はじめに



あなたの人生を一言で表すならば何ですか。
と裁判官は尋ねた。
私は傲慢な人生でしたと答えた。
すると裁判官は表情の無いままそれを否定するまでもなくただ言い足りない何かを総括するように断定を込めた語勢で
『あなたの人生は自己中心的です。』と言い放った。
私はその通りです。と答えながらついに言われるまでもなくこれまで自ら実現し続けた傲慢で軽薄な自己中心的人生に司法のお墨付きが着いてしまったか。
などと心の中でその重みをなるべく軽い物に工作しようと見苦しく試みてはほくそ笑んでみるのだが、そうは問屋が卸さない。
その言葉は石になって心に放り込まれ水底に沈む澱を跳ね飛ばし濁りを撒き散らしたままだ。

私は今神戸三宮駅から出発する淡路島行きのバスに乗りながらこれを書いている。
東京拘置所を出て3日後母親の待つ大阪に帰省し一日を過ごしたのち祖母の顔を見に行くための道すがらである。
橙色の落陽が前方から差し込んで視界を白くしている。
目隠しされず限りなく開けた視界に見える神戸の街が黄昏に吸い込まれて行くのを見ながら自由を実行するべき日常はあっという間にすごい速さで過ぎ去って行くのだなと思いながら社会に生息する虚しさや鬱陶しさを性懲りもなく感じながら一度取り上げられた無垢な景色の美しさにひれ伏している。

このnoteは私の人生における罪と罰の独白の場とする。
それは自由を取り上げられ、社会と隔離された日々の記録と、その間に読んだ書物や思考の中で思い至った思想、些細な出来事などの記録である。
今となっては過去に書いた記録を改めて載せる事になるので、口調や文体はその都度コロコロと変わるし、日付も前後したり飛んだりもする。詩や、絵なども突然挟まって来る事になることと思う。そしてここに書くことは全て事実を元にしたフィクションである。と認識していただきたい。それは全てを事実として書くと生じる問題が存在している上に私という浅はかな人物の描写などそのまま書いてもありきたりで何も面白くない物である事を見越し大なり小なりの装飾はふんだんに盛り込まれているからである。
そして一連の罪の仔細な情報の公開は差し控えさせていただく。ここを反省や贖罪の場とはしないためである。
数ヶ月に及ぶ拘束の日々でこの世界を隅から隅まで憎み切った時間の記録も存在している。
不快の念を抱く者も多分に発生する事になるかと思われるが、上記の事も併せて理解を賜りたいと申すと共にあらかじめ陳謝させていただく。

ドスちゃんという名前は
或る日私が女の家にドストエフスキーの罪と罰の文庫本を持って出向いた時、女が
『あ、ドスちゃんじゃん。』
と謎のあだ名を持ち出して親近感を演出して見せて来た事がいつまでも痛々しく嫌悪している事から手繰り寄せて来た名前である。
ドストエフスキーの事をドスちゃんと呼ぶような人間とはこの先死んでも交わりたくないと切に思う。




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