ごみ屋敷一歩手前 Minimalistには程遠い 誰かのために幾度かなら 片付けや掃除は好きなんです 自室や自宅となると やる気が全く出ません どちらかと言うと 物に溢れている方が落ち着きます たまに旅館などに宿泊すると 簡素な室内に惹かれます そして 帰ったら散らかった部屋を 片付けると心に誓う 家に戻れば そんな事は忘れたふりして 物に溢れた部屋で寛いでいます ひとりで過ごす事が多かった時は これからしたい事が少なかった時は ずぼらな日々で良かったのですが い
蚤の市帰り 本屋で買い物 有料の紙袋を入れて会計は5000円ぴったり 嬉しくて、この気持ちを店員さんに伝えようとしたがやめた 喜びは誰と分つ ひとりよりも二人 夕方前の帰り道 真っ青な空に白い月 秋の風が吹く 誰かを思い 誰かのためにすること それは自分のためでもある 共に歩み 共に笑いたい 満足したいから 本を開く うとうとと夢を見る あなたは僕と出会い 良い方向に進んでいるだろうか あなたはわたしではない わたしはあなたではない あなたとわたしの道が重なる日
「京都で珈琲屋を開く」と言う計画は、昨年夏に珈琲屋になる事を目指して京都へ来た彼女との出会いから始まった 彼女が週末などに開いている、東寺近くの間借り喫茶へ通う内、たくさんの人に飲んで欲しいと言う願いを応援しようと思うようになった ある日、Kenyaの中煎りを飲んで、この珈琲豆を深煎りにしたらどんな味だろうと思い、深煎りで焼いて欲しいと頼んだ 焼いてもらったKenyaの深煎りは、苦味も酸味も少ない甘味のある、優しくて丸い、たくさんの人に飲んで欲しい味だった Kenyaの
photo- は「光の」、-graph は「かく(書く、描く)もの」「かかれたもの」という意味で、日本語で「光画」とも訳される。“photograph” から、略して「フォト」と呼ぶこともある。 日本語の「写真」という言葉は、中国語の「真を写したもの」からである。 (Wikipediaより) . 小さな頃 皆んなで撮る写真は おちゃらけていた 思春期の頃 写真を撮られるのが すごく嫌だった 大学では写真の授業があった 何をとって良いのかわからなかった その感覚は今も続
何をするにも 笑顔で見送ってくれる人 あーだこーだ言わずに 笑ってくれる 立ち止まっていた僕を そっと見守ってくれた ありがとうを形にしたい 生きているのだから 感謝を伝えたい 思っている事を口に出しても良いんだ そう思える人に出会えた ぼくの根っこは美しかったんだ
午年45歳、年男まであと何年と指折り数えている。 午年ではあるが、馬刺しは好きである。 小さな頃より好き嫌いがなく、肉も野菜も何でも食べていた。 ところが、ある日から草花や木々、食物の命について深く考えるようになった。 彼ら彼女らは、どう思っているのだろうか、痛くないだろうか、嫌じゃないだろうかと問いかけ、次第に草刈りや枝切りすら躊躇し、何も手をつけられない時期があった。 野菜や肉、魚を食べている時には、君はどんな人に育てられたのか、どんな名前だったのか、どこ出身なの
ここ数週間か、Instagramのストーリーズに挑戦している。ほぼ呑んで食べている様子を世界中に晒している。 良いねが欲しいとかはないが、良いねがあると嬉しい。これまでにわかった事は、「え、良いねくれないの?」とは催促しない気持ちが大切だと。 毎日、フォローしてる方々の美味しい、楽しいストーリーズを見ていると同じ空気を味わいたくなる。ストーリーズを通して旅をしているようで、僕の旅の原動力になる。 Twitterは、ぐちツイートになりがちなので、違った切り口を思案している
香港の最近の話題は耳にして知ってはいたが、台湾のこと知らなさ過ぎた。とても無関心だったことに気づく。 先日見た分離派建築会の展示もそうだが、若者の社会への疑問や、はち切れんばかりの情熱があってこそ、社会を変える原動力になって行くんだと思いました。 青春時代は一瞬で、たとへ若者の思いは結実せずとも、どうせ変わらないとあきらめ、現状に慣れきってしまっている大人たちを立ち止まらせ、悪習慣を省みてもらい、より良い社会へと軌道修正する事の重要性を感じました。 個々に課題を持ち取り
今年は、毎月のテーマを決めて思いを巡らせることにし、1月は「アート」について考えました。 来月2月のテーマは「建築」「住まい」です。 建築といっても、アートと同じく専門ではないので、大した考察や分析をするわけではありませんが、この分野に触れ感じた事や、出会ったこと、未来への可能性とか気になる事を書こうと思っています。 偶然ですが、京都国立近代美術館(MoMAK)で 「分離派建築会100年 建築は芸術か?」というタイムリーな展覧会が開催されていたので見に行ってきました。