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【読書】ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』【基礎教養部】

以下のサイトで簡潔な書評(800字書評)を公開しています。


はじめに

本書のタイトルを見て、皆さんはどのような内容を想像するだろうか。私はこのタイトルと「ちくま学芸文庫」というレーベルのアンバランスさが逆に印象に残り、つい気になって買ってしまったクチであるが、表題だけを見れば一種の自己啓発本のように感じられるかもしれない。もちろん、本書には方法論の指南書としての側面がある(むしろそれがないとタイトル詐欺である)が、それ以上に、読書に対する極めて深い洞察に基づいた、著者自身の「読書論」「教養論」ともいうべき独自の体系を整然と展開する理論書としての性格が強い。しかも精神分析といった哲学的な背景があるために、内容としては実はそこまで簡単ではない。にもかかわらず本書がここまで売れているのは、やはり多くの人が「本を読まない」「読まずに語る」ことに対して一定以上の関心を抱いているからなのであろう。そして他ならぬ私もその一人に数えられる人間なので、以下では「読んでいない本について語る」ことに関連して考えた内容をつらつらと綴っていきたいと思う。

「読んでいない」状態にも色々ある

本書の中でも丸々一部を使って語られていることではあるが、一口に「読んだ」「読んでいない」といっても、その状態は明確に捉えられるものではない。たとえ一度通読した本であっても、大半の内容を忘れてしまっていることはよくあるし、その中でかろうじて覚えている(と思っている)内容でさえ、時間の経過とともに改変された記憶かもしれないのだ(認知科学の知見に触れてみれば、人の記憶がいかに曖昧で脆いものかがわかるはずである)。

もっと極端な例を出せば、筆者本人、つまりその文章の書き手ですら、自分の文章を「読んでいない」と言えるかもしれない。よく話題になる例として、国語の入試で出された問題を筆者自身に解かせてみると、答えを間違う・わからないということがあるが、これはある意味で当然である。自らが書いた文章であっても、それが外部に「書かれた」ものである以上、その文章群は自身の身体から離れたものだからである。

こうした例から分かるとおり、(大方の認識に反して)テクストや読書は極めて曖昧でいいかげんなものであり、このことは本書の中でも繰り返し説明される。それを積極的に認め、さらには「本について堂々と語る」ための武器としても活用していこうとすることが、本書の基本的なスタンスである。

「読まずに語る」とはどういうことか

本書はタイトルにもある「読まずに語る」という行いを推奨しているわけであるが、これは「本と無縁であれ」という主張ではないことには注意したい。本書の中の記述から少し引用しよう:

もちろん、こうした考えに慣れていない者にとっては、本を読まないことは読書の欠如そのものだろうし、本を読まない人間は文字どおり読書とは無縁な人間だということになろう。しかし、注意ぶかく観察すれば、両者が同じではないということはすぐに分かるはずである。本を読まない人間と読書と無縁な人間とは、本にたいする態度においても、その奥にある動機においてもちがうのである。
読書と無縁な人間は、書物に無関心である。ここでいう「書物」とは、先述したように内容と位置関係の両方を指している。このタイプの人間は、本の内容にも、本が他の諸々の本と取り結ぶ関係にも無関心なのである。そして、一冊の本に興味をもつことはそれ以外の本を蔑ろにすることにつながる場合もあるということを知らない。

ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』p.37

本を読むという行いは、本書でも語られている通り、究極的には「自分自身について語る」ためのものである。これは、他者によって書かれた文章を「解釈」することによって、自らの想像力が及びえない領域を照らし出し(実際は「当たりをつける」という程度の漠とした感覚であるが)、それを自分自身の言葉によって開拓して自らの領域とする「想像(創造)」のプロセスである。

(話は少し変わるが、教養とはこの領域の広さのことであると捉えることができるだろう。広大な「想像の領域」を持つ教養人は、タイトルくらいしか知らない本であったとしても、その領域内のことを使って内容を補完し、語ることさえもできてしまう。)

そして、自分自身について語るためには、本からある程度の距離をとる必要があることは言うまでもない(読んだら影響を受けてしまうからである)。それゆえに、本を「読まない」ということには、教養人にとってむしろ極めて積極的な動機がある。しかし、それは決して書物に無関心であることを意味しない。他の本との相互関係を踏まえながらその本の位置関係を全体の中で把握し、さらには自身の思想的領域の中の位置付けを確定させることで、その領域を拡張させるためのいわば媒体として書物を機能させるのである。

もちろん──あえて本書に反する内容を書くが──語るための言葉が見つからないならば、本を「読めば」よい。本書の主張からは外れるが、言葉をインプットするという段階も、言語運用の初期段階では必要になるからである。読書という営為においては、自分で「読む」と「読まない」の線引き(厳密には「濃淡」というべきか)を自由に決めることができる。その曖昧さを活用しない手はない。

おわりに

800字書評の方でそこはかとなく言及しているのだが、自分がこの本を「読んだ」のは実は半年以上前で、それも流し読み(飛ばし読み)だったので、本書の内容を全て把握しているわけではない。今回書評を書くにあたって少しだけ読み返したが、つまみ食い的な読書だったことも言及しておくべきだろう。そういった意味で、本書は自分にとって「読んでいない」状態にある(最も先に述べたように、こうした未読状態と既読状態の境界は決定不可能であって、それを明示することはある種の自己撞着に陥る行為なのだが)。しかしながら、以上のように少しは本書について(あるいは自分自身の考えについて)「語る」ことができたわけである。その意味で、この記事は本書に書かれている教えのいわば「実践」であったと言えるかもしれない。


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