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ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』【基礎教養部】

先月に続き、僕が選んだ本をHiroto氏と匿名希望氏と読書経験を共有する取り組みを継続中。(追記: ゆーろっぷ氏ともたまたま時期が被ったようです(奇跡)。以下URL添付)

僕はちくま学芸文庫が好きなので、古本屋で仕入れた何冊かからこの一冊を選んだ。なかなか尖った(?)タイトルで、『読んでいない本について堂々と語る方法』である。まず読者としては読んでいない本について堂々と語りたい(ほど本を読みたくない)のに、この本を読まなければいけないのが皮肉たらしくて面白い。そこに惹かれた。僕が浪人時代信仰していた予備校の英語講師や、「Twitterにいる、とにかく本を買いまくっている謎の人たち」の間でも話題になっていて、少し気になっていたのでこうして今回読むことができてよかった。
800字書評(以下URL添付)にも書いたように、読書をする人は一度は読んでほしいと思えるような、読書論の本である。
何か1万字ぐらい書いて自論を展開するのはやはり時間の制限があり厳しかった。本書に書いてあった書評のやっつけ方を少しばかり参考にしながら、本稿を仕上げた。(とはいえ真面目に書いたつもり)

ゆーろっぷさんの記事

本書で用いられた概念のまとめ

他人とある本について語るとき、自分も相手も本を読んだことがある場合、自分は読んだが相手が読んでいない場合、自分は読んでいないが相手が読んでいる場合、自分も相手も読んでいない場合の4パターンに分かれる。

著者が本書で導入している「図書館」は3タイプある。

  • 共有図書館

  • 内なる図書館

  • ヴァーチャル図書館

同様に、「書物」も3タイプ導入されている。

  • 遮蔽幕(スクリーン)としての書物

  • 内なる書物

  • 幻影としての書物

この3タイプの「図書館」と「書物」はそれぞれ対応しており、「遮蔽幕(スクリーン)としての書物」が「共有図書館」に属し、「内なる書物」が「内なる図書館」に属し、「幻影としての書物」は「ヴァーチャル図書館」に属している。

そもそも我々はその本のことを知っているので話題に出す。これは、その本が「共有図書館」に所蔵されているからである。平たく言うと、「共有図書館」とは、我々の視界に入ってきた本のことである。自分も相手もその本を読んだことがあるとき、またはどちらも読んだことがない時、この「遮蔽幕(スクリーン)としての書物」が会話に現れる。しかし、我々が話題にしているのは書物ではなく、状況に応じて独自の内的プロセスを経て作り上げたその代替物であるという意味で遮蔽幕(スクリーン)なのである。
「内なる図書館」とは、「共有図書館」の蔵書の中でも、個々の読書主体に影響を及ぼした書物からなるものである。「遮蔽幕(スクリーン)としての書物」を作り出すための情報源でもある。
「ヴァーチャルな図書館」とは、書物について口頭または文書で他人と語り合う空間のことである。「共有図書館」の可動部分で、語り合う者それぞれの「内なる図書館」が出会う場に位置している。「幻影としての書物」はそこで語り合うときに現れる。自分も他人も「読まない」可能性があり、しかし内容について「夢見る」ことがあるような書物を指す。客観的物質性を帯びた現実の書物との対比としてこの「幻影としての書物」がある。

ヴァレリーの方法

文学者ポール・ヴァレリーは、流し読みしかしていなくても本について語ることはできるし、むしろしっかり読み込むのは批評にとって良くないという意見を持っていた。彼は読書に伴う危険性についても指摘をした作家としても有名である。
なぜそのようなことが可能か。彼はプルーストを少ししか読んだことがなかったが、プルーストが死んで間もないころ捧げた文章で

この広大な著作を一行も読んだことがなくても、その重要性に疑いの余地がないことは、ジッドとレオン・ドーデという似ても似つかぬ精神の持ち主がどちらもそれを認めていることから明らかである。よほど確かな価値があるというのでなければ、これ二人の意見が一致するというこのまれな事態は起こらない。

『読んでいない本について堂々と語る方法』より

と述べている。ある作家を評価するときに、他人の意見が決定的な役割を果たしている。プルースト自身はこの二人の作家に盲目的に信頼を寄せる危険性はもちろんわかっているだろう。しかし、この方法を取ると確かに読んでいない本について堂々と語ることができる。ヴァレリーの巧妙なテクニックはプルーストへの言葉の中にまだまだ書かれていて、この本の中でも一番印象に残っている。僕が本をざっと読むタイプだからかもしれない。


内容を掴めたようで掴めていないのが正直なところである。2、3日で一気に読み上げたので無理もない。しかし、教養とは何か、読書とは何かについて僕は著者の視点に感銘を受けたのは確かである。教養とはテキストにいかに引き摺られず、書物または書物群のなす構造を捉えられるかどうかであるというのは説得力があった。

どんな知的探求をするにも、構造を見出す力を意識的に鍛えるのが大事なのだろうと薄々気づいていたが、この本を読んでそれは確信に変わった。忘れたころに読み返そう。

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