見出し画像

#3 大和郡山市における昭和32年前後の事件と赤線地帯

 この写真は、昭和35年にアマチュアカメラマンの秦峯一氏が撮影した、通称「銀座通り」と言われた場所の一角だ。近鉄郡山駅前から岡町に続く通りで、売春防止法以前はこのあたりに飲食店が立ち並び、大変賑わっていたという。
 前回紹介した、A婦人会副会長の意見の中に「赤線の町は不良少年が集って風紀も良くないという感じが強い。」というものがあり、私は「おそらく岡町のこと」と注を入れていた。なぜ岡町だと思ったのか、その理由は当時の新聞報道や、奈良県警察史(※1)から岡町で様々な事件が頻発していることがわかるからだ。

 そこで今回は、昭和32年前後に郡山で起きたいくつかの事件をみながら、当時の社会問題と赤線地帯の関係を紹介したい。

※この記事は昭和30年代のものであり、現在では不適切な表現が含まれることがあるが、当時の記者が伝えたかったことを尊重し、改変せずそのまま掲載する。
※数字は、原本は縦書きであるため漢数字になっているが読みやすさを優先し、アラビア数字に変換した。

まずは、昭和31年1月29日サンデー郡山(※2)の記事から。

30年中の覚醒剤禍調査 163万cc 250人 二十代が圧倒的に多い
 郡山署は去る16日県本部からの指示で「昭和30年中の覚せい剤禍実態調査」を報告したが、その内容は次の通りである。

◼️検挙状況
 製造2、譲渡43、所持30、使用12の計87件
 検挙人員は94名で、注薬162万7千cc、原液375cc、現原末930g、
 内押収は注射4、242cc、原液351cc、原末287g。

◼️月別検挙状況
 最高は6月の20名、最低は2月と12月の2名、その他は平均して6〜8名となっている。

◼️違反者の分類
 20才未満は、男1(名)、
 20〜30才は、男49(名)、女20(名)、
 30〜40才は、男6(名)、女3(名)で
 20代が圧倒的に多く、外国人関係では朝鮮人の男5、女7名となっている。

◼️入手及び動機
 入手(方法について/名)
  密造者29、ブローカー47、友人3、薬局5、接客婦9。
 動機(名) 営利54、中毒17、好奇心3、友人に強いられ1、ブローカに強いられ3、売春行為9、夜遊をするため5、娼婦などから強いられて3

◼️職業別(名)
 交通2、接客婦15、商業7、会社員2、農業8、土工15、日稼4、その他自由業11、無職39。

◼️起因した犯罪 傷害罪一件(2名)

◼️特異事犯
 4月検挙したS.N.は(昭和)29年10月上旬より4月20日頃迄の間、大阪市Kほか2名より粉末を購入し大工町及び奈良市柳六条町に於いて密造し、大工町F.N.他9名に注射薬45万本、原粉末350g密売。

◼️啓発宣伝
 2月10日三郷村、4月13日平群村、8月5日郡山市、8月16日安堵、旧平和村、8月20日旧矢田村 一円に講演と映画の会を開き相当の効果を収めた。

◼️違反対象
 総数244名中、密造者9、ブローカー28、単なる密売者16、中毒者65、単なる使用者126(男50・女76)

(昭和31年1月29日号)

 このように戦後10年経った頃の郡山の繁華街では、他都市の繁華街と同様、まだ戦後混乱の悪影響を引きずっていた。
 上記の記事を見るだけでも、覚醒剤の入手先・使用動機いずれも「接待婦」が絡む項目が多く見られる。ブローカーや密造者の数も多く、これらから「赤線と覚醒剤、覚醒剤と暴力団、暴力団と赤線」の深い関係性が感じられる。
 以下はあくまで私の想像に過ぎないが、前回の記事に「岡町の接待婦はGHQの要請によって連合軍兵士の相手をした」という話があったことからも、その際に覚醒剤が女性の間に蔓延したのではないかと思われる。この数年前に奈良市内に存在した連合軍の慰安施設「RRセンター」でも、米兵が持ち込んだ覚醒剤の蔓延が問題となっていた(※2)。
 気になるのは、同じ赤線の洞泉寺の業者や接待婦はどうだったのか、ということだが、現時点でそれがわかる資料はない。今のところ暴力団との関わりでわかっているのは、旧住人の聞き取り調査で「売春防止法施行後に、下宿所となった建物に暴力団の男が女性と居着いていたが、怖いのでその建物ごと売却して立ち退いてもらい、一般民家になった」ということのみである。この建物を購入した人の娘さんから聞き取った内容だが、洞泉寺町全体がどうだったのかは、今後きちんと調べる必要があると考える。
 上記の理由から、記事中の覚醒剤を使用・所持していたのは岡町の接待婦ではないかと推測したのである。

 次は、当時の奈良県の地方新聞「大和タイムス」(※4)から、岡町の覚醒剤使用に関連する暴力事件を紹介する。

クツ職人刺殺さる  同業者に
【郡山発】
 七日午後十一時半ごろ、大和郡山市東岡町、旅館「竹之家」前で二十二、三の男が右脇腹をジャック・ナイフようのもので刺されて倒れているのを通行人が発見、付近の上箕山町田北病院に収容したが、八日午前零時半ごろ死亡した。
 郡山署で調べたところ、同市(町名略)クツ職人吉本さん(二十二)で、毎晩東岡町特飲街付近で店を出しており、目撃者の話によれば発見時刻少し前に同町特飲店「満月楼」前付近で二十二・三才、身長一メートル六〇くらいの色白の男と口論、激しく争っていたことがわかるとともに、同君が苦しい息の下から「嶋崎くんにやられた」と告げたので同市(町名略)、クツ職人前科二犯、嶋崎(名略/二十二)を指名手配した。(以下略/昭和32年11月7日)

原因は“三百円“ 郡山の殺し 嶋崎は自首
【郡山発】
既報=七日午後十一時半ごろ郡山市岡町の道路上で発生した殺人事件について、郡山署では同市(町名略)クツ職人、前科二犯嶋崎◼️(二十二)を殺人容疑で指名手配していたが、嶋崎は八日午後九時半ごろ女性(※住所氏名略)に着き添われて自首して出た。
 同人の自供によると事件の当夜一週間前に郡山市の特飲店Sで嶋崎の顔ききで吉本氏と嶋崎の両名が三百円の借金をした返却をめぐって、特飲店Sから督促を受けた吉本氏が、嶋崎を殴ったところ口論となり、嶋崎が持っていた刃渡り二〇センチの登山用ナイフで吉本氏の左下腹を突いたまま逃走したもの。その後本人はタクシーで大阪に行き、八日大阪の叔母宅に行ったところ新聞で吉本氏の死亡を知り、どうしようかと親類に相談、結果自首して出た。
(昭和32年11月16日)
※以下容疑者の生い立ちなどが記載されているが省略する、ただ京都七条新地の女性と結婚した際に覚醒剤を使用し始め、凶暴性を発揮していたとある。

 ここでわかるのは、赤線(特殊飲食店街)を訪れる多くの遊客を目当てに、いろんな業種の出店があったということである。それが「銀座通り」といわれた、近鉄線の線路沿いに多くの店が立ち並んだ場所であろう。この辺りは、通称で岡町新地などとも言われたエリアだと思われるが、今現在はっきりしたことは分かっていない。
 
 覚醒剤蔓延のニュースも衝撃的な内容だったが、最後にもう一つショッキングな事件をサンデー郡山の昭和31年9月9日号から紹介したい。

不良高校生らが佐保川で人妻を襲い捕わる 過去にも数回の暴行を告白
 太陽族的な高校生の犯罪が目立ってきた矢先、郡高(郡山高等学校)生2名を含む少年3名が人妻を襲い、軽傷を負わす不祥事があり、関係者はもちろん、市民を憂慮せしている。
 大阪で鶏肉商を営む奈良市八条町、大浦花代さん(仮名31)が三日午後8時10分省線(今のJR)郡山駅に着き、徒歩で自宅に帰るため佐保川東側堤防を通行中、奈良市杏町領の同堤防上で三人組の男に襲われ、ササの繁る堤防下に引きずりおろされ暴行しようとしたが果たさず、大浦さんの四肢、顔面などに全治一週間のサッカ傷を負わした。
 これより先、大浦さんのご主人が大浦さんを迎えにオートバイで駅に向かったが遅れたので、急いでひきかえしたところ堤防下で妻らしい悲鳴を聞いたので同行の知人に警察へ急報を依頼、自分は襲われている大浦さんを救った。電話連絡を受けた郡山署ではただちにパトカーに急報、高田口を巡回中のパトカーが現場に向かい、川の中にいた一人、堤防上を逃走中の一人と、自宅で他の一人を逮捕した。この三名は市内在住郡高3年-休校中- のA(17)、同 B(16)、同家事手伝C(16)で同人らは、女を襲うべく相談して同堤防で待受けしてたところに、運悪く大浦さんが通りかかってこの難にあったもにである。
   その後郡山署の取り調べで、本誌でも既報した、7月5日大阪口で15才の少女を襲(中略)った事件を始め、既報一件を含む5〜6件を自供している。主犯のA少年は小学校の頃から手クセも悪く札付きの不良であったようで、一応悪いことをしたと思ってはいるようだが、大それたことではないと、案外平気のようで、取り調べにあたった係官も、根本的な考えが大人には理解できないと言っている。
(昭和31年9月9日号)

 当時は不良少年少女による犯罪が増加しており、社会問題となっていた。記事中にある「太陽族」という言葉は1950年代日本の若者風俗のことで、デジタル大辞泉によると、昭和30年(1955)石原慎太郎の小説「太陽の季節」から生まれた流行語、既成の秩序を無視して、無軌道な行動をする若者たちをいったとある。
 記者はこの事件を起こした不良少年について「太陽族」を想起したようだ。この記事が報道された同日、郡山高校では校長から全校生徒への説諭があり、その中でも映画や出版物が若者に与える悪影響について述べていていた。

 このように今から65年前、昭和32年前後の大和郡山市は、現在と比べて犯罪が多く混沌とした感がある。一般的に赤線地帯は「覚醒剤・暴行・金銭トラブル」のニュースが多く、その裏にある暴力団との関係をイメージしやすいが、郡山の2遊廓は実際どうだったのだろうか。これらについては町の噂でも色々といわれてきたが、きちんとした調査を行い、可能な限り歴史的事実に沿った内容を紹介できればと考えている。

 次回は、奈良県の地方新聞「大和タイムス」に掲載された、奈良の赤線、特殊飲食店業社の動向について紹介する。

画像1

【参考文献】
※1  奈良県警察本部『奈良県警察史 昭和編』奈良県警察史編集委員会編1977.2-1978.3
※2 乾実『サンデー郡山より昭和三十年前後の郡山 下』サンデー郡山社 1979 
※3 吉田容子「米軍施設と周辺歓楽街をめぐる地域社会の対応 : 「奈良RRセンター」の場合」地理科学2010 年 65 巻 4 号
※4 『大和タイムス』大和タイムス社 1957

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?