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理沙とやせトガリのわんこ(第一話)

理沙とやせトガリのわんこ   作:高木優至
 
第一話:出会い
 
 
「そっか、君も人間が怖いんだね。」
 
町を横切るように流れる加茂瀬川の橋の下で、白い小さなわんこと出合った。その出会いは一人と一匹にとって偶然であり、必然だった。
 
 
窓から差し込む眩しいほどの朝日。小学生の朝は早い。うちは母が起こしてくれないから自分で起きなくてはならない。あーあ、あと1時間遅ければもっと寝ていられるのに。
 
(あと5分。あと5分…ってもうこんな時間じゃん!)
 
慌てて顔を洗って着替える。パンを牛乳で流し込む。歯を磨いてランドセルを背負うと、急いで靴を履いた。「行ってきます。」私の声が廊下に空しく響く。
 
「理沙ちゃん。おはよう。」
「おはよう…ございます。」
 
毎日交差点に立っている近所のおじいちゃん。タバコ臭い。私は正直苦手だ。たまーにお菓子を渡してくる。それだけは少し感謝している。
鳥たちが賑やかにおしゃべりしている。桜も散って葉桜の緑が瑞々しい。今日も今日とて、私は小学校へと通っている。でも正直学校は好きではない。でも行かなきゃいけない。だから足が重たくなる。けどそれでも何とか通っている。
 
そんな私が密かに楽しみにしていることがある。それはこの先の駐車場で出会う猫ちゃんだ。毎日決まった時間にお気に入りの薪の上で日向ぼっこしている。羨ましい限りである。真っ暗な夜のお空よりも真っ黒な猫ちゃんで、お顔には黄色い瞳がキラキラしている。まるで夜空の星の様に。そのお星さまが二つ、ジーッとこちらの様子を伺っている。グッと引き込まれてしまいそうな可愛さだ。思わず私はそーっと顎に手を伸ばす。
 
「にゃーご。」
 
 猫ちゃんはスッと私の手をかわすと、チラッとこちらを見た。ゆっくり立ち上がるとスタスタとそのまま歩いて行く。そして茂みの奥の方へ姿を消してしまった。
 
「あぁ、待って。」
 
どうやら今日はご機嫌斜めの様だ。機嫌のいい時はゴロゴロと喉を鳴らして撫でさせてくれるのに。何ともつれない奴である。あの撫で撫でタイムが私にとって、どんなに癒しの時間となっていることか。…だから今日は、私もムスッとタイム。
 少し先の側溝でカエルが鳴いている。ゲロゲロ、ゲロゲロ。そーっと近寄って目を凝らしてみるが…どこにも見当らない。
 
(お主、やりおるな。)
 
歩道脇の草むらを踏む度、ピョンピョンピョンピョン。バッタが飛び跳ねる。楽しくなって私も一緒にピョンピョンピョンピョン。程なくして葉っぱだらけの靴が完成した。
 
(ああーあ。靴の先、緑になってるよ。草の露の奴め。ヤバい。お母さんに怒られる。)
 
側溝に駆け込むと、靴を軽く水につけて足をフリフリした。振り落とされた葉っぱ達が、次々に流されていく。
 
(冷たっ!)
 
少し水が入ってしまった。が、まあこの位ならすぐに乾くだろう。
 
 
 歩く度に、靴下に水が沁み込む感触がする。なんか気持ち悪い。それでも我慢して歩き続けると、大きな銀杏の木が見えてきた。学校に到着。見上げると、校舎の真ん中に取り付けられた真ん丸時計がお出迎え。いつもあれを見て時間を確認する。それが私のお決まりパターン。
 
(よし、今日もバッチリ。)
 
校門を通り過ぎて玄関へ。ずらりと並んだ靴箱。靴箱に靴をしまおうとした瞬間。私の目には驚きの光景が。上履きにたっぷりの生クリーム。
 
(あー。)
 
一瞬時が止まる。そしてある言葉がグルグルと頭を駆け巡った。
 
(どうして、どうして。)
 
不意に零れ落ちそうになった涙を必死にこらえながら、その言葉は何度も何度も私の頭の中を駆け巡った。私はその言葉を振り払うようにギュっと拳を握りしめた。少し俯いたままの姿勢で、私はトイレに向かった。
いつだったか…借りパクしたままこっそり隠しておいた、スリッパを履くために。顔を上げると、鏡にグッと唇をかみしめた女の子が映っていた。…涙が一筋、零れ落ちた。
私は教室へと歩き出した。先生に「上履きはどうした。」と聞かれたが、「忘れたのでスリッパを借りました。」と嘘をついた。ふぅ、今日も世界は私に優しくない。周りの子たちが私を見て薄ら笑っているように感じる。
 
(早く、早く時間よ過ぎ去れー。)
 
私はただただ「早く終われ。早く終われ。」それだけを心の中で唱え続けた。
 
カッコー、カッコー。遠くの方でカッコウが鳴いている。麗らかな日差しが教室に降り注いでいる。私の心は…ソワソワと落ち着かないというのに。黒板から響くカッカッというチョークの堅い音。今の私の心に冷たく突き刺ってくる。
キーンコーンカーンコーン。鐘の音が終業を告げる。先生の「皆さんさようなら。」という言葉を聞き終わるもより早く、私は鞄を手に取り、そそくさと玄関へ向かった。靴箱に入ったままのクリーム漬けの上履きとスリッパを入れ替る。私はそれをサッとランドセルに押し込んだ。外履きをパッと投げ捨てると、無造作に足を突っ込んだ。私は逃げ去る様に校舎から遠ざかった。
 
(早く。早く。少しでも早く遠くへ。)
 
私は一秒でも早く学校から離れたかった。
 
 いつも右に曲がる交差点を左に曲がった。自然と足が速くなる。道なりに進んで行くと少し大きな橋が見えてきた。加茂川橋。堤防から川へと降りて行く。私は流れの緩やかな場所を探した。
少し進んだ所に良さげな場所を見つけた。背負っていたランドセルを下ろす。クリームだらけの上履きに、まだまだ冷たい川の水。そっと上履きを浸す。川の水の冷たさに思わず手を引っ込めた。零れ落ちた生クリームがゆらゆらと流れていく。生クリームが…ゆらゆらと。自然と涙が零れ落ちた。
 
「ううっ。っつ、」
 
思わずギュっと唇を噛みしめた。それでも涙は止まらなかった。ただただ黙々と手を動かし続けた。ただただ、黙々と。黙々と。気持ち悪い感触が手に纏わり付いてくる。拭っても拭っても纏わり付いてきて落ちない。
 
(こいつめ! こいつめ!)
 
たくさんの顔が頭に浮かんだ。
 
(こいつめ! こいつめ!)
 
どう頑張っても元の清々しい上履きに戻ることはなかった。私はあらかた生クリームが取れた所で、上履きを乾かそうと草むらを上った。
 
「わっ!」
 
思わず声が出てしまった。体が有り得ない位ビクッとした。目の前には…同じくビクッと身を震わせたわんこがいた。こちらの様子を伺っている。白くて小さな雑種。小刻みにプルプルと震えている。酷くやせ細っていてなんともみすぼらしい。
 
「ごめんね。ここって君の場所だった?」
 
刺激しないようにゆっくりとゆっくりとまあるく進んで行く。少し離れた芝生まで進むと、びしょ濡れになった上履きを芝生へポンと投げる。横目にわんこを見ながら、これまたゆっくりとしゃがみ込む。わんこは足元にあるビニール袋を守る様に、前足を必死に突っ張っていた。私が少し動くだけでピクリ。動くとピクリ。さてはてどうしたものやら。
 
「大丈夫。君の邪魔はしないからさ。少ーしだけ、ここに居ても良いかな?」
 
 しばらくこちらの様子を見ていたわんこだったが、何もしないとわかるとビニール袋をクンクンと嗅ぎだした。中を漁り始める。
 
「何か美味しいものでもあったかな?」
 
 軽く覗くように私は腰を浮かせた。その瞬間わんこがバッと身構えてこちらを睨みつけた。うううと低い声で唸っている。
 
「ごめん、ごめんて。本当に何もしないから。…そっか、君も人間が怖いんだね。」
 
 それから私は、靴のびちゃびちゃが収まるまでの間。ただただジーッと流れる川を見続けた。どうしても今、私の近くに居てくれるこの存在を逃したくなかったのだ。ただそこに居てくれるだけでいい。それだけで。ただそれだけで…。
 
 (眩しっ!)
 
西に傾き始めた太陽が私の目を眩ませる。時折りカラスの声がカーカーと聞こえてくる。ビニール袋を荒らし尽くして気が済んだのか、わんこがふとこちらを見た。その目がとても寂しそうに見えて、私の心はザワザワした。思わず目を逸らす。もう一人の私が助けを求めている様な。なんかそんな気がしたんだ。
 
(悪いのは私じゃない。私は悪い子なんかじゃない!)
 
視線を戻すと、もうそこにわんこの姿は無かった。
 
「また、会えるかな?」
 
これが私とスレッドの、初めての出会いだった。

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