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#8 最後の賑わいをみせる奈良3大遊廓、接待婦・引子の嘆き

 昭和33年2月に入ると、いよいよ売春防止法施行まで2ヶ月を切り、転廃業へのスケジュールが具体的に定まってくる。法案可決の際には皆が「本当に実行されるのか」と疑ったものだったが、この時期になると、接待婦のほとんどがその後の身の振り方を真剣に考えるようになっていた。今回は、そういった接待婦に焦点を当てた記事を紹介したい。
 まずは、2月以降の奈良三大遊廓の状況から。

2月20日一斉廃業届 県下の三大赤線地帯 3月15日から新しい職業に
【郡山発】既報、売春防止法の施行を目前に控えて赤線地帯の転廃業問題が大きく注目されているが、奈良市木辻、郡山市岡町、同市洞泉寺の県下三大赤線地帯は今月20日廃業、3月15日から新しい仕事にそれぞれ転業する準備を整える。当初、郡山市の洞泉寺は期限切れの3月末日まで営業を続ける方針をとっていたが、七日夜、郡山で開かれた業者と県売春防止対策本部店業部会委員との話し合いの結果、中央の意向である県下一斉廃業の線に同調したため、県下の三大赤線地帯は同一歩調で歩む公算が強くなったもの。転業を希望する業者にしてみれば、廃業から“新規開店”までに空間を置くことは絶対に避けねばならないとの要求は当然で、20日に廃業と新規営業の両届を出して3月15日までに許可を取り、新しい仕事につくわけだが、その間の約25日間は現業のまま営業を続けるとの話し合いになっている。(大和タイムス昭和33年2月6日)

赤線の実態
◇・・・昨年1年間に9軒が転廃業したため、現在の業者数は木辻28軒、岡町23軒、洞泉寺12軒の計63軒。そこに働く売春婦が282名(1月現在)となっている。客数は多い日も少ない日もあるわけだが、平均して700〜800名というところ。最近のように“消えゆく赤線”に名残を惜しむ人々が増えてくると一夜で900名は軽くオーバーするというから女性の側の“労働”も相当なもの。“トマリ”までに“時間バナ”を3〜4回取らねばならないという勘定になるわけだ。(大和タイムス昭和33年2月22日)

これらの記事からわかることは
・2月に入って県内の特飲店は一斉廃業することに決まった。
・「これが最後」と一晩で900人以上遊客が訪れるようになった
・1月末現在の接待婦の数は282名だった
・この時期は接待婦一人当たり3〜4人の客をとる必要があった

 それでは、その頃の接待婦たちはどういう思いで日々を過ごし、どういう未来を夢見ていたのだろうか。新聞記事の内容は個人情報保護のため匿名で紹介されており、情報の信頼性は少し頼りないのだが、ほかに拠るべき情報がないためとりあえず紹介したい。

胸打つ接客婦の叫び 必要だった転落前の救い
 赤線地帯の廃業にともなう悲劇は各所にあるが、郡山市でも転業問題で話し合いの席上、一人の接客婦が「世のすべての男性に私の病魔をうつしてやりたい」と世を恨む悲しい叫び声をあげるほか、他方では「私は接客婦の仕事以外に何ができるのよ」と泣き叫ぶなど人生の裏を歩んできた女性たちの赤裸々な姿を映し出している。
【その1】
 郡山市岡町の某特飲店のO子さん(24)=大阪で生まれた彼女は、何不自由なく育てられ高校も卒業した。ところが父の死に遭い引き続き母の病気、入院と不幸は続いた。家では不具の弟と、幼い妹とを抱え、彼女は途方に暮れた。入院した母の費用はかさんで来るがその日の生活に追われた彼女は働きとおした。事務員でもらう給料はしれている。そうしているうちに母は死に、病院側は入院費を払ってくれなければ死体は渡さないと冷たい返事。彼女は親類はもとより知人に頼みまわった。しかし、ダメだった。世間の冷たさを骨身にしみて知った彼女は、特飲店に飛び込んだ。そして「社会では生活保護などの救済制度があると言われているが、私が不幸になったとき、社会は何をしてくれたのよ。そんな世の中なんか。私は私の道を歩くわ。それが今になってまた真面目な職につけだなんて・・・。バカにしないで。」彼女の社会に対する抗議は怨念である。売春防止を叫ぶのもさりながら、それ以前の救済方面の完備が何よりも必要なことを、彼女は自分の貴重な体験から世に訴えているとも言えるだろう。
【その2】
 洞泉寺の某特飲店B子さん(30)=「私は家庭の不幸からこの世界に入った。でもいまはなんとも思っていません。しかし転業せよというのなら最低2万円ください。私は学校はもとより出ていません。その上、ご飯炊き、洗濯などしたこともない。何一つできない。春を売るよりほかに能のない私たちに、転業せよというのは“死ね”ということと同じこと。いったいどうしろというのよ」と訴えており、係員もしばし慰めの言葉も出なかったという。
(大和タイムス昭和33年2月6日)

 このように、当時女性の社会進出があまり進んでおらず、また今のように子供や高齢者の福祉が行き渡っていなかった時代である。遊廓という場所が、戦後の混乱期の中で生活苦や貧困に喘ぐ「女性のセーフティネット」の場としても機能していたことが伺いしれるエピソードである。

 それでは別の記事から、三大遊廓における接待婦の年齢層や、廃業後の夢などを調査したアンケート結果を紹介したい。

夢はやはり結婚 半数以上が実家へ送金
◇・・・ところで、こうして働く売春婦の実態はどうだろう。去る12月に県婦人相談所がまとめたアンケートによると、年齢別では21〜25歳までが約半数の126名、ついで26〜30歳までの77名、20歳までの27名となっている。なかには36〜40歳までの8名もいて調査員をびっくりさせたが、接客婦になった動機は“生活苦”が圧倒的に多く、半数以上の153名が毎月親へ送金しているという。だから今の仕事をやめたときの行き先は、故郷へ帰る者と“無”と答えた者がそれぞれ半数ずつになっている。
◇・・・このため収容保護宿泊施設を設けて、売春婦の保護更生を一手に受け持つ県婦人相談所の窓口を叩く女性の数は、昨年各月とも4〜5件しかなかったのが、今年になって急激に増え、一月だけで11件と開設以来の記録を立てたのをはじめ、2月に入ってからも既に7人が“身の振り方”について相談している。これらはいずれも営業を続けながら廃業後の処◼️を相談に来ているものだが、目立つ傾向は“結婚したい”というのが非常に増えてきていることだと、同相談所の所長は語っている。馴染み客といっしょに世帯を持ちたいというのが、彼女らの究極の願いだという。
◇・・・結婚といえばこんな話もある。遊女を女房にしたいというキトクな男性四人がこのほど婦人相談所を通じて申し込んでいる。それも4人とも結婚生活の経験ない男性だというのだから、同所職員も大いに感激、必ず良い子を世話しますと、それぞれ相応しい女性を探すのに大わらわだとか。

上記の記事から、当時の接待婦の実態が明らかになった。
 ・接待婦は18〜20代の女性が多い
 ・生活苦からこの世界に入った女性が多い
 ・故郷に帰れない女性が半数
 ・廃業後に仕事と住居を一度に失う女性のための保護施設があった
 ・廃業後は馴染み客と結婚したいという夢を持つ
 ・接待婦を嫁にしたいという未婚男性が4人相談に来ていた

 また、売春防止法施行で影響を受ける女性はまだほかにもいたことを、大和タイムスは伝えている。

◇・・・赤線廃止で一番深刻なのは、売春婦や業者より“引子”と呼ばれるおばあさんだ。三地区でざっと130〜140人もいる引子は、平均年齢が45〜50歳というから、ほかに働く場所もないというわけ。ところが売春婦の更生や業者の転業は大きな問題となっているが、そのカゲで働いている引子のおばあさんは、ちょっと見捨てられた存在になっている。(大和タイムス昭和33年2月22日)

 引子(曳子)はひきこ・ひっこと呼ばれ、遊廓特有の客引きの女性のことである。引子の仕事は店の中や店の前で客を呼び込み、金額の交渉までを担当する。年季が明けた(引退した)接待婦が引子になるケースが多かったようだ。
 つまり売春防止法施行によって、奈良県だけでも接待婦282名、引子140名の女性が一度に無職になり転業を強いられたということになる。接待婦を引退後、結婚もせず、故郷に帰ることもできないから引子という仕事をしていたことは容易に想像できる。その後、彼女たちはどんな人生を送ることになったのだろうか。
 そう言った新聞記事などがあれば、今後紹介していきたいと思う。

 次回は、業者と奈良県の売春防止法対策担当者による「売春問題座談会」が新聞報道されていたので紹介する。

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参考文献 『大和タイムス』昭和33年2月号より
ヘッダ部の写真は郡山岡町のネオン

※この記事は昭和30年代のものであり、現在では不適切な表現が含まれることがあるが、当時の記者が伝えたかったことを尊重し、改変せずそのまま掲載する。
※数字は、原本は縦書きであるため漢数字になっているが読みやすさを優先し、アラビア数字に変換した。

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