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「技術」か「影響」か

めちゃくちゃ久しぶりに投稿します。
今回は「サッカーは『競う』べきか『闘う』べきか?」という鎌倉インターナショナルFCさんで監督を務めておられる河内一馬さんの著書を読んだ感想を基に投稿します。
良ければ最後まで目を通していってください。
個人的にこの著書は超が付くほどの名作です。

この著書のタイトル。
既に面白い。
そしてサブタイトルには「なぜ、唯一サッカーだけは世界の壁を越えられないのか?」という私たちへの問いもある。

この答えが分かっていたら既に日本代表はW杯で優勝している。
これを日々追求していくのが日本サッカーを愛する指導者の役目でもある。

では逆に、世界の壁を越えることができているスポーツは何なのか。
柔道、スキー、競泳、野球、フィギュアスケート、マラソン、卓球、体操、レスリング、バドミントン、ソフトボール、テニス、ボクシング。
主に、これらのスポーツを挙げることができる。
ここに挙げることができなかった、世界の壁を越えることがまだできていない主なスポーツも挙げてみる。
サッカー、バスケットボール、ハンドボール、ラグビー。
世界の壁を越えることができているスポーツと、世界の壁を越えることがまだできていないスポーツを皆さん見比べてみてください。
お気付きですか?
世界の壁を越えることがまだできていないスポーツにはある共通点があります。
それは後ほど。

スポーツの目的は何ですか?(以後、スポーツ競技を行う際のスポーツはスポーツではなく「ゲーム」と称する。)
ゲームの目的は「勝利」である。(ゲームの"成功"は「勝利」ではないとも付け足しておく)
ゲームに勝つためにやっているのだ。
でもゲームは1人ではできないし味方だけでもできない。
必ず「相手」がサッカーには存在する。
その相手に勝たないといけない。
言い方を変えれば、「相手よりも優れた結果を残す」ことが「勝利」となる。
それがゲームの目的である。
ここまでは大前提として認識しておいてもらいたい。
(※ここで大事なのがゲームの目的は勝利であるが、サッカーというスポーツをする目的は勝利、ではないということ。
「ゲーム」と「スポーツ」は同じ意味ではない。
ここを取り間違えると、悪質な「勝利至上主義」が生まれる。)

さて、ゲームには大きく2種類に分けることができる。
「競争」のゲームと、「闘争」のゲームだ。
競争とは、異なる時間や異なる空間において相手と優劣を競い合うゲーム。
闘争とは、同じ時間かつ同じ空間において相手と優劣を競い合うゲーム。
大きく分けるとこの2種類である。
ざっくり言うと、「相手に妨害されるかされないか」である。
さらに、この2種類を「個人」と「団体」に分けることもできる。
さらにさらに、闘争ゲームにおいては間接的な闘争ゲームもあるので個人と団体それぞれに組み込むと正確には6種類だ。
では、主にどういうスポーツなのか分けてみる。

①個人競争=競泳、体操、マラソン
②団体競争=競泳リレー、新体操団体、駅伝
③間接的個人闘争=テニス、卓球、バドミントン
④個人闘争=ボクシング、柔道、相撲
⑤間接的団体闘争=野球、ソフトボール、バレーボール、テニス(ダブルス)、卓球(ダブルス)
⑥団体闘争=サッカー、バスケットボール、ハンドボール、ラグビー
※間接的、というのは「道具を介して相手を妨害する(直接は相手を妨害しない)」ということである。

もうお気付きですよね?
さっきの世界の壁を越えることがまだできていないスポーツは全て⑥の「団体闘争」に分類することができます。
すなわち、「同じ時間かつ同じ空間において相手と優劣を競い合い、かつ相手への妨害に道具を介さない団体スポーツ」が世界の壁を越えられていないということになる。
これは非常に興味深い。
もっと分かりやすく解説すると、「相手と道具を介さずに身体をぶつけ合う団体スポーツ」である。
※では、なぜ女子サッカーは世界一になれたのかはこれも面白い理由があるのだがここでは割愛する。

では、なぜ団体闘争では世界の壁を越えられないのか。
それは日本という国が団体闘争というスポーツへの認識を誤っているからだと断言する。
競争ゲームは相手に妨害されることがない。
すなわち、自分が持っている技術を発揮する権利が保障されている。
これは体操で考えると分かりやすいが、自分が発揮した技術に採点をつけられて相手より優れていたら勝利となる。
相手に勝利するために技術を高めることに集中すればいいし、日々トレーニングすればいい。
逆に闘争ゲームは相手に妨害される。(妨害することもできる)
こちらは何が保障されているかと言うと、相手プレイヤーに影響を与える権利が保障されている。
なので、初めて競争ゲームを行う者は技術を発揮できる保障があるので技術を高めることからスタートすればいい。
技術を高めることが能力向上になり、そのゲームを楽しむこともできる。
逆に、初めて闘争ゲームを行う者は相手プレイヤーに妨害される可能性があり、技術を発揮する権利が保障されていないので、技術を高めることからスタートをするというのは理論上誤りである。
それよりも、どうすれば相手プレイヤーに効果的に影響を与えることができるかを理解させることからスタートするべきである。

どうも私が思うに、闘争ゲームというものに分類されるサッカーというスポーツに対しても競争ゲームと同じ認識をされているように思う。
まるで、あたかも技術を発揮する権利が保障されているかのように。
日本人は上手いけど、サッカーが下手だ。
日本人は技術はあるけど、試合になると下手になる。
という、よく聞くこのフレーズの正体はこれではないだろうか。
ゲームで使える技術は相手プレイヤーに影響を与えられるかによって決まる。

ここでもう一つ踏み込んで皆さんと一緒に考えたい。
練習と試合はどちらが先でどちらが最重要であるかということである。
ここまでの文章の意味をしっかり理解されている方にはもう明確に答えが分かる問いである。
「練習に軸を置き、その上で試合がある」という構造は、「技術を発揮する権利が保障されている」からこそ機能するものである。
なので、競争ゲームは「練習は裏切らない」という考え方になる。
一方で、闘争ゲームは相手プレイヤーに直接影響を受けるので、ゲームにおいて必要な要素は理論上は事前に把握できない。
なので、「まず試合があり、その上で練習がある」という構造こそが闘争ゲームにおけるより確かな構造である。
なので、普通に「練習は裏切る」こともある。
普段の練習は「練習」という言葉ではなく、試合に向けての「リハーサル」という言葉を使った方が適切である。

ゲームを勝利するためにもう一つ重要な要素は「自信を持つこと」である。
この自信について少し考えてみる。
競争ゲームにおいては、技術を発揮できる権利が保障されているので「量による自信」を持つことが可能である。
「私はこれだけやったのだから」、「誰よりも私は練習したのだから」という考え方の自信を持つことができるし正しい自信である。
自分次第で練習したことを発揮できるので、「自分に勝つ」というフレーズも正しい。
逆に闘争ゲームはどうだろうか。
量による自信は嘘であり、全くの偽りである。
闘争ゲームでは、理論上は「試合における成功体験」を積み上げていくしかないのだ。
この成功体験を得るためには失敗が必要になってくる。
最初から成功する者なんていても少数で、失敗をしながら成功体験を積み上げていかなくてはいけない。
それが、やがて自信になってくる。
「相手プレイヤーより多く練習したから」という自信は簡単に崩れ去る。
「自信を得るために、練習時間を増やす」という言葉は闘争の言葉ではなく競争の言葉である。
練習の量と自信の関係はサッカーでは無縁で、自信を持つためには試合でチャレンジするしかない。
サッカーは「自分に勝つ」のではなく「相手に勝つ」ゲームであるからだ。
ここの認識を間違っていてはいないだろうか。
ここの認識を間違えると団体闘争というスポーツの落とし穴にずぼりとハマってしまうことになる。

サッカーは「技術」の高さ合戦なのではなく、いかに相手に「影響」を与えられるか合戦なのだ。

この認識の誤りが、世界の壁を越えられない理由ではないだろうか。



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