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オタクをこじらせて

中学1年生になった春。私の世界は突然広くなった。電車通学を始めたからというのも大きかったが、後ろの席に座ったFが、私と同じで『HUNTER×HUNTER』のクラピカが好きだったからだ。

彼女が通学バッグに付けているクラピカのキーホルダーが視界に入った。

「Fちゃんもクラピカ好きなの……?」

手探りで質問をすると、彼女の顔はパッと明るくなり、私たちはすぐに仲良くなった。

心底安心した。一人で電車に揺られて見知らぬ土地にある学校に通うことは、期待もありつつ、心細かったからだ。四方八方からやってくる見知らぬ人たちと仲良くなれるのか不安だった。でも「クラピカが好き」という、自分にとっての最重要事項が共有できる存在とすぐに出会えたことは、暗闇の中でサーチライトを見つけたような安心感を私に芽生えさせた。

Fは、板橋に住んでいて小学生の頃からよく池袋で遊んでいたらしい。彼女が「素敵な場所がある」と、連れて行ってくれたのが、池袋のアニメイトだった。自分の家の近くにはない、専門店に足を踏み入れると「天国か」と思った。蛍光灯に照らされた白っぽい店内には、視界いっぱいに2次元のグッズが売っている。ポスターに文房具にキーホルダー。客は自分たちよりも年上が多く、大人の場所に来てしまったような感覚がする。私は初めて行ったアニメイトでFとお揃いのキーホルダーを買った。

アニメイトが店を構える通りは「乙女ロード」と呼ばれていて、マンガ・アニメのキャラクターグッズなどを取り扱う専門店が密集していた。Fに手を引っ張られながら入ったK-BOOKSで、ボーイズラブというジャンルを知ることとなる。初めて見る世界は、咀嚼するまでに時間がかかったものの、確実に中毒性があった。世の中には二次創作というものがあり、本家とは異なる作家による同人誌が商業として成り立っていることも、この時に知った。

「掲示板」や「MSNメッセンジャー」を教えてくれたのもFだった。まだSNSがない時代、私たちはいろいろなツールを使っては、会話を楽しんでいた。掲示板にいる、全く知らない人と交流する時間は、これまで味わったことない新鮮なものだった。親が知ったら顔をしかめそうだ。だが、危なそうなところも含めて、私にとって魅力的な遊び場だった。

私はいろいろな作品が好きになっていった。『テニスの王子様』『シャーマンキング』といったジャンプ作品から、『ときめきメモリアル』『テイルズオブファンタジア』などゲームを夜中の3時すぎまでやり込む。夜な夜なプレイするゲームほど楽しいものはなかった。


Fは、「裏の世界」へ私を案内してくれた一方、自分たちに向けられる眼差しにも自覚的だった。教室で嬉々として「2ちゃんでさ〜」とFに話しかけると、彼女は一瞬顔を歪ませて「その単語はあまり大きな声で発しない方がいい」と口の前で人差し指を立てた。その時は意味が分からなかったが、時間が経つにつれ少しずつ理解ができるようになった。

オタク的な趣味・行動は嫌われていたのだ。

今では信じられないかもしれないが、当時「アニメやマンガは子供のものであり、大人がそれを嗜むのは異常だ」という意識が親世代を中心に根強く存在していた。なんでも、元号が昭和から平成に変わるぐらいのタイミングで起きた連続幼女殺人事件は、当時の世間を震撼させたらしい。連続殺人犯のアニメやマンガのグッズで満たされた部屋は連日マスコミを賑わし、その結果「オタクは異常だ」という偏った認識が広まったのだろう。私の親も、何の疑いもなく「オタクは気持ち悪い」と言っていた。

そういう背景もあって、中学生にもなって2次元に耽溺する私は「危うい」と認識されていた。姉が親戚の前で得意になって話す。「この子さぁ、まだマンガ読んでるんだよ。しかも少年マンガ!」親戚たちは「まぁ! マンガ読んだり、ゲームばっかりしてると教育上良くないって言うわよね、大丈夫なの?」「学校楽しくないの?」「池袋に通ってるの!? あんな治安の悪いところ? 」と聞いてくる。私は顔を真っ赤にしてうつむいていた。

学校でも同じだった。オタクのような暗い存在は、教室内のカーストでは「最下位」に近い位置づけで、攻撃の標的になるか、空気のような見えない存在として扱われるかの二択だった。「あいつ調子乗ってるよな〜」「うわ、キモ……」教室の後ろのほうから声が聞こえると、身を縮こまらせた。「あいつ」が誰なのかは分からない。でも、次は自分が標的にされる番なのだろうか。そう思うと、自分の好きなものを堂々と謳歌することなどできず、ただただ声を潜めるしかできなかった。

中学2年生になるとFとクラスが別々になり、瞬く間に疎遠になった。クラスをまたいで彼女と友好関係を築けるほど、私には勇気も根気もなかった。体育の授業でグループ分けする瞬間、校外学習で班を組む時、私が守らなければいけなかったのは、目先の友人関係だったから。毎晩、湯船に浸かりながら「オタクは卒業する、卒業する、卒業する……」と自己暗示をかけ、掲示板に行くのもやめた。

新しいクラスで仲良くなったのは、モテる集団だった。彼女たちには自分がオタクであることは知られていない。アニメイトに通い、同人誌を読み漁り、掲示板に入り浸っていることは言えなかった。

狭い教室で、なんとか生き抜くので精一杯。笑顔を顔に貼り付けて、放課後はマクドナルドで恋バナをする。この世に好きな男子などいなかったけれど、適当にウンウンと頷いて時間を潰した。フライドポテトで腹を満たして、太ももあたりに脂肪をつけていく。「うわ! このポテト、塩がかかってなくない? 全然味がしない!」とグループの誰かが言った。私は全く気がつかず、味のしない芋を頬張っていた。

Fは別のクラスで仲良くなった友達ときっとアニメイトに通っているのだろう。

廊下ですれ違った時に、「久しぶり〜」と挨拶をした時にそう感じた。私もFも隣には別の友達がいた。「私ではない」子と楽しそうに話すFを見て寂しさも覚えたが、心のどこかで安心してさえいた。ヒエラルキーの下にいかなくてすむ、と。

徐々に言動が変わっていく様子を見た姉は「ようやく”卒業”したんだね〜、ホント心配したんだよ〜」と言いながら音楽番組を見ていた。モテることに命を懸けていた姉は、流行りのブランドに身を包み、街を彩るラブソングを練習し、恋愛小説をバイブルとしていた。大人になるということは、愛を知るということなのだろうか。そんなことより『HUNTER×HUNTER』の続きが知りたかった。物語の続きを首を長くして待ちながら、私は段々と自分が薄らいでいくのを感じていた。


大学に入学した時に、戸惑った。

多くの学生が自分の好きな2次元作品について熱弁していたのだ。私が教室内のヒエラルキーで溺れている間に風向きが変わっていたのかもしれない。学食や廊下、いたるところで熱のこもった自論が繰り広げられる。彼らの熱弁は、一度足を洗った自分ができないような長い年月を感じさせるもので、「どんなアニメ通ってきた?」「エヴァは何話が好き?」「好きなBL作家は?」と話を振られるたびに口ごもることしかできなかった。

彼らはみんな、オタクとして「積み重ねた歴史」がある。自分とは比べ物にならないほどのコンテンツを摂取し、二次創作や鋭い考察を展開する能動性がある。何より、周りからどれもない何と言われようとも揺るがない信念があった。そういう人たちを前に、自分はオタクだと自称することなんて、できない。「味気ない」。同級生が熱弁を繰り広げるのを、学食の奥から眺めながら思った。

罪悪感と劣等感を積もらせて4年間を終えようとしている頃、嘘みたいなニュースが流れてきた。

『HUNTER×HUNTER』のアニメが劇場公開されるのだという。総集編ではなく、完全オリジナルの新作で、クラピカが主要キャラとして登場するそうだ。

私は10年ぶりに池袋へ行き、映画を観た。映画館を埋めていたのは、自分と同世代がほとんどで、心なしか一人客が多い。誰も声を出さないけれど、いよいよだ……と意気込んでいるのがわかる。沸々とした熱気の中にいると、なぜか「みんなここにいたんだ」という感慨に包まれ、自分が抱いていた劣等感なんてどうでもよく思えた。ただ、ここにいる。それでいいじゃないか。都合のいい考えにすぐ頭を占拠される私は、本編が始まる前に胸が一杯になっていた。

完全オリジナルの本編は鮮血のように赤かった。クラピカには、「外の世界」を夢見ていた幼少期があったこと、一人称が「オレ」だったこと、サベツやイジメから身を守るため身を隠すように言われていたこと、目と足が不自由なパイロという親友がいたこと。大好きだったクラピカの過去が時を経て明かされていく。クラピカも、もしかしたら私とちょっと似ていたのかもな。たいそうなことも考えた。

映画の最後には、燃えゆく洋館を見ながら主要キャラ4人が「思い出は自分の胸の中だけにしまっておけば良い」「本当を生きる……か」「本当ってなんだろう」「自分らしく生きるってことじゃないのか」と会話をし、清々しい顔で「いつかまた!」と各々の旅に出る。

感無量、だった。自分が成人してから見た『HUNTER×HUNTER』で、このような会話が聞けることに。

映画が終わると、私は想像以上に疲れていて、言葉を発することができなかった。感想をSNSに投稿しようにも、頭に力が入らない。人生の最重要項目が再び最前面に浮上したという事実で、心が満たされていた。力をすべて出しきってしまったのかもしれない。暗くなった街をぼーっと眺めて、ようやく言語的な思考ができた時、頭に浮かんだのは懐かしい名前だった。

Fも観たかなぁ。

もしかして、今日はFと再会する絶好のチャンスだったのかもしれない。MSNメッセンジャーのログイン方法はきれいさっぱり忘れ、携帯電話の番号はガラケーからiPhoneに移行しそびれた。でも、SNSで「友達の友達の友達」まで辿れば、連絡を取ることぐらいはできたかもしれない。白々しく「久しぶりー」とメッセージを送って「Fは映画見た? まだだったら一緒に行かない?」と誘って、気まずいながらも何事もなかったかのように、楽しい時間を過ごす……という世界線もあったはずだ。

検索窓にFの名前を入れるも「この人ですか?」と表示されるのは、どれも彼女とは似つかない人だ。そうだよねぇ。画面の中には苦くて痛い現実がある。

「シャカシャカポテトの新フレーバー『バター醤油味』が登場!」

街頭ビジョンから、弾けるような声がした。

池袋の街は、私が「裏の世界」を知った当時よりも、今はもっとエネルギーに満ちている。”推し”の缶バッジでデコレーションした痛バッグを持つ女の子が溢れ、2次元キャラのレイヤーがスタバのコーヒーを片手に街を闊歩している。もう「裏の世界」ではないのかもしれない。

Fは今どこで何をしているのだろう。まだクラピカは好き? 私、複製原画を買っちゃったんだけど、どこに飾ればいいと思う? ねえねえ、最近グッと来たキャラっている? 気に入ってるBLはある? ドラマ化が増えててびっくりするよね? 好きな同人作家は誰? それとさぁ……自己満足だし、全く気にもとめてないかもしれないんだけど、言わせて……あの時、ごめんね。


2月22日発売の『つまらない夜に取り残されそうで』に収録した書き下ろしエッセイのひとつです。この他にもcakesで連載させてもらっていた『匿名の街、東京』からもいくつかエピソードが入っています。装画はイラストレーターの赤さんによるもので、とても可愛いです。大盛堂書店さんにはサイン本を納品させていただいてます…!

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