なぜ、若者は「顔を隠す」ようになったのか
anonymous(アノニマス)。それは「匿名」。without nameが由来だとも言われている。
日本の流行顔を追ったこの動画。最後を彩ったのはマスクをつけた女性だった。ちょうどこのYouTubeが話題になった際、アメリカから来た会社のメンバーが「どうして日本はマスクをつけている人が多いの?」と質問してきた。
その時、ふと思った。顔を隠す人が増えたと。
三種の神器−−マスク、メガネ、イヤフォン
インフルエンザやPM2.5の予防のマスク市場は拡大したと言われている。これが2009年。でも、現在では、体調と関係なく装着する「だてマスク」が人気だ。すっぴんを隠す用途のほか、安心するためにマスクをつける人も多い。
これに似ているのが、「だてメガネ」だ。2011年のPCメガネが大流行したことをきっかけにブレイクしたように見える。メガネは視力を補助するタメだけのものではない。目の周りをフレームで囲い、素顔にフタをしてくれる存在でもある。
そして最後にイヤフォン。音楽を聴くのはもちろん、耳を塞ぐためにつける人もいる。悪い声は聴こえない上に他人から話しかけられることもない。イヤフォンは外部をシャットアウトしてくれる存在なのだ。
別に、孤独になりたいわけじゃない
こういった動向を見ると「若者は他者を拒否している」と懸念を表する人もいる。実際、博報堂生活総合研究所によると、「友だちは多ければ多いほどよい」思う若者は、1998年から減り続けている(下の2つは20代の数値をもとにグラフ化したもの)。
しかし、奇妙なことにSNSは積極的に使いたいという声は増えている。
Twitterブームも去った現在、以前のような期待感は薄い。しかしこのグラフは「他者との繋がること」への関心の高さを示す。
そう、他者を排除してるわけではないのだ。より手軽に他者と接続できるようになった先に、今がある。コミュニケーションが不全に陥っていると判断するのは早計だ。
人とつながりたいのか、そうではないのか? 相反する行動はなぜ起こる?
SNSは未知なる交流が楽しめるツールであるにもかかわらず、実際に頻繁にやり取りするのは、面識のある人が多いという。LINEやFacebookはまさにそう。もともとのつながりを深く濃いものにしていく手段だ。これに関してはハーバード大学フェローであるダナ・ボイド氏の「つながりっぱなしの日常を生きる」に詳しく書いてある。
しかし、他方で「サブアカウント」をやりくりする若者たちは多い。これは、リアルな友人に対して「キャラ外の自分」を隠すために使われているという。
社会では、それぞれの役割(キャラ)が付与される。各々がなんとなく想像できる範囲の言動をとるからこそ、保たれる空気があるのだ。スクールカーストはその顕著な例だろう。権力を持った層や地味な層。さまざまなキャラが折り合って組織が成り立つ。
そんな中キャラ外の一面を見せたらどうなるだろうか? みんなでなんとか作り上げた均衡が崩れてしまいかねない。極論、バランスを保つためにはそんな異分子は排除した方がいいと力が働くこともあるだろう。「イタいキャラ(笑)」の烙印は、そのはじまりかもしれない。
サブアカをリアルな友人に発見されて動揺するのはこのためだろう。キャラ外の自分を見つけられるのは致命傷になりかねない。
監獄とまなざしの可視化
SNSはその可視性によって、高い位置から人間関係を眺めさせてくれる。思わぬ知り合い同士のやりとりを見て「こことここつながってるの?」と感じるのは、まさに鳥瞰的に相関図を見ているからだろう。観察しているのだ。
パノプティコン(全展望監視システム)に似ている。これは監獄の構想で、中央部にいる監視員が、自分たちの姿を見られずに、すべての独房を観察できる設計を指す。SNSで俯瞰して人間関係を見ているとき、人は監視員になる。
しかし、その立場は逆転するのが常だ。監視しているユーザー自身も他者から容易に観察されうる。だからこそ、他人の目を常に意識せずにはいられなくなる。
相互監視の風潮は、おそらく昔からあったものだろう。けれども、SNSはそれすらも可視化した。
監視はSNSからリアルの世界にも及ぶ。たとえ、本名を晒していなくとも、個人が特定される瞬間を私たちは度々見てきた。顔やチェックインなど、断片的な情報から個人が特定され、知らない人からメッセージが来る。そんな話もよく聞くようになった。トラッキングと検索から逃れるのは難しい。ネット上の匿名性は神話になった。
監視が怖いのならば、何も発信しなければいい。でも、ここにジレンマがある。自分の情報を提供するほどに、得られるベネフィットも多いのが、ビッグデータ時代。個人情報を発信するほどに、心地良いコミュニティーを見つけられるし、自分の好みにあった商品がレコメンドされる。
トゥルーマン・ショーのような世界の中で
ここで思い出したのが、1998年公開の「トゥルーマン・ショー」だ。
主人公がごく普通に生きていると思っていた世界はテレビのセットの中。これまでの人生はリアリティ番組として放映されたものだった。家族も近所の人もみんな台本通りに振舞っていただけ。これに気づいた主人公は、巨大セットの中から脱出する——。
パラマウント・ジャパン / Amazon
誰かに見られ、笑われているかもしれない。そんなまなざしへの意識をこの作品はコミカルに描いている。加えて、すべてのコミュニケーションは台本どおり。キャラが前提となった人間関係をも映し出す。
監視環境が整い、キャラ外の言動を恐れるSNS時代。みんながトゥルーマンなのだ。でも、彼と違って私たちは脱出する先がない。なぜならここは現実だから。
Sean McGrath / Flickr
お面をかぶる若者は、演技の大切さも他者との関り合いの大切さも知っている。それなりに、複数のキャラをやりくりし、いびつながらも努力をしているのだ。
コミュニケーションがより複雑化し、パノプティコンのような世界。そんな現実を逃げずに受け入れるために、たまには「名無しさん」になりたいのだろう。お面を被ったときの安心感。これはきっとキャラの呪縛とまなざしからの防御。ネット上では逃げられない。だからせめて物理的にanonymousな存在になりたいのだ。
Top image by Tim Pierce / Flickr / Creative Commons
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