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男の手

男は動揺していた。脳天が震え、白目を剥きそうになった。
会社で連絡を受け、携帯を落とし画面が割れた。落ち着こうと飲み物を買うためにコンビニに入ったが、会計で小銭を落とした。

震える手を上げ、タクシーを止める。行き先を伝える声も、かすかに震えている。
「〇〇病院まで、お願いします。できるだけ急いでください」
男は窓の外を見つめ、ため息をつく。その日は、数年に一度の大寒波だった。日中も除雪車が走り、道路では融雪の水が放水されていた。
男は両手がまだわずかに震えていることに気づき、さらに動揺した。顔の前で祈るように手を組む。ため息を深くする。
男はこれまでの人生のほとんどの瞬間で冷静を保っていた。冷静な己に誇りを抱いていた。
以前勤めていた企業で帳簿の改竄を上司が行い、濡れ衣を着せられた時も、冷静に努めた。長男の素行が悪く、昇進がかかった商談の三分前に、学校から呼び出しが来た時も落ち着いて対処した。仕事がどれだけ忙しくとも、妻からのもっと育児に協力して欲しいという声も真摯に受け止め対話し続けた。


 男は、何かあるたびに、シャツの襟を直し、深くため息をついた。そうすることで、己を律し、対処してきた。それが人生の中で培った己の正し方だった。
男は常に冷静を保つことを、大切にしていた。なぜそれが大切なのかは自分自身でもわからない。ただ、一度でも意思を緩ませ、その高い高い堤防が決壊すれば、感情の全てが流れ出し、もう元の自分には戻れないという確信を持っていた。その恐怖心が背骨として男の自我を支えていた。


「あとどれくらいで着きますか?」
「雪で道が混んでいるので、あと30分はかかります」
 タクシーの運転手の声に、男は思わず声を荒げる。 
「30分も待てません。急いでください」
急ぐ気持ちと共に、雪が強くなっていくように感じる。
男は、外の景色を目で追いながら、降る雪が強くなるにつれ、心細くなってきた。自分は、家族に、子供たちに何をしてやれたのか。これまでの人生を振り返り、選択の全てを間違えているような、過ちを犯し続けたような道を歩んでいたような気分になる。様々な思い出が脳裏を蘇っては、いや、あれで正しかったのではないか、今後悔しても事実は変わらないと頭を振った。


涙が太ももに落ちた。スーツに滲んでいく。泣いても現実は変わらないのだ。男はこれまで、意味がないことはするなと己に言い聞かせてきた。しかし、今はそのような言葉では、感情の流れは止まらない。鼻水が垂れ、口に入る。

「うぁ・・・ううう」
 嗚咽が漏れる。手で口を押さえる。手も涙で濡れる。男は腕時計を見た。そろそろ30経つ。
落ち着かなければいけない。
私が、取り乱してはいけない。シャツの襟を直そうと首元に手をやるが、鼻水が付いた手では憚られた。ティッシュをカバンから取り出そうとしたが、足元に落としてしまった。拾う元気がない。しかし、もうすぐ目的地についてしまう。
落ち着かなければいけない。
男はティッシュを拾い鼻を噛んだ。
涙と鼻水は止まった。


「お客さん。急いでいるなら混んでるので、ここから歩いた方が早いですね」
「歩いてどれくらいですか?」
「5分ほどです」
「わかりました」
車内と外の気温差に鼻の奥が反応した。ドアを閉める手がどうしても荒っぽくなる。冷たい空気が肌を刺す。雪に足を取られながら、できる限りの速さで足を動かした。
落ち着かなければ、このような顔を家族に見せるわけにはいかない。私が、家族の宿木にならなければ。安心させるのが父親の役目なのではないか。
しかし、まだ手の震えが止まらない。
震える手を擦り、大通りの赤信号を無視しようか迷っていた、その時だった。
「すみません、〇〇店をご存知ですか?」
60代ほどの女性が声をかけてきた。髪を後ろで綺麗に一つにまとめ、品のある服装をしている。
「知らないですね・・」
急いではいるが、交通量が多く渡れそうにない。赤信号の間であればと地図アプリで女性の目的地を検索する。手の震えから、うまく操作できない。その女性は、ごめんなさいねと申し訳なさそうに男の手元を覗いている。
「近いですね。ここの通りをまっすぐ進んで…」
目的地までの行き方を伝え終わったところで、信号が青に変わった。
「寒いところ引き止めて、ごめんなさいね。丁寧にありがとう」と落ち着いた声でその女性は言った。 
「は、はい」
横断報道を渡り終わり、ふと振り返って、向かいの通りを歩く女性の背中を見つめる。立ち止まる暇などないが、男の意識が研ぎ澄まされるようだった。
男は、自分の手の震えがなぜか止まっていることに気づいた。

男は病院へと走る。どのような振る舞いをこれからすべきか。まずは、抱きしめる。それから、慰める言葉を掛ける。それから…。
男は、やっと自分を取り戻した。
そうか、私は頼られる存在なのだ。気持ちを乱しているようではいけない。しっかりしなければ。
受付で病室を聞き、部屋に向かう。
病室の前で男は襟を直し、深く息を吐く。与えられた役割を全うする。父として、家族を支えなければならない。心を決め、そっと引き戸を開けた。
「お待ちしておりました。午後2時47分に亡くなられました」と医師は静かに告げる。
長男が穏やかな顔で、ベッドに横になっていた。まだ生きているのではないかと疑うほどに、いつもの寝顔でそこにいた。
妻と次男が側で泣いている。男は、静かに息を吸う。
「雪で滑ったトラックが歩道橋に・・」
「もういいです」
看護婦の説明など聞く意味がなかった。長男はこの世にもう存在しない。ここに、目の前に、ベッドの上に、確かに存在するのに。この先の人生を共に歩むことはできない。落ち着いていた呼吸がまた荒れ始める。本当に息をしていないのか。信じられない。思わず確かめようと、長男の顔に手をかざそうとした時、
「あなた」
と妻の掠れた弱々しい声で、どこか遠くの暗い場所へ行っていた意識が病室に引き戻された。
男は長男の息を確かめるのをやめ、妻と次男に駆け寄り強く抱きしめた。その瞬間、冷たい机の上に置かれている文字を打つ機械などではなく、目の前の家族にもっと触れるべきだったと強い後悔が男の奥歯を軋ませる。二人に回した手は力強い。男の呼吸はもう荒れていなかった。

男が次に手を震わせ、呼吸を荒げたのは、夏を告げる蝉の声が煩い中、一人で長男の墓に訪れた時だった。 
 
 


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