所有)に関する法(決まり)」が作り出されたことで、名実ともに『私有財産』および『所有権』という概念が生み出される事になりました。

こうして「これは私のものである」という『私有(所有)』という概念が、集団間の合意(法)のもとで「権利」として認め合うようになったことで『富』という概念が形成されるに至ったということです。

「これは私のものである。」


このような『私有財産』『所有権』という概念が形成される以前の未開社会では、基本的に自然界にある資源は全て「共有」されたものでした。

当然、その頃には「富」という概念も、その「不平等」という概念も存在しないことになります。

そもそも、そのような時代の人達には「私有」という概念はもとより「共有」という概念さえもありませんので、ごく自然な成り行きとして、自然界の資源を「共有」していたと考えられます。

よって、狩猟によって自らが狩り取った獲物などを、別の者に力づくで奪われてしまったとしても、それも「弱肉強食」という、その当時の『自然の掟』に準じた事の成り行きであり、奪われた者も、その現実(自然の掟)を受け入れるしかありませんでした。

そのような時代においては、どんなに多くの獲物や作物などを物理的に占有しているような状態を作り出したとしても、それはいつ奪われてもおかしくはない、言わば「仮所有」の状態でしかなったということです。

集団間の合意に基づく「所有権」から「富」が生まれる。


自分が苦労を重ねて手に入れた「有用なもの」であれば、それを「自分のものにしておきたい」と考えるのは、未開人も同じだったはずです。

ゆえに「所有」という概念については、実際には、自然的な成り行きとして互いのもの(仮所有物)を互いが尊重し合うようになり、そこに「所有」における暗黙の合意が成り立つようになっていったのではないかと思います。

特定の集団間において、そのように自然的に成り立っていったであろう「所有権における暗黙の合意」も、その集団社会における『慣習』という名の決まり(法)に違いはありません。

むしろ、そのような集団社会の間で自然的に慣行されていくようになったものが「慣習法」と呼ばれるものの原型であり、古代から中世にかけては、このような「慣習法」こそが、実際に法定拘束力を持つ「法源」の中心でした。

アテネ(古代ギリシア)の慣習法に基づく裁判よって死罪となったとされる哲学者ソクラテス

現代的な「文章」による法(成文法)を定めずとも、集団社会の中で自然的に慣習化されていった慣行が、歴史的には紛れもない「法」として、十分に機能していたということです。

そんな自然的な慣習によって集団間における「所有権」の合意が成り立っていくようになれば、そこには「私有財産」そして「富」が形成されていくことになります。

つまり「富」は、その起源を辿る形でも明白なように、一定範囲の集団間における「法」のもとにおいて成り立つものに他ならないということです。

「それはあなたのものである。」


言い方を変えると「富」は、一定範囲の「法域」において『それはあなたのものである。』という社会的合意が成り立っていることが、富そのものの成立(所有)における必要条件ということになります。

日本の国土(土地)を「富」として「所有」するには、公的にその所有が認められなければなりませんし、それは国外の不動産でも、株や債権などの金融資産でも同じです。

まして、多くの人が「富の象徴」として捉える「お金」などは、それ自体が、国家の「信用」と「信認」によってお金としての価値(交換価値)が保たれているものに他なりません。

また、実質的に中央集権的な権力(国家権力)とは無関係な「ビットコイン」などの仮想通貨も、その根幹を担う「ブロックチェーン」という技術そのものが、まさに「多数決」のような仕組みによって、その所有者を判定する仕組みになっています。

デジタル資産と呼ばれるビットコインさえ、その例外ではなく「富」は、多くの人がその「価値」と「所有権」を認める仕組みや制度によって形成されているものに他ならないということです。

***

所有権のないところに不正義はない。

ジョン・ロック「人間知性論」

ある土地に囲いをして「これは私のものだ」といおうなどと思いついた最初の人こそ、政治社会の真の創始者であった。
(中略)
その囲いのための杭を引き抜き、あるいは堀を埋めながら「このペテン師の言う事を聞いてはいけない。土地や果実は誰のものでもない」と仲間たちに叫んだ人がいたなら、人類はどれほどの犯罪、戦争、殺戮を、どれほどの悲惨と恐怖を免れることができたことか。

ジャン=ジャック・ルソー「人間不平等起源論」

上述したジョン・ロック、ジャン=ジャック・ルソーなどのように「不平等」や「不正義」の起源を、富の起源ともいえる「所有権」や「私的財産」に遡る歴史上の哲学者、社会学者は決して少なくありません。

ただ、ここで上述したプロセスはあくまでも「富の起源」にあたるものであり、それ自体が「不平等そのものの原因」や「貧困の原因」というわけではありません。

では、未開社会、古代社会から形成されるに至った「富(私有財産およびその所有権)」が、どのような経緯を辿り、その不平等を拡大させると共に「貧困」というものを作り出すに至ったのか。

もし、そんな富の不平等、および貧困の「原因」にご興味があれば、以下のようなコンテンツも併せて、是非、お読みいただければと思います。

以下「お金の起源」「お金の価値を裏付けるものは何か」といったテーマの記事もございますので、ご興味があれば、このような記事も、是非、併せてお読みください。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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