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『あるがまま』ってどうすればいいの?

『あるがまま』と言われても、どうすればいいの?と思いませんか。
メンタルや、禅などを扱う書籍では、あるがままというという言葉をよく見かけます。

これって、使っている当人からしたらその言葉通りなのですが、分からない人からしたら、具体的ではない言葉です。

・何も行動しなくていいというわけでもなく、行動すればいいわけでもない
・何かしないとと思っているなら何もしなくていいし、何もしなくていいと思っているならそれもしない


こういうことを禅問答と言うそうです。
『転じて、何を言っているのか、はたからは分からない問答。』
おそらく禅問答とは、答えを聞いている方も分かっていないけれども、分かる時がきたらその答えに納得するもの。だと思います。

そして、この『あるがまま』というのも、まさにそれで、言われても分からない人には分からない言葉だけれども、それを知りたい人には必要な言葉です。


ちょうど、この『はじめての森田療法』の書籍を読んでいて、精神疾患を治療するのに、森田療法では、症状についての取り組みとして『あるがまま』という治療方針が書かれていたので、『あるがまま』を説明してみようと思いました。


おそらく乱暴な表現をすると、あるがままとは、気になることは忘れて、やりたいようにやろう。
と言うことだと私は解釈しています。

ただし、そう言ってしまうと色々疑問点が浮かびます。
①気になることをどうやって忘れるのか?
②やりたいこととは何か?なんでもやってもいいのか?


もっとも知りたいのは、『①気になることをどうやって忘れるのか?』でしょう。
だって、それができないから精神疾患にならないわけですし。

ただ森田療法では、こうした気になることを忘れるようには、しないそうです。ここに、『あるがまま』があります。


精神的なトラブルを抱えている人は、その精神面をどうにかしようと頑張ります。
しかし、その精神面について考えるほど、精神のトラブルがよく見えるようになり、解決しようとするほど、解決できなくなります。
それは、精神的なトラブルについて、精神的なアプローチは効果がない、と言うことだと思います。

つまり、考え方を変えたり、忘れるように努力したり、気分のよくなるものを読んだり・実行したり、そうした精神面のアプローチは、トラブルを解消しません。

これは、精神的なトラブルは、時間が解決するもので、その時間をすっ飛ばして何かやろうとすれば、それは余計に時間がかかるようになってしまうからではないでしょうか。

『禅ゴルフ』という書籍にこんな話があります。

一人の若者が剣道の達人を訪ねて、こう聞いた。「先生、もし私が先生の下で真剣に修行させていただけるとしたら、いったいどれくらいの期間で剣の道を極めることができるでしょうか」
「たぶん10年くらいかかるだろう」と達人は答えた。
「ずいぶん長くかかるのですね」と若者。「では、それ以上に真剣に修行したら、どれくらいかかるのでしょうか」
「たぶん、20年はかかるだろう」
青年は驚いた。「先生は最初、10年と申されました。ところが、今度は20年とおおせです。では、私がこれ以上不可能と言えるほど真剣に修行したとしたら、どうでしょうか」
「そうだな」と達人は応じた。「その場合は、30年はかかるな。お前のようにせっかちに結果を出したがる者は、何を習うにしても時間がかかるのだ」

禅ゴルフ  著者:ジョセフ・ペアレント


私たちは、一生懸命に何かをすれば、それだけ早くものごとが解決に向かうと思っているところがあります。
とくに精神的なトラブルを抱えている人は、それを早くなんとかしたいと思うのも当然です。
そして、それを解決するために、今までコレコレをやってきた、と言えるものが数多くあるでしょう。

しかし、そうしたトラブルを抱えていない人は、そのために何かをしているようには思えません。
それは、そうしたトラブルを抱えたことがないから、ではなく、それをトラブルだと思っていないから「あらがわない」、ということだと思います。

同じことを体験していても、トラブルだと思わなければ、それを解決しようとはしません。
それをトラブルだと思ったり、トラブルだと指摘されるから、それは解決しないとまずい、と考えるわけです。


その上で、『①気になることをどうやって忘れるのか?』に戻ると、気になることを忘れようとせず、そのまま放っておくというのが、『あるがまま』になります。それは耐える、でもありません。
心の内側で、それについては何もしない、ということです。
気になることを忘れようと努力もせず、かと言って気になることについて考えることもせず、何か別なことを考えようともせず、何もしない。


もうひとつ禅ゴルフから。

 一人の若者が、粘土の像を持っていた。家宝だったが、若者はこれが味気無い茶色の粘土でなくて黄色に輝く黄金でできた像ならよかったのに、といつも考えていた。だから若者は、生計を得はじめると、粘土の像を黄金の延べ板で覆うといいう特別の計画を実現するに足るだけの額を目標に、折りに触れていくらかずつ貯金したのだった。
 計画は実現し、粘土の像は若者の希望どおり金で覆われ、人々は称賛した。若者は、金の像を手にしたことに大いなる誇りを感じた。しかし、せっかくの金の延べ板は粘土にうまく馴染まず、しばらくするうちに部分的にはげ始めた。そこで若者は、像を修理に出して、さらに金を貼らせた。だがそうしているうちに、全財産とすべての時間を費やさない限り、黄金の像を維持していくのは不可能であることを悟った。
 ある日突然、若者の祖父が何年も続いた長旅から帰ってきた。若者は、粘土の像が黄金の像に変わった姿を祖父に見せたかった。しかし、金がはげ、粘土が露出している部分が何か所もあったため、若者はいささか困惑した。
 老人はにっこり笑って、愛おしげにその像を握った。そして、濡れた布で像をそっと擦り、徐々に粘土の部分をはがしていった。
「この像は、何年も前におそらく泥の中に落ちて、粘土がこびりついてしまったに違いない。だが、そのころはまだ小さかったから、そんなことは知らなかったお前は、これは初めから粘土の像だと思ったのだろう。しかし、ここを見てごらん」
 老人はそう言うと、粘土がはがれた下から明るい金色の光がさしている部分を孫に見せた。「この像は、粘土の層のしたは初めから純金だったのだよ。だから、粘土を金で覆う必要はまったくなかったのだ。さあ、これでこの像の正体がわかったのだから、粘土をそっと拭い落としてごらん。お前がずっと昔から持っていた純金の像が姿を現わすから」

禅ゴルフ  著者:ジョセフ・ペアレント


この逸話を読んで、あるがままとは、そのままのあなたが素晴らしい、と解釈してしまいそうですが、そうではないと思います。
私たちの心は、この金の像のように、粘土に覆われることがあります。
その心を解決しようとするのは、像に金の板を貼り付けたのと同じように、それを覆っているだけで、解決はしていません。

なぜなら、トラブルだと思っている限り、その粘土は永遠に消えないからです。


あるがままとは、そのトラブルだと思っているものと共存することです。
共存して、それがあたりまえだと感じたら、それはすでにトラブルだとは思わなくなります。

じゃあそれは、我慢することなのか?
もちろんそれも違います。
我慢とは、結局そのトラブルを気にし続けているからです。

じゃあ、もうどうしようもないって、あきらめることなのか?
まさに、そうだと思います。
忘れようとも努力せず、いつまでも気にしない姿勢。


それではあるがままの、気になることは忘れて、やりたいようにやろう。のふたつめ。
②やりたいこととは何か?なんでもやってもいいのか?
これも、「①気になることをどうやって忘れるのか?」と同じだと思っています。


やりたいことが分からない。なんでもやったら大変なことになるかもしれない。
これって精神的なトラブルを、トラブルだと思ってどうにかしようとしていたのと同じで、それを考え続けている限り、自身を粘土で覆っているのと同じです。

だって、美味い匂いを嗅いだら食べたくなるし、友達が困っていたら助けようとするし、面白い動画があったら見ちゃうでしょう?
ついついやっちゃう時って、それについてどうこう考えていないはずです。

じゃあ、コレはいい、コレはダメだって思って行動すれば、上手くいくかっていうとそうでもないじゃないですか。
じゃあ、なにも考えないで行動すればいいか?ってなると、それもまた違う。

結局、コレはいい、コレはダメっていうのは決めつけだし、じゃあ思ったことをなんでもやっていいんだ、っていうのも決めつけです。
『あるがまま』とは、そうしたものから解放された状態、自分の頭でどうこうしようとすることから、解放された状態です。


だから、何も考えないでやればいいんだけど、何も考えないで行動すればいいんでしょ?って聞かれると、それは違うってなるんです。

禅問答とは、『転じて、何を言っているのか、はたからは分からない問答。』
答えを聞いている方も分かっていないけれども、分かる時がきたらその答えに納得するもの。


分かったようで、分からない。
『あるがまま』とは、その感覚が正しいありようだと思います。

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