見出し画像

100文字SF 全作解説+目次

 まあ解説というほどのことでもなく、その100文字についてあれこれ書くという、「今週の【ほぼ百字小説】」でやっていることを『100文字SF』一冊丸ごとやってます。100文字をぜんぶ載せてしまうとさすがに自分自身と早川書房への営業妨害になりかねないので、ページ数だけ記して、それに関してあれこれ書きました。あ、当たり前ですが、ネタバレはしてますからね。『100文字SF』本体から先にどうぞ。

画像1

『100文字SF』目次

 100文字SFには、目次がありません。各篇にタイトルはないし、本のデザインとしてもそのほうがいい、とは思うのですが、ええっと、あれ何ページやったかな? とかいうときに、目次がわりのものはあったほうがいいと思うので、ここにつけておきます。ということで以下は、ページ数と冒頭の文章です。
 
 P5 娘と月刊漫画誌を買いに
  6 勇敢な人間たちは武器を
  7 火星を目印にすれば
  8 定期的に襲ってくる人食い
  9 洗濯機が次々に空へ
 10 千年ほど前、この坂の下は
 11 滑り台として使う斜面を
 12 いざというときのために

 13 かつての校舎は、もう
 14 水筒の中に何かがいる 
 15 あの金属の塔、じつは
 16 どんな包装紙も大切に
 17 花瓶の中で妖精らしきものが
 18 近所に猿が出たと聞いた。
 19 嵐の翌朝、海岸で神様を
 20 急坂にある商店街だ。
 21 モノレールで行く山の上の
 22 生乾きのコンクリートに
 23 妻と娘がそろって工場へ
 24 生きた恐竜のいるパーク
 25 一種のヘルメット
 26 ダムの底には村が
 27 ずどんと正面からぶつかった。
 28 見上げる空の青が
 29 シャボン玉の中で
 30 家の前に何かが
 31 古道具屋で買ったロボットを
 32 枕の中に誰かがいて
 33 まず、座布団だけが
 34 不法投棄されブロック塀に
 35 青いボールがまた大きく
 36 地面にやたらと林檎が
 37 この年齢になって初めて
 38 子供と大人は、じつは
 39 いつからか日傘が必要な冬
 40 嘘みたいに早く日が暮れる
 41 級が上がると頭の中で
 42 壁新聞が張り出される
 43 月世界に行く方法は
 44 世界が夜になると
 45 真夜中、カーテン越しに
 46 とっくに辞めたはずの会社に
 47 テラフォーミングに狸が
 48 亀の甲羅を磨く。
 49 突如として知性を持った
 50 今でこそ真っ暗だが、昔
 51 フィクションのロボット
 52 ここもシャッターが下りて 
 53 電子化しますね。これで
 54 綺麗だったが、綺麗に消えて
 55 掘って掘ってやっと
 56 舞台の照明の調整が
 57 平面を折り曲げて立体に
 58 あんたなあ、ちゃんとせんと
 59 自分よりも自分が書いた小説
 60 流れに逆らうのは無理だし
 61 梯子を登る仕事。
 62 見るたびに死者の数が
 63 泥のように眠りながら
 64 まず膜。膜を繋いで
 65 好きだったあの坂の町に
 66 毎晩時刻たがえず幽霊が
 67 もう政治はロボットに
 68 伸び縮みする紐としての
 69 今夜も明るい満月の下を
 70 冷凍睡眠装置の調子が
 71 いつもどこかでごろごろ
 72 新しく生まれた空き地を
 73 妻が二人に分裂した。
 74 闇の奥には、大きな四角い
 75 紐だな。
 76 決められた時刻に集合し
 77 子供の頃から、遠くに見える
 78 空き地に宇宙ステーションが
 79 破片だけを使って作ろうと
 80 どんなことにも終わりは
 81 ディスプレイの上を蟻が
 82 突然の高波に眼鏡を
 83 産卵が終了すると
 84 夏が終わっていろんなものが
 85 空が夕方みたい、と妻に
 86 鍵盤の上に風景を見る。
 87 同じ時刻に同じ道を歩くのは
 88 ここは主語が大きな世界。
 89 必要なのは単純な工具だけで
 90 夕方、宇宙ステーションが
 91 遺品の整理に田舎へ
 92 商店街の脇に昔のヒーローが
 93 ラッパの中に棲む筒状の生き物
 94 地獄は地上に遍在しており
 95 アンドロイドが夢に見た電気羊
 96 嘘の世界で歌ったり踊ったり
 97 同じことを繰り返し行うのは
 98 今日も二足歩行を教えに
 99 亀の甲羅は、前にひとつ
100 今も回転している。
101 ひさしぶりに大学を卒業
102 自走式の何かが、
103 雨が上がって日が射して
104 屈折率を同じにするのは
105 もともとあそこは高地などでは
106 まず、種が埋められる。
107 昔、ここは川だったのでは。
108 見渡す限り屋上だ。
109 母から打ち出された母が
110 ヒトがいろんな動物を
111 左右にほぼ等間隔で炎が
112 ここが裏路地であることは
113 夢の中で天井を逆さに
114 壁紙を変えるよりも
115 なかなかうまくいかない日々
116 男と女の間とか
117 布団の国というものが
118 赤い星でも青い星でも
119 いつからか、天国と地獄は
120 今ならもれなくいろんなものが
121 とりあえず、使う前にそこに
122 ずいぶん前に書いたキャラクターで
123 地上を尖らせることに決めた
124 メールが届く。妻と娘が
125 長い坂の上に鏡があって
126 長い坂の上に闇があって
127 今夜も坂の上の路地には
128 当たると評判の占いだが
129 必要があって部屋の隅から
130 目には見えず身体にも
131 上空を巨大な何かが
132 限定された空間と時間内ではあるが
133 恐怖の異星生物から
134 部分を拡大すると
135 洗濯ものを干していると
136 風の言葉を砂の言葉に。
137 たくさんあるように見えていても
138 この坂を通るたび、
139 上へ上へと積み重なっているから
140 三体寄ればもうその未来は
141 好みの水路だ。
142 新しい風景を仕入れに
143 再生を行うたびに傷が
144 蒸気の町に陽が沈む。
145 あれもこれも無人化されて
146 死者を材料にして美談を
147 荒れ地を耕したり種を
148 今夜も自転車で台地を
149 自動車の自動運転が
150 歩きながら憶えるのが
151 ほぼ、としたのは、
152 たしかにここにあったのに
153 何か新しいことを始めるときに
154 敷かれたレールの上を
155 最近やけに紫陽花が
156 傘が大きいから
157 同じ状況で同じ動作を
158 出てきた順に番号を
159 泥から生まれた者は
160 亀の動きで未来を占う
161 あの巨大生物たちが
162 この暗く細長い空間から
163 ゆっくり回っているこの円卓が
164 時間を逆転させたかのように
165 少し力を与えれば、
166 壊れた頭はもう直らない
167 昔住んでいた町に芝居を観に
168 丸い地球も切りようで四角
169 Kが奇妙な夢からNとして
170 夜にヘタをつけたような茄子と
171 妻が旅に出ているあいだずっと
172 分担して持ち帰りそれぞれで
173 ぽたぽたと落ちてくるのは
174 ダンスは、物理空間を使った
175 充分な容量と計算速度を有する
176 何かが生まれた、という結論に
177 ここには昔の自分が今も
178 二次元からはみ出してきたり
179 出演はしてたけど、現場では
180 プラスチックケースの隅では
181 昔はね、このあたりぜんぶが
182 咳から始めて様々な症状を
183 子供の頃は空くらい飛べた
184 未来から来た猫型ロボットの
185 道を歩いていたら、いきなり
186 頭の中から引っ張り出して
187 ああ、振り出しに戻る
188 これだけ数が揃うと
189 水路の曲がり角の手前
190 はるか下に見える水面に
191 ほぼ百字を声に出して読むと
192 壊れやすいこの世界は
193 渦を飼っている。
194 暗いものを抱えている。
195 失うものなど無い者だらけに
196 今宵の物干しからは
197 近頃夢を見ないのは
198 世界を作る現場に立ち会う。
199 砂漠であると同時に砂時計の
200 こじんまりとした暗い場所で
201 世界の精度を少しずつ上げて
202 我々の頭上には穴だらけの
203 こちらからすればあれは穴で
204 帰り道の夕焼けが

********************

表紙

 表紙に関しては、ここで喋ってることがすべてです。

https://radiotalk.jp/talk/342176

P5

 これがトップバッター。いちおう、SFとして分類すると「時間もの」になるのかな。実際に娘と商店街に「りぼん」だったか「なかよし」だったかを買いに行って、帰ってきてから書いたやつ。

 商店街を歩きながら、自分が子供の頃のこととか思い出してものすごく不思議な気持ちになりました。よくある定番の風景(昭和風味)ですが、まさかそこに自分が親の役で嵌るとは思わなかった。たしか、娘が小五の頃です。

 そして、時間ものと言えば『時をかける少女』、というかNHKのドラマ『タイムトラベラー』です。それを夢中になって見てたのがちょうど自分がこのくらいの頃だったか、とか。あのドラマのクレジットで「筒井康隆」という名前と初めて出会ったのでした。ついでに言うと、この原作のタイトルのほうがかっこええのになあ、とよく思ってました。

 まあそれもあって、娘に時をかけさせようと思ったのかな。実際には親父のほうが時をかけてる、というか、ほとんど臨死体験みたいになってますが。まあそんなふうに読めるようにも書いたつもり。

 ツイッター上での【ほぼ百字小説】で言うとこれは(100)で、やっと100個かあ、とか思ってたその頃はこんなに続けるとは思ってなかったので、そういう区切りのいいところに持ってくるくらいにこれは作品として気に入ってたんでしょう。今読み返してもなかなかいい出来だと思tあう。あと、これを最初に持ってきたのは、【ほぼ百字小説】は、ほぼ毎日ツイートしていることもあって、日記的な時間の流れみたいなものが発生していて、この本の200篇の並びの中で娘は成長していってます。つまり私小説的、というか、娘の定点観測的なところもあるんですね。それがわかりやすいように最初と最後に娘の話を置いてみました。それによって、ひとつひとつでは見えない大きな流れみたいなものが見えるかも、とか思って。あんまりこういうことを作者が自分で言うのは野暮な気もしますが、解説だからいいか。解説してくれる人もいないので。

CM

https://suzuri.jp/kitanoyuusaku/7021285/mug/m/white

100文字グッズ、いろいろあります。

P6


 いきなり人類滅亡です。200文字目でもう人類が滅亡してしまうあたりがなかなかSFらしくていいんじゃないかと思います。そして、パッピーエンド。人類絶滅だけど、ハッピーエンド。そういうのはSFならではですね。

 せっかく「SF」と入った本を出すんだから、二番目はそういうのに、というのもあってこれを置きました。この『100文字SF』は、基本的にはツイッターでやってる【ほぼ百字小説】(「ほぼ」というのは句読点とかの数え方によって人によって変わるだろうからそうしているだけで、実際には字数はぴったり百字、というか百枡です。)のツイートした順番になってるんですが、最初のいくつかは「ツカミ」ということも考えて、順番を変えたりもしてます。つまり私は、これでお客さんをツカむことができると思ってる。ツカめてるのかなあ。どうなんでしょう。自分ではよくわかりません。

 これを書いたのは、たしか大阪の西成で知り合いが何人か出ている野外のライブイベントがあって、それを見に行ったときにその場でメモしたんだったと思う。夕方、それまで曇ってたところに日が射して、そこに管楽器が響いてる光景が、こういう感じだったんですね。

 管楽器というのは、人間とそのまんま管で繋がっていて、ひとつの生き物みたいでおもしろい。サックスとかチューバとか、巻貝っぽい。「息」で鳴っている、というのも生き物っぽいですね。前から楽器生物みたいなイメージはいだいてました。でも、鳴るためには人間の「息(生き)」が必要なんですね。そういう人間との共生関係。で、そういう話にするには、人類は絶滅してしまうほうがいい。そうなると、「楽器」に対応するものとして「武器」ですね。まあ武器より楽器が好きだった人間だけが再生してもらえて、それはそれでなかなかハッピーエンドだろう、ということで。あと、西成なので通天閣が見えてました。あのあたり一帯は「新世界」で、そこからの連想もあったんでしょうね。人間のいない新世界の話。あ、カメリもそうですが。そんなあれこれを百文字にすると、まあこんな感じかな。

P7

 変な話だなあと自分でも思いますが、半分実話です。私は大阪に住んでて、最寄りの駅は環状線の寺田町。このあたりには昔の路地がたくさん残っています。地蔵盆のときなんか、お地蔵さんのある路地ごとに夜店みたいになってて、遠くからでもぼわっと光って見えて、なかなかすごいんですよ。でも、コロナでもうこのままなくなってしまうかもしれませんね。ああいうのは、町内会でやってるだけなので、いちど止めてしまうとやりかたを知ってる人がどんどんいなくなって、そのまま消滅してしまいます。まあそれはともかく、これは自転車でそんなごちゃごちゃした路地を抜けて家までぐねぐね帰っていくときに妄想したこと。

 当時、天王寺に劇団の稽古場があって、そこで稽古をしてから自転車で帰ってました。引っ越してきて間もない頃で、迷路みたいな路地をまだちゃんと把握してなくて、でもそれで迷ってるみたいな感じが楽しくて方向だけなんとなく家の方を向いててきとうに走ったりしてました。そんなときにたまたま大接近中だった火星が明るくて、芝居の稽古が終わるのはだいたい同じ時間だから、同じ位置に火星が見えるんですね。路地の家と家の間の細長い空にときおり異様なくらい赤くて明るい火星が毎晩見えてました。それを、火星がだいたい右斜め上あたりに見える方向が家の方向だから、みたいな目安にしてて、おっ、火星を目印に家に帰る、というのはなかなかいいな、と思いました。ちょっとブラッドベリというか稲垣足穂というか、そういうSFと幻想の隙間みたいなところ。そして赤い星というのは火星だけじゃないですから、もしかしたら火星を目印にしてるのにそういう別の星を火星と勘違いしてたら、べつのところに帰りついてしまう、という、まあそこからはちょっと落語的に、「のんびりしてる」というか、異常に「ぼーっとしてる」語り手にして、こういうサゲにしました。

 いわゆる「困り」という笑いは、好きなんですね。夢の中の話みたいなのを書こうとしてもなかなか夢の中の話みたいにならないものですが、これは前半が本当のことだけあって、妙に辻褄が合ってるところ、というか、変な合いかたをしているところが夢の論理みたいで、けっこううまくいってるんじゃないかと思います。だからこれも「いいツカミだ」と思って前に持ってきてます。火星SFだし。

P8

 言うまでもなく(だと思いますが)、ウルトラマンですよ。私は、1962年生まれで、そしてなぜか1962年生まれにSF作家が多い、ということがけっこう長いこと言われていました。あのSF冬の時代、なんて言われて、SFと帯に書いたら売れない、とまで言われていたあの頃にデビューした者が多い世代だったりします。SFの新人賞がないのに、SFでない賞にSFで応募したり、売れないと言われているのにとにかくSFを書きたがる。いったいこのSFへの執着は何なのか? よくそんなことを言われてましたが、ほぼ間違いなくウルトラマンだろうと私は思ってます。物心ついた頃にいきなりテレビであんなものが始まって、そして毎週見ていた。それはもうとにかくこれまで見たことがないとんでもないものでした。毎週ものすごくでかい怪獣というものと銀色の巨人が戦ってビルとかを壊すわけですから。とにかくもうおもしろい。そういうものが大好きになって中毒したみたいにもっともっとと欲しがって、どうやらこういうもの全般をSFと呼ぶらしい、というのを後から知りました。そもそもの入口が小説じゃなくて、ウルトラマンとか怪獣なんですよ。だから私にとってのSFというのは、つまりそういうもので、そしてそれはとても幸せなことだと思います。なんかめちゃくちゃでわけわからなくてかっこいいもの、です。そして、それらしいことを言ってるけど、たぶんてきとう、なところとかも。
 なによりも怪獣でしたね。怪獣のことばっかり考えてました。で、怪獣が何を食ってるのか問題、ですよ。あんなでかいものがそう簡単に腹いっぱいになるわけがない、人間くらいじゃ全然だろう。もしかしたらウルトラマンを食うんじゃないか。ウルトラマンを食う怪獣が出てくるんじゃないか、とか。エヴァを見たとき、あ、同じような人がいる、と思いました。たぶん食って育ったものは同じですよね。こんな話を小林泰三さんともよくしてたなあ。一回の飲み会で500回くらい「ウルトラマン」って言ってましたよ。

 そしてこれを落語化(小噺化)したのがこれ。

P9

 家電SFですね、『いさましいちびのトースター』みたいな。家電が進化して自立しているというのはなかなか魅力的なイメージです。それと、うちの洗濯機がですね、脱水するときにめちゃくちゃうるさいんです。ごおおんごんごおおおん、と唸ります。唸るだけじゃなくて、洗濯物が偏っているとそれで発生するモーメントで暴れます。ごんがんがんがんがががががが、どっかーんっ、とすごい音がして何事かと見ると派手にコケています。軒下にブロックを並べてその上に置いてる、というのにも問題があると思うんですが、それにしてもお前はいったい何がしたいんだ、と思います。脱水層の回転音を聞いてると、これはもう飛ぶつもりなのではないか、とか。洗濯する機械から飛行する機械への進化というのはなかなかいいと思います。そんなことに使うはずじゃなかった機能がたまたまその役に立ってそれで別の方向に進むことになる、というのは、たぶん進化あるあるですよね。それに関連して最初のシーンは、じつは『幼年期の終わり』のイメージ。次々に覚醒して飛翔して旅立っていく感じ。そして、取り残される者たちがそれを見ている。あと、進化と言えば石原藤夫の『ハイウェイ惑星』ですね。回転を飛行に変える、というのはあれが頭にあったからかも。そして最後は、梅雨時の洗濯ものたちの困り顔。この頃になると、洗濯物にも知性が発生していますから。

P10

 大阪の寺田町に住んでます。駅前から坂を登っていくと四天王寺の五重塔が見えて塀沿いに行くと西門があって、その先が谷町筋の夕陽丘の交差点で、馬の背みたいな形になっている上町台地のてっぺんです。そこで西側斜面と東側斜面に分かれてる。

 亀といっしょにいるのは、この上町台地の西側斜面の途中。通天閣が見えるあたりかな。このあたりには、四天王寺に一心寺に安居神社、と上方落語の舞台になってる場所が並んでて、歩いてるだけで聖地巡礼みたいな上方落語好きにとってはたまらんところですが、それは余談。この上町台地は、昔は海に突き出た岬だったらしい。古地図なんかを見ると、坂のすぐ下がもう海です。ということで、いろんな歴史とフィクションと風景が層になってるところで、万年生きる存在と語り合うにはぴったりのところだと思います。あべのハルカスと通天閣と五重の塔が見える。夕陽の先には極楽浄土も見えるし。

P11

 滑り台のことなんか長いこと忘れてました。子供ができて、公園に連れて行ったりするようになってからですね、ひさしぶりにあの感じを思い出したのは。子供が滑ってるからいっしょになって滑ろうとすると、これが怖い。思ってたより高いし、それに急だ。そして、実際に滑ってみると痛い。いろんなところが痛い。ローラーのやつとか、がんがんがんがん、となって尾てい骨のところを擦りむいたみたいになったりして。大人は体重が重いからそれだけ力がかかるのかなあ、皮膚の材質は大人も子供の同じだし、それでこんなことになるんだろうか、とか。滑り台というのは考えたら不思議で、結局あれってゆっくり落下する遊びですね。重力を使った遊びとも言える。ということで、滑り台を作るためには斜面が必要で、その斜面を作るためには、みたいなお話。先に世界があって、滑り台というものを知って、そのためにどうしようか、という話ですね。まあコンピュータ内の世界、というか、まあゲーム内世界みたいなもん。で、やってみたら世界にもいろいろ制限があることがわかってきて、じゃあどうやったらいいのかな、とか。えっ、重力もいじれるのかよ、という、つっこみ待ちの落ちみたいなもんかな。滑り台というまあ言わば原始的な遊具を作るのに高度なテクノロジーを使う、という話でもある。世界の基本的な数値を決めている機械、というのは小松左京の『こういう宇宙』という短編に出てきました。重力定数とか表示されててそれをいじれる機械を見つけてしまう。あれはおもしろかったな。

P12

 小松左京のショートショートに『遺跡』というのがあって、初めて読んだ中学生の頃から私はそれが大好きなんですが、まあその影響下にある話。つまり「真田の抜け穴」なんです。私の小説を読んでる方ならわかると思いますが、穴というものが好きです。穴があったら入りたい。そのくらい好き。で、うちの近所にある真田山公園にはこの真田の抜け穴の入口がある。安居神社にもある。ほかにもいろいろある。すごいですね。すごいというか、いい。真田の抜け穴というのは、講談とかに出てくるフィクションのはずなんですが、それがある。上方落語にも出てくる。おもしろいですねえ。とにかくそういう抜け穴の入口があるわけです。柵があって入れませんけどね。そのへんのことは『遺跡』にも書いてある。そういう語りがもうたまらない。子供の頃は途中まで入れた、とか。いったいなんなのかよくわからない遺跡。それはさておいても、公園に抜け穴の入口がある、というそれがもうなんか夢の中みたいですよね。この夢の中みたい、というのも私の好きな感覚で、だからもうこの真田の抜け穴、というのは私にとってはダブルでおいしいんです。だからそういういかにもありそうな夢、みたいに書きました。こんな夢を見た、という感じで。ちょっと不安で不穏な夢、です。あ、ついでに言うと小松左京って、長編ばっかり言われますが、短編とかショートショートがすごいです。私が好きなのはそっちの小松左京で、長編はたしかにすごいけどちょっともっちゃり(関西弁です。「しゅっとしてる」の反対語。)してるよな、という感じ。

P13

 まあ「更地もの」ですね。更地という空間は好きです。日常の中にぽかんと空いたヘンテコなもの、という感じで。そこに黒板だけが浮かんでいる。そういうマグリットの絵みたいなのを最初にイメージしたのかな。そしてその黒板ですが、まあ簡単に言ってしまえばこれは、『2001年宇宙の旅』のあのモノリスです。あれは黒い石板ですが、つまりまあ黒板ですよね。そして、ヒトザルを教育するものでもある。だからそのまんまですね。たぶんその連想で出てきたんでしょうね。ああいうものが空間に固定されていて、それを中心に小学校ができた。そこに小学校を作るために町ができた。そこに町を作るために土地が開かれて、みたいな。あの荒野に立ってるモノリスの周りに村みたいなものがができて、それが町になって、都会になってもじつはそれだけは同じ場所に残っている、とか。そしてそれは人間が滅んだあとも残ってるかも。まあそういう妄想。それにしても、あの映画(小説も、ですが)、ものすごく大きなものとして自分の中にあるんだな、と今更ながら思います。ずっといろんな記事とかだけで読んだり写真を見たりしていて、でもネットどころかまだビデオもない時代ですからほんとに伝説のSF映画で、だからクラークの小説を読んであれこれ想像していました。ついに観ることができたのは、高校二年のときのリバイバル上映。スターウォーズによるSF映画ブームのおかげですね。三宮の新聞会館で観た。その映画館も、もう地震でなくなってしまいました。そういえば、あのモノリス、映画のスクリーンにも似てますね。あれに触ってしまったからこうなった、というあたりも、けっこう似てるか。

P14

 「水筒洗いにくくて困る」というのはけっこうあるあるだと思うんですよね。まあ水筒なんて大人になってからは使ってなかったですが、娘が学校に持って行くようになってからはもう毎日使うようになって、でもこれが洗いにくい。構造上どうしてもそうなるんでしょうけど。それにしても、水筒の進歩はすごいですね。私の子供の頃は保温機能があるほうが珍しくて、そういうのはもっとでかかったですが、今は細身でしっかり保温されるし、デザインもすっきりした円筒でかっこよくて、なんかSF映画の小道具みたいです。まあ子供の頃の私から見たら「未来の水筒」なんだからそりゃそうか。でも洗いにくいのは同じですね。細い棒にスポンジがついてみたいなのを手に入れて、それからは洗えるようになりましたが、それまでは水を入れて強く振ったりとか、そんなことをしてました。そして、金属だから覗くと映るんですね。それで向こうからも何かが覗いているみたいに見える。まっくろくろすけみたいな奴が。そういうのがいたら、というストレートな妄想ですね。で、熱湯を注ぎこんでみる、とか。最後にこんなふうに考えられるかどうか、というのは人それぞれでしょうね。相互作用してないんなら無いのと同じか、とか思うんですが、でも相互作用してないとも限りませんね。まあ仕方ないから自分に言い訳しているようなものかな。

P15

 書いたときのイメージは通天閣です。尖っててごつごつしてて、マジンガーZとか、まああのへんのちょい昔の巨大ロボ感がありますよね。戦艦の艦橋っぽくもある。たぶん子供の頃にこの近くに住んでたらこういう妄想をするだろうな、と。で、そういう子供がこうなった、という、まあミステリで言うと「意外な動機」というやつかな。ヒーローものの第5話くらいにいいかもしれませんね。急にちょっと昔の話が始まって、最後はその少年に今の彼の姿が重なる。そういうエピソード・ゼロみたいなやつ。いっしょに遊んでた友達がからかい半分にそういう嘘をついて、彼はそれを信じることになるんですが、その嘘をついた少年の現在がヒーローで、でもそんなこととっく忘れている、とか。そんなことを妄想するのが楽しいですね。まあ手近な金属の塔でよさそうなのをイメージしてください。

画像2

P16

 実家もの、というか田舎の両親もの、というか、そういう点ではP91と対になっているようなところがあります。お話の構造も似てるかな。わりとオーソドックな落ちのあるショートショートみたいになってると思います。一種の「あるある」だからお話にしやすい、そしてそういう型通りのショートショートももちろん好きですから。P91のほうはホラーですが、こっちはコメディ。どちらも、親が自分が子供の頃のものを大事に取ってあって、みたいな「あるある」ですね。そしてどちらも自分の正体に関するもので、自分で自分が何者なのかわかってないとホラー、こっちはわかった上でぼやいてるのでコメディ、みたいな感じかな。包装紙をやたらと溜め込んでたのは本当。たしかそれで子供の頃、「包装紙」なんて言葉を覚えたんじゃなかったかな。 

P17

 ジャンル横断、というか、ひとつのお話の中にいっしょに出してはいけないもの、というのを並べました。まあしかし、実際にそれがなぜいっしょだといけないのか、というのは説明できないですよね。お約束、としかいいようがない。それでまあこういうのを書いてみたのかもしれません。いや、出しちゃいけないのはわかるんですよ。そういうことをやるとなんでも有りになって、説得力がなくなるから、です。つまり、おもしろくなくなるからダメ、ということですね。だからやっぱり「お話における約束ごと」です。まあでもそこをあえてなんでも有りにしてしまう、というのはSFならでは、だと思います。だから、妖精も幽霊もSFじゃないんですが、妖精の幽霊ならSFなんです。あ、これ、あんまり他所で言っちゃいけませんよ。私の意見、ものすごく偏ってますからね。でも絵としては綺麗だと思うなあ、妖精の幽霊。ティンカーベルくらいだと、花瓶がサイズ的にぴったりなんですね。井戸から出る感じでしょ。それに、ようせい、ゆうれい、きれい、とこの韻の踏み方もなかなか綺麗だと思うんですけどねえ。でもまあこういうのはあんまりSF的には評価されませんが。

P18

 たまにニュースでありますよね。最近では、錦鯉が漫才にしてました。だから、あるある、ではあるのでしょう。うちは山からは遠いんですが、動物園は近いから何が出てもおかしくはない。町中に場違いなものが出現、というのはまず絵としておもしろい。そして、何かがだんだん近づいて来る、というのは、サスペンスの定番です。都市伝説でもありますよね、人形が電話かけてきて、「今、**にいるの」というやつ。なんだかわからないけどそれがの残した痕跡が接近してくる、そして――。というやつ。最後はちょっと夢っぽい、というか、辻褄が合ってるんだか合ってないんだかわからない(いや、あってないですけどね)、でもなんとなくちょっと納得がいく、という感じの夢の中の論理みたいなところに落ち着いてます。
 こういうところに持っていったのは、やっぱり猿だからでしょうか。自分の一種の猿だ、という意識はある。猿じゃないとここにはいかないですね。昔、『アルタードステーツ』という映画があって、これは催眠状態にして時間をどんどん逆行させていったら、最後は原始人というかヒトザルみたいなのになって、町中に跳び出してしまう、という謎展開のヘンテコ映画でした。最後どうなったんだったかな。まああれも夢の話みたいでした。

P19

 蛸です。というか、蛸にしか見えない神様、と言えばもちろんあれですね。あの邪神。でも、こういうことを言うと信者の方々に怒られるかもしれないので、ここでは名前は出さないでおきます。バチがあたるかもしれないし。なにしろ神様ですから。嵐の翌朝に海岸で、というシチュエーションは大好きです。旅行先でよく「何か落ちてないかな」とか思いながら海岸を歩いてます。カツオボエボシとか落ちてて、つい触りたくなったりしますが、あかんあかん。そこでまあ蛸、というか、蛸から連想するあの邪神を持ってきました。そして自分が神様だと主張するそいつを火あぶりにしてしまう、と。あるあるですね、たぶん。しかし、そんなものをはたして食うだろうか、という意見もあるかもしれませんが、なにしろ見た目が蛸そっくりだし、たぶん火あぶりにしてみたらものすごくうまそうな匂いがしたんだろうと思います。蛸ですから。いや、蛸そっくりですから。それでまあ、そういうことになってしまった、と。まあ小噺ですよね。くとうるーをくうとるー、みたいな駄洒落のサゲにしてもよかったかもしれません。いやまあ、よくはないですけどね。

P20

 これにははっきりモデルがあって、大阪にある空堀(からほり)商店街です。上町台地の背骨みたいな谷町筋から西側のふもとにある松屋町(まっちゃまち)筋まで下ってます。坂道で商店街なんです。大阪というのは川が運んだ砂が堆積してできた土地なので、基本的に高低差があんまりないんですが、この上町台地には坂があります。このあたりは昔の路地もたくさん残っていて高低差もあるので、好みの風景が多いです。ここもそのひとつ。この商店街とその周辺の路地もかなりいいです。高低差と坂と細い路地がたくさんある。で、その商店街の中にぽかんと空いた更地があったんですね。それで、こういう妄想。だから、いちおう架空の土地の案内であったり、一種の異常論文的なものでもありますね。西側斜面で、だから夕方だと夕陽に向かって下っていくことになって、それもなかなかいいです。アーケードがあるから商店街の中からは見えませんが、ちょっと外れるといい夕陽が見えますよ。

空堀商店街については、ここに。

https://karahori-osaka.com/

P21

 これも実際にある風景です。本当に夢の中の話みたいなんですけどね。一時期、日本のあちこちにモノレールが作られたみたいです。それが「未来」だったり、まさに「夢」の乗り物だったんだろうと思います。これは姫路にあったモノレール。ここに書いたそのまんまの夢のような記憶で、そんな記憶があるのはすごく幸せなことでしょうね。八年間だけ営業して廃線になったようです。だから、自分で電車にのって姫路に行くようになった頃には、もう廃線になってました。でも、線路は残ってて、それを見るたびになんだか不思議な気持ちになってたのを憶えてます。そして、なんと今もその線路は部分的に残ってるんですね。十年ほど前に、いちど行きました。蔦が絡まってて、なんだか遺跡みたいになってます。それもそこに書いたそのまんま。夢の残骸です。ひさしぶりにまた行ってみたい。

姫路モノレールに関してはこちら。

https://www.city.himeji.lg.jp/himemono/index.html


P22

 解説なんてべつにいらないんじゃないか、とも思うんですが、まあこれはたぶん意味不明の人が多いと思うので、解説と言うか、そういうつもりで書きました、くらいのことは書いといたほうがいいだろう、と思います。いや、どう読んでもいいので、これが正解とかじゃないですよ。クイズじゃないんだから。もっとおもしろい解釈があれば、そっちでいい。あくまでも私がそういうプロセスで書いた、というだけです。
 それで言ってしまえばこれは、『ゴジラ』なんですよ。最初の『ゴジラ』。モノクロのやつ。あの中で、ゴジラが夜に上陸したその翌朝、足跡が見つかるんです。その足跡の中に生きた三葉虫が、という最高にかっこいいシーンなんです。それと生乾きのコンクリートに猫の足跡ついてるあるある、との合成。まあそれと『ゴジラ』って着ぐるみだから、人間の大きさで、ゴジラが実在するとして人間大かも、とか。そしてやっぱりちょっと夢の論理みたいにしたい、というのもありますね。だからまあそんなこと関係なく、ちょっと変な夢みたい話、ということで。

P23

 「奇妙な味」と呼ばれていた作風というかそういう作品群があります。江戸川乱歩の命名らしいですが、まあ海外の短編とか掌編にそういうのがあったんですね。なんというか、ミステリだけど謎が解けない、というか謎を解けることが目的じゃないミステリというか、解決せずにもやもやして終わってしまう、みたいな、そんな感じの短編。はっきりSFとかホラーというジャンル的な味じゃなくて、日常の中に現れる変な感覚とかそういうやつ。その中のひとつの定番として「奇妙な隣人」というのがあって、ようするにそのまんま、隣人が怪しい、という話です。そしてこれは、そのバリエーションみたいなもの。近いところにいる人に謎がある。ということで、隣人よりもっと近い妻と娘のそういう話。
 この話自体は、たしか妻と娘が二人で工場見学に行ったんだったかな、実際に。で、妻と娘が工場へ、というのがそのまんま何かありげでおもしろいと思ってそのまんま書きました。二人で工場、と言えば普通はあれだろう、となりますが、それだとそのまんま過ぎるからちょっと辻褄の合わないことも入れて、でもまあ彼らには、ということで最初に連想される定番の落ちを強調する形にして、それを落ちに持っていってます。

 それに関してツイッターでのやりとりがおもしろかったので、ここに貼っときます。

 あと、これも大きいんですが、眉村卓のショートショート集のタイトルに「奇妙な妻」というのがあって、これが好き、というのもあるかもしれません。眉村さんの短編とショートショートにはすごく影響を受けてると思います。「星新一の呪縛」なんて言葉があるかどうかわかりませんが、とにかく私にはそういうものがありました。最初にSFにのめり込んだのが星新一のショートショートで、それが好き過ぎて、ショートショートというのはああいうもの、というのでがちがちになってしまってたんですね。そしてそれなら星新一がもうあれだけ書いてるんだから、もう自分が書く必要なんかないんじゃないか、あれ以上のものじゃないのなら、とか。そういう思い込みを、こういうのも、こういうのもある、と思い直させてくれたのが、筒井康隆であったり小松左京のショートショートだったりするんですが、中でも眉村卓のショートショートはまさにそれで、いかにも落ち、という落ちじゃないものが多いんですね。まさに奇妙な味というか、もやもやしたまま終わったり、解決しないし真相もわからないまま、主人公の「それならそれで仕方がないではないか」で終わったりする。でも、ちゃんと終わってるんです。終わってる感じがする。そういう終止感の出し方みたいなものがあるんだなと思いました。アイデアというより、文章ですね。文章によって終わった感を出す。眉村さんは俳句もやっておられてたということなので、たぶんそれもあるんじゃないかと思います。俳句なんてべつにアイデアで終わらせたりしないですからね。でも、あれだけでちゃんと終わってる感じはする。なんかそういうやり方。そして、なによりもそれがいいんですね。ああいいなあ、こういう終わらせ方、ということで、たぶん文章とか文章の持って行き方、みたいなところでいちばん影響を受けてると思う。そんなわけで、この「奇妙な妻」という設定(?)はこの先もずっと続いていくことになります。

P24

 あのパーク、というか、あのパークの後追いで作ったあのパークっぽいもの、関西弁で言うパチモンですね。「恐竜は絶滅なんかしてなくて、今も生きている恐竜が、鳥だ」という言い方がありますが、駝鳥なんかを見るとまさにそうなんだろうと思います。そしてそう思って近くで見るとけっこう怖い。あの蛇みたいな首とか。ということで、いちおう遺伝子操作で作りました、という触れ込みですが、実際には駝鳥にいろんなものをくっつけてやってるんでしょうね。大きさは、遠近法を使ったトリックとかミニチュアを隣に置いてなんとかします。昔の低予算の特撮であった生きてるトカゲに角とか背鰭とかつけて恐竜ということにする、あの方法です。ほんとにあったんですよ、そういう映画が。
 だからこのパークでは、特殊メイクをほどこされてない状態の駝鳥、というか、休憩中の駝鳥、というか、まあそういう素の駝鳥がうろうろしてたりする。でも、恐竜だと思ってみれば、駝鳥ってほんと、そういう恐竜に見えるんですよ。鳥っぽい恐竜。恐竜っていたんだな、という気分を味わえます。いちど試してみてください。

P25

 商品説明というかセールストーク的なものは、ある定型というか、型として便利なのでよく使います。型通りというのは、いろんな状況の説明をはぶけるんですね。ということで、これもそのひとつ。「生き物の共生」みたいな話。そもそも、ヘルメットというのは生き物感がありますよね。まあ弱い部分を守る、という目的と機能が生き物そのものだからか。甲羅とか、甲虫に似ています。機能が似ているからそうなるんでしょうね。だから、まあこれは生きたヘルメット。生き物に共生という関係が自然界にありますね。イソギンチャクとクマノミとか。寄生だってそんなところは多いんでしょうね。寄生虫が免疫を高めたりする、みたいな話もあるし。で、ヘルメット状の生き物で、その丈夫な甲羅で相手を守ってあげる生き物。もちろん、守ってもらう側としては報酬にあたるものを与えないといけない。ということで、そういうことになります。血を吸うところはダニっぽい。そういえば、ダニも拡大写真で見ると、形がヘルメットに似ている。書いてるとき、そのへんも頭にあったのかな。

P26

 ダムの話。私は昭和37年生まれなんですが、子供の頃は、ダムに沈む村の話とかそれを題材にしたフィクションが、ひとつの定番としてありました。村とか町ごと沈めてしまうなんて今から思えば相当乱暴な話ですが、高度経済成長の時代ですからそういうものだったんですね。無責任に言ってしまえば、村が湖に沈んでいる、というのはなんとも魅力的なイメージで、渇水になってダム湖の水が少なくなったときに、沈んでいた村がじわじわと出現してくる、なんてのはたまりません。過去の亡霊が形をとって現れる、というか、ソラリスの海に記憶の中の光景が出現する、みたいな感じですね。魅力的で、そして怖い。これはたしかそういうニュースを見て書いたんだったと思う。その村に行く道路が浅瀬に出てくる写真だったかな。カーブミラーとかガードレールがそのまま水の中に続いていってる。そのまま水の中の村に、つまり過去の世界に通じてるみたいな、そういう映像。それは記憶そのものにも似てますね。これは、その村が沈んだまま村も住民もそのまま暮らしていて、という話ですね。未だにダムと村はもめていて、交渉が続いてたりする。でもそれと関係なく子供は成長していて、もちろん小学校に通ったりもしている。まあそういうイメージ。現実の町とそういう幻想の村みたいなものが境目なく繋がっている。沈んだ村のほうが活気があったりする。そういう逆転みたいなものも書きたかったのかな。

P27

 ゲームの話。まあSFでは定番ですよね。実際、今のゲームを見ると、こんなのをみんなが日常的にやってる、という状況はそのまんまSFですね。これをこのまま書いてもちょっと前ならSFとして成立してたんじゃないかな、と思います。ドラえもんが出してきてもおかしくないようなゲームがけっこうありますからね。同じゲームをしている者同士の会話を横で聞いていると、サイバースペースってもうすでにあるんだな、という気になります。現実とは別の現実を生きてる人が普通にいる。そして、ゲームの定番である乗り物の操縦シミュレーション。どんな操縦ゲームにも登場してくる謎の人物、というか、飛び込んでくる何か、という都市伝説風。ゲームのプレイヤーには関係ない「死」をイメージさせる存在、というのも都市伝説っぽい。ゲームの中の存在なのに、物理的な衝撃がある、のは、現実世界における幽霊の逆、みたいな感じかな。見えるし聞こえるのに実態がない、そんな幽霊の逆。そこもまあ怪談風というか、都市伝説風。そしてディスプレイが割れる、というのは、スマホあるある、みたいなもんですね。このせいで割れても、そんなのが平気な人はそのまんま使うだろうし、そういう人は一定の率いるはず。まあお化けは、気にしない人には見えませんから。

P28

 定義がどうなのかは知らないんですが、これがランニングハイというやつなのかな、という体験を何回かしたことがあります。ゆっくりだらだら走り続けて40分くらいしたくらいで来ることがあるんですね。必ず来るわけじゃない。めったに来ないですが、でも来たときの全能感という幸福感みたいなものはなかなかすごいです。いろんなものがすごく綺麗に見える。そして、どこまでも走って行けそうな気がする。もちろんそんなことはないんですが。まあこれはそんなときの感覚。そして、こんなにくっきりと見える、というのは、自分のほうが薄くなってるんじゃないか、それでまわりがすべて濃くくっきりと見えるんじゃないか、というところを落ちに持っていってます。あと、影が薄い、というのは、死に近いところにいる、という感じがするので、そういうふうにも取れるようにしてます。死が近いから、すべてが美しく見える、みたいな。上司を出してくるのは、酔っ払ったみたいになっている主人公をいきなり現実に戻す、というか冷や水を浴びせるには、それがいちばんいいかな、ということで。

P29

 これ以上ないほど薄っぺらで頼りない話、ということで、認識できるもの、誰でも知っているもの、でいちばん薄いもの、と言えばこれかな。みたいな感じで書きました。虹色をしているというのもいいですね。虹の彼方、じゃなくて虹そのものの中で暮らしている。この世のものではないみたいな綺麗さがあって、でもすぐに弾けて消える、まあそういう話。球体の内側でも外側でもなく、その球体の上で暮らしている、というあたりも惑星の上で暮らしている生き物、つまり我々とも重なる。境界線、というか境界面、というか、その境界そのもの、というのもおもしろい。あ、そう言えば、『人面町四丁目』という連作の最後で虹を見に行く話を書きましたが、あれもそんな感じかな、とか、今思い出した。しかし考えてみたら、シャボン玉という遊びはすごいですね。あんなに夢みたいな景色が自分で簡単に作れる、というのは。虹色の玉が空中を飛び回って弾けて消えるんですからね。ほとんど魔法の領域ですね。まったく見たことがなくていきなり見せられたら、本当に魔法だと思うんじゃないかな。そしてそこにちゃんと理屈があるところはSFだ。

P30

 アパートに住んでいる頃は、「なんかそんなのが子供の頃にあった気がするけど今ではもう無くなってるよな」と思ってました。でも借家暮らしをするようになったら、ありました。回ってきました。町内会とかといっしょにまだ残ってるんですね。そして他のところのは知りませんが、うちに来るやつは、まあどうでもいいようなことしか書いてないです。これから先もこんなもの残るのかなあ。そのうち、自立式というか自律式というか自走式になって、でも元が回覧板だから、まあこういうことになるのではないか、とか。そういえば最近あんまり来ないなあ。

P31

 言うまでもなく(だと思うんですけど)、『スターウォーズ』です。高校一年のときでした。あの頃はビデオもなくて(まああるにはあったんですが、すごく高くて誰も持ってなかった。)、何度も映画館に行ったなあ。いちばんよく行ったのは三宮の阪急会館。あれってもう、なんか映画じゃなかったんですね。新しいジェットコースターみたいな感じ。体験でした。とにかくあんなものはこれまでに見たことも想像したこともなかった。そのくらい強烈な体験でした。今の若い人にはわからんわなあ。私だってもうわからなくなってきてます。
 最初の部分はそれですが、落ちに持ってきたのは『チャイルドプレイ』です。たしか、人形がしゃべってたあと、ふと見ると電池が入ってない、みたいなシーンがあって、単純な脅かしとかじゃないそういうのはうまく決まるとなかなか怖い。
 ということで、SFだと思ったらホラー。こんなこといちいち説明するのは野暮ですが、まあ解説と言うのは野暮なもんだから仕方ない。しかしまあ考えたら、お姫様だって「SF」じゃないですよね。あれはルーカスにとっての昔懐かしいSF、自分が子供の頃に好きだったSF、をやろうとしてそうしてるわけで、いわゆるSF映画というのともちょっと違ってる気がします。だからまあジャンルなんて最初からごたまぜのものなんですね、SFなんてとくに。子供の妄想みたいなところから始まってますからね。

P32

 これはですねえ、睡眠学習んですよ。今もあるのかなあ。私が中学生くらいの頃はよく雑誌の後ろなんかに広告がありました。睡眠学習マクラ。そのマクラで寝ると、暗記したいことを暗記することができる。そんな夢のマクラ。暗記したい音声が寝ている間に再生されて、それを寝ている間に脳が聞くから、なんと目が覚めたら暗記できている、という学習機械。ようするに、ドラえもんのアンキパンですよね。これは欲しい。本当にそんなにうまくいくのか、と思うのと同時に、けっこういけそうな気がします。潜在意識とか、そんな言葉でそれらしく説明されるともっともらしいし、何よりも簡単に何でも暗記ができたらこんなに楽なことはない。たぶん我々の世代はみんな気になってたんじゃないでしょうか。気になる人もいると思うので書いてしまいますが、私の高校のときの友達にこれを買ったやつがいました。ほんとに枕の中にテープレコーダーが入ってるだけだったそうです。そして、エンドレスのカセットテープがついて、自分で暗記したいことを録音する。彼の話では、ぜんぜんダメだったそうです。でも、暗記したいことを自分で短くまとめて録音するから、その過程でけっこう覚える、とも。もちろん、個人的な意見ですから何も言い切れませんよ。でもそれを聞いてなかったら、あれは本当はどうなのかなあ、と今も気になっているような気がする。経験談を聞けてよかったなと思います。いや、まあそれはマクラから声が、というだけですが。そして、もうひとつのネタが、羊。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』もここからでしょうけど、眠れないときは羊を数える、というのは子供の頃にテレビで見た外国のアニメなんかにはよく出てきました。「トムとジェリー」とかそういうの。トムはけっこう神経質。
 はたして本当にそんなことするのか? そんなものが効果があるのか? まあそういう疑問。シープ、というのが、寝息みたいだからなのかな、とか思うんですけど、どうなのかなあ。

P33

 この『100文字SF』の中には落語を材料にしてたり、落語に乗っかった話がいくつもありますが、これはもろに落語の話。私にとって落語は、というか、小説というのもこういうものですね。小説と落語というのは、すごく似ている。なによりも、言葉しかなくて、でも、なにもないからなんでもできる、という点はほとんど同じだと言っていい。まあ落語の場合は落語家のしぐさや表情、声があるんですが、でも、そこに実際にはないからこそ、いろんなものを見せたり体験させたりできる、というのは、演出も含めてすごく参考になります。とか言うともっともらしいですが、まあ子供のころから落語が好きなんですね。
 落語が好きな子供、というと今だとちょっと変わった子供みたいな感じに受け取られるかもしれませんが、私の子供のころ(1962年生まれです)は、テレビでは寄席中継の番組がよくあって、漫才といっしょにひとつかふたつ落語が入ってたりしました。それに、「ヤングオーオー」とか、そういうテレビ番組では、落語家がジャージを着てチームで戦ったり、今のテレビのバラエティでやってるようなゲームの原型みたいなことをやってて、だから落語家というのは伝統芸能の人というよりは、派手な色の着物を着ているおもしろい人や変な人、だったんですね。そういう人たちがたまに落語をやっているところを観て笑ったり、いつものテレビ番組の中とは違う顔を見て驚いたり感心したりしてました。漫才も好きでしたが(横山ホットブラザーズとかレッツゴー三匹とか)、落語のほうにはまったんですね。たぶん、会話より「お話」ほうに惹かれたんでしょう。
 テレビでやるのは、だいたい十五分くらいの短いネタで、そういうのはだいたいくすぐりが多くてわかりやすいネタです。「青菜」とか「ちりとてちん」とか「時うどん」とか。食べるところがすごくうまそう、というのも好きでした。それから、サンテレビでやってた「上方落語大全集」という一時間番組。これはけっこう長めの落語をきっちりやってくれるんですね。これでいろんなネタといろんな落語家を知りました。とにかく米朝師匠がかっこよかったですね。
 翌朝、小学校でそんな話を友達として、落語の中のくすぐりの真似をしてたり。あの頃の関西の小学生にとって、上方落語はそんな感じでした。
 古典芸能とかじゃなくて、異世界のおもしろ話みたいに聴いてたと思います。狐とか狸が出てきたりするし、登場人物が現実離れしてたりするし、なによりも笑いに特化した変な話で、私にとってはウルトラマンを始めとするSFとか怪談とかと同じ箱に入ってるものでした。だからごく自然に、ウルトラマンと米朝師匠とオバケのQ太郎が好きでした。だって自分の中では同じ箱に入れてたから。現実からちょっと外れたおもしろい話とか変な話、笑える話、という感じだったんですね。
 そういうふうに枠組みとか考えずに、おもしろいものをおもしろいものとして受け取ることができたのは、すごく幸せというか幸運だったと思います。後付けのカテゴライズとかと関係ないところで、同じものとして受け取ってたんですね。
 だからたとえば、これはSF、SFじゃない、みたいなのは、逆にすごく変なことのように感じます。どうでもええやん。
 私の書くSFに狐狸が出てくるのもそういうことなんだろうと思います。「七度狐」とか「猫の忠信」なんて、普通にSFだと思うし、もちろん我々(といっても田中啓文とか、ですが)がとんでもなく影響を受けている「地獄八景」ももちろんSF以外の何者でもない。ということで、まあこれはそういう話です。大学に入ったらそこにSF研がなかったので、仕方なく落研に入った、というのもそうですね。どういうこと? って言われるけど、自分の中では、それはごく自然なことでした。そしてその頃のテレビでは「枝雀寄席」が、とかそんなことを書き始めるともう終わらないのでこのへんで。

P34

 近所にこういうところがあるんですよ。最初に誰かがゴミを置いて、そこにどんどんゴミが置かれるようになって、山みたいになってしまっているところ。大きな黒板も実際に落ちてました。それを見て思いついた話。
 どこかの会社の黒板みたいなやつで、会社の黒板、というのももう昔の風景ですね。そして、そういう黒板には売り上げのグラフとか目標とか前年同日比だとかなんかそんなのがつきものです。なんかわからないグラフがあって、そしてなぜかそれが日々更新されていて、というのはなかなかおもしろい。たぶんそういうものがあると、見るほうが勝手にそこに現実との相関を見い出してしまう、というのもあるあるですね。一種のサイン、みたいなものとして。
 で、すっかり何かの指標とか占いみたいに見るようになったところで、これまでそんなに大きな変化はなかったそのグラフにある日、急変が出現する、というのはなかなか不安になるはず。

P35

 バランスボールです。いや、そうじゃないけど、書いたのはそれがきっかけ。部屋にあるバランスボールを見てて。
 直径1メートル以上はある球だから、物体としてけっこうでかい。邪魔になっていちど空気を抜いたらすっかりそのままです。最初は見えないくらいの大きさで、それがある大きさになったときに急にそこにあることがわかって、そして邪魔になるくらいの大きさになって、でもじつはそれはずっと変わらず同じところにあって、というのはなかなかおもしろいんじゃないかと思った。
 サイズというのはおもしろい。怪獣を怪獣にしているのはそのサイズだけ、とか。ウルトラQのバルンガなんかは、サイズの変化がすごくいいですね。

P36

 目に見えないものの存在を信じ続けるのは難しい、ましてそこが仮想現実内であればなおさら。みたいな発想で書いたのかな。
 バーチャルリアリティというかか、まあゲーム内世界みたいなものをイメージしてます。どこかにいるゲームマスターの意図を感じたり推論したりしている主人公、みたいな感じ。そういう世界には、ちょっとわざとらしいものが置いてあったりするんですね。そうであることをちょっと知らせようとしてるみたいに。
 それはそれとして、ニュートンがあるとき林檎が樹から落ちるのを見て、というあの話は好きです。いかにも作り話っぽいんですが、でもものすごくひとつのことを考え続けて疲れて散歩でもしているときに、木から林檎が落ちる瞬間、みたいなはっとするものを見て、意識がそっちに跳んだ瞬間、というか気が抜けた瞬間、にアイデアが降ってくる、というのはけっこう「あるある」で、そのまんまじゃないにしてもこのエピソードにはある種の真実が含まれてる気がします。もっとも、その前段階の、ふらふらになるまで考える、というのが必須だろうとも思うんですが。

P37

 これは、本当にあった話。全然SFじゃない、と言われてもとくに反論はない。牧野修さんと田中啓文さんとがそういう同人誌を作ろう、と言い出して、それでまあいつものメンバーというか、落語会とかで遊んでいる面々でやりました。私は最初、そんなんよお書かんわ、とか言って断ってたんですが、「ハナシをノベル」という落語会の打ち上げでみんながわいわい盛り上がってるのを見て、やっぱり入れて、とかぎりぎりで入ったんだったと思います。
 まあそんなこんなで無事に『こんなのはじめて』という官能小説同人誌ができたのですが、我々の感想としては、やっぱり官能小説は難しい、というか無理やったな、でした。『こんなのはじめて』については、ここでも紹介してもらってます。


P38

 謎理論というか、今風に言えば『異常論文』的な100文字ということになるか。そういうのは、この『100文字SF』の中にはいくつもあります。
 これはその語り手が誰かというのを最後に明かしているので、まあ普通に小説に分類されると思いますが、でもそういうのがないのもけっこうありますね。それを語っているのが誰か、で落とす、というのは小説として納まりがいいので、私はよくやります。でもそれをやらなくても、異常論文がそうであるように、架空理論というのは、それだけでも小説だと思います。もし小説でなくても、SFであることは間違いない。
 それはそれとして、これは昆虫の変態、それと他の虫の幼虫に寄生する虫、そのあたりからの発想ですね。実際、芋虫と蝶が同じ虫とはとても思えないですよね。で、大人と子供もそういうもの、かと思っていたら、たとえば蝶の幼虫に卵を産みつける蜂、みたいな、そっちのほうかもしれない、という話。モンシロチョウの幼虫を育ててたらこれで、途中で蜂の幼虫がいっぱい出てきて、それはけっこうショックでした。あれは怖い。
 大人と子供が別の生き物、というのは、最近だと牧野修さんの『万博聖戦』がありますが、もしかしたらこれは世代的なものなのかもしれません。(牧野さんは私より五つくらい上ですが、だいたい食べたものは似ています。)たぶん、楳図かずお。大人になる恐怖、自分が違う生き物になってしまう恐怖が繰り返し描かれていました。
 ウルトラマンとか怪獣というのもじつは、子供の低い視点から見た大人なのではないか、とか私は思ってるんですが、どうなんでしょうね。

P39

 世界が変ってしまう話。気候とか紫外線とか、こんな感じで日常のレベルでいろんなことが変ってしまっている感覚がありますね。夏は本当に日傘が必要になってきました。もうすっかり必需品で、玄関に日傘を置いてます。このぶんだと冬もこうなるのでは、という感じで、でも日傘で思い浮かべる、というか日傘をさすと口ずさむ歌は同じだろうと思います。そのくらい身体の一部になっている。まああれは夏の歌ですが。ということで私の場合のその歌は、はっぴいえんどの「夏なんです」なんです。もんもんもこもこの、というフレーズが気持ちいいですよね。

P40

 他のところでも書いてますが、大阪の寺田町に住んでます。この駅前から坂を登っていくと、右手に四天王寺の五重の塔が見えてきて、その先が上町台地のてっぺんで、四天王寺の西門があって、そしてそこからは西に下っています。だから夕陽がよく見える。夕陽が丘という地名になってたりするくらいですから。
 だから、うちの近所(つまり東側斜面)のほうがちょっとだけ早く日が暮れる。日が暮れる頃に自転車で坂を登っていると、また夕陽が見えてきて、ちょっとだけ時間を逆行したみたいな気分になったり。
 それと、秋になるとほんとに嘘みたいに日が短くなりますよね。まあそのへんから書いた話。この坂と台地をもとにした話はけっこう多いです。『きつねのつき』とか。頭の中にもそういう土地感覚みたいなものができてしまってるんでしょうね。梅田に近い天満あたりに住んでた頃は、坂なんかなくて、そのかわり近所に大きな川がありました。『かめくん』とかはその感じですね。住んでる土地の感覚というのは、私の場合けっこうもろに小説に出ますね。

P41

 娘が算盤塾に行ってた頃に書いたやつ。私も子供の頃行ってましたが、簡単な暗算くらいのところまでしか行けなかった。あれって、何級だったのかな。娘はもうちょっと複雑な暗算もやってて、へー、と感心してました。頭の中で算盤の玉を動かすと言うのは聞いた話で、娘もそうやってたらしいです。その先は妄想ですが、でもそのくらいのことはありそうですね。頭の中に独立したアルゴリズムみたいなものが並行して幾つも走ってる、なんてことはたぶん実際に行われていることだろうから。

P42

 もう今はないんですが、近所にけっこう古くて高い塀がありました。それを勝手に「ベルリンの壁」と呼んでたんですが、そのへんから。そういうちょっとおもしろいというか、なんとなく惹かれる風景みたいなものが出発点になることは多い。壁だから壁新聞、そしてそれも怪しい新聞。たとえば、大阪スポーツなんかには昔から宇宙人の写真とか載ってたりしました。でもそれをべつに誰も本気にしてなくて、大スポかっ、みたいなツッコミの言葉になってたり。たしか映画『メン・イン・ブラック』でも、そういう新聞がいい感じで使われてましたね。まあ謎の壁に貼られている壁新聞の記事にはそういうのがいいだろう、と。そして、そんな怪しげな記事のなかでも極めつけの怪しい記事が、という落ち。

P43

 月世界の話。これ、我々の世代はまず間違いなく「げっせかい」って読むんですが、今の人(この言い方も変ですが)は、「つきせかい」なんですね。朗読を聴いて初めてわかった。そっちの読み方は全然考えもしなかったなあ。私の世代だと『月世界旅行』とか『月世界征服』とかありましたからね。考えたらアポロが着陸した頃から、世界はついてないたんなる月になりましたね。我々の世代は、その前の世界の名残りがあった頃にいたんでしょう。月が異世界だった頃ですね。現実とは繋がっていない、フィクションの中にしかなかった頃の月は、月世界という別世界だっただろうと思います。これもやっぱりその頃にはたしかにあった月世界を引きずっていて、でももうああいう月世界はどこにもないことはわかっているからこういう内容になったのかな、と思います。子供の頃は使えてたはずの魔法が使えなくなる話、とか、そんな話なのかも。あ、それから牧野修さんの『月世界小説』の影響も大きいでしょうね。昔教えてくれた誰か、とか出てくるのは絶対そうだろうなと思います。

P44

 子供の頃に考えた世界の構造、みたいなのがSFの原点なんじゃないかと思います。少なくとも私はそう思っていて、だから私のSFはそういうのが多い。これはその典型ですね。それと奇妙な記憶。じつはこれに近い記憶があるんですね。いや、こんなことはしていないんですが、世界の果てがあのあたりにある、とか、わりと実感を持って思っていた頃があります。近所にお稲荷さんがあって、そこの裏がちょっとした雑草の茂った空き地になってて、柵はあったんですが隙間から勝手に入ることができて、でも途中までしか行けない。なんかどこまでも続いてるみたいなんですけど、あるところから先は怖いんですね。なぜだかわからないけど。その先に世界の果てみたいなものがある、というのは、夢で見たんですが、でもなんか本当にそこに行ったような行かなかったような、なんだか夢と本当の体験とがごっちゃになっている。それはまあ自分が遊びに行ける範囲しか世界がない頃だったからだろうと思います。後になってSFを読んだり観たりしたときに感じるものはそれを思い出そうとしている感じにすごく近かった。だからたぶん私がSFというもの(ああ、こういうものをSFと呼ぶのか、と後になって思ったもの)に惹かれるのは、そのあたりにあるんだと思います。だからちょっと一般的なSFのイメージとはズレてるのかな。いや、ズレてるのかどうかはわからないけど、たぶんそう思われている。最近、SFは昔に比べるとだいぶ狭くなってきてるっぽいですからね。まあそれは私の知ったことではないし、こっちはこっちで自分のSFを勝手にやっていくしかないですが。あ、そうそう、世界の果てはね、半分壊れた煉瓦塀によく似てましたよ、私の記憶では。

P45

 侵略ものです。私が子供の頃は、いろんな異星人が毎週のように地球を侵略に来てました。どのチャンネルでもそうだったから、もうほとんど毎日ですね。そして、異星人とは言わなくて、宇宙人でしたね。昔は宇宙人と言ってました。いや、今も宇宙人なのかな。一時期、宇宙人という言葉がちょっとダサくなっていたような気がしますが、もう今はあんまりそんなことは気にしなくなって、またわかりやすく宇宙人になってるのかも。まあ星に住んでいるとは限らないし、宇宙から来るんだから宇宙人でいいと思うんですが、それだと地球も宇宙なんだから地球人も宇宙人、とか子供の頃はそんなことをよく言ってたりして、異星人という言い方のほうがSFっぽい、というか、宇宙人というのはSFっぽくない、とか、子供っぽい、とか子供心に思ってました。でも今は、一周回って「宇宙人」という言い方、けっこうかっこいいんじゃないか、とか。まあそれはともかくとして、だいたい彼らは地球人に成りすまして侵略に来てました。あれ、服とかどうしてるんでしょうか。まあ地球に来れるくらいだから地球人の服くらい作れるんでしょうが、でもやっぱりそういうのには細かい間違いがあったりして、そしてもちろん本物の地球人からみるとちょっとした間違いが不自然で、そういうところから正体がバレがちです、たぶん。だからいちばんいいのは現地で本物を調達することでしょう。傭兵マニュアルにもそんなこと書いてあったような。ということで、こうなりました。

P46

 我ながら嫌な夢だなあ、と思いますが、今も見るのは本当。夢の中の自分はまだあそこにいるのか、とか考えたりします。実際には忘れているだけで、夢の中でも連続性みたいなものは保たれているのかもしれない、とかも。だとしたら、それはもう現実と同じですね。どうなんだろうなあ。でも、悪いことばかりではなくて、この夢、何か新しいことを始めるとき、というか、新しい小説にとりかかったときなんかに見る夢でもある。だから、やっぱりまたこれを見たか、と自覚したりする。こういうのって、何なんでしょうね。あ、精神分析はしないでください。というか、これにかぎらず100文字小説なんて、いくらでもどうにでも精神分析できそうな気がしますね。しないでください。いや、してもいいけど。まあ実際にはそれでちょっとほっとしたらやる気が出たりする夢でもあるんですが、そこは小説なので、ああいう落ちにしてます。じつは死んでる、というひとつの定形ですね。夢落ちにしてじつは死んでる落ち、という、たぶんやってはいけないとされているやつ重ね。

P47

 そもそもこれはツイッターでやってる【ほぼ百字小説】の中から抜き出してまとめたものなんですが、どうもずっと書き続けているうちに自分の中にいくつかの世界観みたいなものがあって、それが重なっているところが自分というものらしいと思うようになりました。今のところ自覚しているのは、「猫的世界」「亀的世界」「狸的世界」を成立させるリアリティで、それぞれ重なってはいるんですが、でも階層みたいなのが違うんですね。そしてその全部を繋いでいるものがどうやら私にとって「SF」というものみたいです。まあこれは自分が自分の書いたものを読んでみて、そう感じるだけなんですが。そしてこれはその「狸」。考えてみたら、デビュー作の『昔、火星のあった場所』からして、狸SFなんですね。人類(あるいは猿)と狸の火星を巡る戦争でつまり、かちかち山で猿蟹合戦なんですけど、こんなこと書いてもなんのことやらわからないですね。まあ電子書籍ならありますからよかったら読んでみてください。ほんとにそのまんまの話(火星で、狸で、SF)ですから。あ、テラフォーミングも出てきますね。
 この話は、まだ狸が人間に利用されていた頃の話かな。 とにかく、狸とか狐の話は好きなんですよ。私の中ではそれはSFと直接つながっています。狸とか狐が人を化かしてる世界の話ですね。人間にはよくわからないものが、人間に接触してくる話。よくSFは現代の神話のようなもの、ということが言われますが、私の場合は神話というよりも民話なのかも。そして、狸は人間を化かすんですが、じつは人間をいちばん化かすのは人間、というところに落としてます。いわゆる「いちばん怖いのは人間」というやつですね。「猫、亀、狸」の世界が自分の中にあるらしい、というのは、『100文字SF』が出た後で気づいたことなんですが、こうして今読み返すと、かなり初期のあたりですでに猫も亀も狸も出てきてますね。それもまたちょっと化かされたみたいな気分です。

 猫的リアリティ、狸的リアリティの話はここに。12分あたり。

https://twitcasting.tv/inutogaito/movie/704370586


P48

 亀もの、というか、「亀といっしょに暮している」もの、です。今はずっと、亀は物干しにいます。盥に水を入れてて、そこに板でスロープを付けてるんですが、ちゃんと自分で出入りする。亀にそんなことできるのか、と思われるでしょうが、できます。亀はかなり空間認識の能力があるみたいです。
 昔、アパートに住んでた頃は、部屋の中を勝手に歩かせてました。暖房もなかったので、冬眠も部屋の中でさせてました。その頃は、暇なときによく甲羅を磨いてました。亀の甲羅というのは爪みたいに皮膚が硬くなってできたものらしいですね。古い部分が剥がれ落ちていくんですが、剥がれないままになってるところがあったりして、それを爪でかりかり剥がしてやると、気持ちよさそうにしてます。いや、実際に気持ちいいのかどうかはわかりませんが。ということで、昔は膝の上にのせてよ.くそうしてました。これはそんなときの感じですね。かりこり、かりかり。なんだか亀の甲羅のパターンを読んでいるみたいな気持ちになります。六角と五角形が年輪みたいになってます。実際、冬は冬眠してて夏に成長するから、木の切り口みたいに甲羅は年輪状になってます。それを指でなぞったりするのもなかなかおもしろいです。あと、甲羅と言うのはやっぱりおもしろい形ですね。そのままなぞっていって内側にまで行けそうな気がします。『かめくん』でも、亀の甲羅の内側の世界の話を書いたことがありますね。まああんな感じ。全体を見ずに目先のことだけに集中していて顔をあげると、いつのまにか知らないところにいる、というのも「あるある」ですよね、道に限らず。

P49

 餅SFです。いろんなものが襲ってくる映画がありますが、そろそろ餅があってもいいと思う。あるのかな? なにしろ実際に年に何人か餅に殺されてますからね。単なる絵空事じゃない。
 しかもここでは知性を持っています。粘り強くて頭がいい、となればもう人類に勝ち目はない。ということで、支配されるでしょうね。それにしても餅つき機はすごい発明です。私が子供の頃に一般的に売り出されたと思います。それまでは餅つきをしてたんですが、いちどあれを使うと、もう戻れませんね。餅つき機なんだから、餅つきというあの動きを機械化するんだと思ってたのに、スクリューみたいなのを回転させてそれで餅が搗けるというのは、なんだかセンスオブワンダーでした。搗かなくても搗けるのか、という驚きですね。SFです。そして、これまで大勢集まってやっていた餅つきが、なぜ餅つき機になってしまったかといえば、そりゃもちろん餅つきというものが大変だからです。最初はいいんだけど、後のほうはもう単なる労働です。イベントとかじゃなくて、実際に正月用の餅をつくとなると、とにかく集まってる全員の家の分だけ必要です。疲れたからといって止めるわけにはいかない。だからそうなります。まして餅のために強制的につかされるとなると、当然機械に頼ります。そして、というのは、小噺としてなかなかいいんじゃないでしょうか。小噺としての人類絶滅、というのもSFならではですよね。

P50

 もちろんそう解釈する必要はないのですが、どう思って書いたのかということで言えば、これは特撮の話。昔の特撮宇宙は青かった。そしてもしそういう宇宙を自分たちの世界として生きているものがいたら、みたいな発想で書いたやつ。彼らから見たら、昔観測していた宇宙と今の宇宙が明らかに変わっているはず。まあ宇宙に音が無くなったのは、かなり限られたSF映画だけで、今もやっぱり宇宙はにぎやかですが。『2001年宇宙の旅』がいかに衝撃的だったか、ということですね。あんなに静かな宇宙は今の映画の中にもなかなかないですから。

P51

 子供の頃からよくこれは思ってました。昔のSFはけっこうそういう年代がはっきり書かれていて、21世紀なんて、もうSFそのものなんですよ。そのくらい未来というのがファンタジーで、現実から切り離されたものだったような気がします。鉄腕アトムの2003年4月7日とか、HAL9000の1997年1月12日とか。自分の免許証の2025年まで有効という文字を見て「未来人やん」とか思ったりします。2001年になったときは「ああ人類はまだ火星にも行けてないな」とか。で、サゲは他でもよく使っている定番の手、これを語っているのは誰か? ですね。誰かというのはあえてはっきりさせてませんが、まあそれも含めて「型」ですね。


P52

 だいたい毎日マクドナルドに二時間くらいいます。下書きは紙のノートに手書きで、あとでPCに打ち直します。ものすごく効率が悪いんですが、まあこのやり方が染みついてしまっていて、これしかできないから仕方がない。小説を書くのにあんまり効率は関係ないしね。ぜんぶぐちゃぐちゃにして捨てたり、ぼけええええええっ、としている時間のほうがほとんどだから。それに書いたからってなかなか出せないし。
 まあそんなこと言ってても仕方がない。だいたい同じ時間に商店街を抜けて歩いて行ってます。で、これはそのときに思ったことですね。ここに住み始めた頃からけっこうシャッターは降りてたんですが、ここ数年でまた次々に降りていきます。完全にシャッターだけの一画とかあって、まあ後を継がないだろうから、今やってる人が歳をとってやめたら、もう商店街というものがなくなるのだろうな、と思います。そこで思うのが、ちょっと前のSF、私が子供の頃のSFにはよく出てきた多世代型宇宙船。
 恒星間航行は一世代では無理なので、何世代もかけて目的地に向かう、というやつで、ワープ航法なんてことができなければ、そうなるしかない、つまり現実的なアイデアではあるんですが、商店街でさえこれなんだから、あんまり現実的ではないのだろうなあ、とか。このあいだの戦争を体験した世代が少なくなってきたくらいですぐ喉元過ぎてしまいますからね。とかそんなことを考えているうちに、何年も行ってたマクドナルドまでシャッターが降りてしまいましたよ。今はひと駅向こうまで歩いて行ってます。

P53

 これはもうそのまんまですね。ようやく新刊だけじゃなく、これまでに出てた本の電子書籍化も出版社がやるようになった頃に書いたんだと思います。電子書籍というのは書き手にとってはありがたいもので、もうちょっと印税率上がってもいいんじゃないか、とかそういうあれこれはあるにしても、ずっと絶版状態(絶版じゃなく品切れ、ということなってることが多いですが、事実上の絶版です。)の本は、古本で探すか図書館で、と言うしかなかった。作家にとっては、復刊と同じことだからありがたいことです。ついこのあいだまで、そうでしたからね。『ザリガニマン』とか『イカ星人』とか、絶対にもう読まれることはないだろうと思ってましたから、今も普通読めるようになったのは単純に嬉しい。紙の本の復刊なんてよっぽど売れてる作家じゃないとあり得ないですからね。まあそういうのと、あとは、たとえばテレビを捨てるのにお金がかかるようになった、というのを合成した感じかな。
 今となっては信じられないかもしれませんが、昔は捨てるのにお金はいらなかったんです。粗大ゴミ回収の日に出しとけば持って行ってくれました。粗大ゴミの日に近所を回ったりすると、いろんなものが置いてあって、フリーマーケットみたいな感じでした。けっこういろいろ拾ったなあ。だから捨てるのにお金がかかるようになった、というのはわりと衝撃だったんですよ。そういえば、『かめくん』でも、かめくんは粗大ゴミの日にテレビとかビデオを拾う。そういうところはやっぱり古くなっていきますね。でもまあそういう古び方はなかなか味わいがあっていいものだと私は思ってます。

P54

 これもじつは演劇もの、というか、とっかかりの発想はそうですね。演劇というのは、終わると跡形もなくなるんですね。初日から楽日まで、小劇場だと三日とか四日が普通で、長くても一週間とかです。それが終わると大道具から何から何まで、綺麗に消えてなくなる。ビデオで撮った映像を見ても、正直おもしろくない。今ならまだ画質もいいし大きい画面で見ることができるだろうから、だいぶ違うかもしれませんが、カメラ据え置きで撮った薄暗い映像をブラウン管のテレビで見ても、もう何が映ってるんだかわからないし音声もろくに聴き取れなかったり。まあそんなこんなで、記録は残さない、という方針の劇団なんかもけっこうありました。それに、客席との空気も込みの部分があるから、おもしろいと評判の舞台をあとでビデオで見て、これそんなにおもしろいか? とかになってしまうことも珍しくなかった。それは仕方ないし、だから一切残さずに綺麗に消えてしまうのがいい、というのはわかるんですけど、でもまあそこからもうひとつ屈折して、そうやって伝説化することで得しているところもあるんじゃないか、とかね。基本的には私も、「ぜんぶ消えてなくなるからいいんだ」派だとは思うんですけど、でもなかなかそうすっぱりと割り切れないところもありますね、正直。まあその点、小説は文章だから、そんなことあれこれ考える必要もなくていいです。

P55

 ドッペルゲンガーの話。そして、夢っぽい。こんな夢を見たことはないと思うんですが、見たことがあるような気がする。小説を書くのと夢を見てるときの感じはすごく似ていると思います。だから夢を見る代わりにこれを書いてるのかも。ドッペルゲンガーものは、わりと何度も書いていて、そういうのはネタの重複として嫌がる人もけっこういると思うんですが、私はそういう繰り返しは、繰り返し見る夢と同じでなんらかの意味なり役割りなりがあるだろうし、そういうのはおもしろいと思ってます。ギャグとかも繰り返すことで出てくる効果がありますよね。いわゆる、天丼というやつですか。だから、また出たドッペルゲンガー、とか、そんなとこから無理やりドッペルゲンガーかっ、とか思ってもらえると助かります。これも土を掘ってたら出てくる、というのは考えてたんですが、実際に(?)出てきてみると、そんなふうに思ったのがちょっと意外で、それがおもしろくてそのまんま書きました。



P56

 演劇あるある、なんじゃないかと思う。劇団で年に二回公演をしていた頃がけっこう長くあって(まあ今朗読をやってるのもそれが大きいと思いますが)、それで演劇ネタ、劇場ネタ、はけっこうあります。これはその典型というか、ほとんどそのまんまですね。劇場入りして開演までの「仕込み」と呼ばれる時間ですね。チェスタトンのブラウン神父シリーズにもわりとそういう劇場の話があるのですが、チェスタトンって芝居とかやってた人なのかな。楽屋の感じとか、舞台稽古(衣装は無しで、なんてフレーズが出てきたりする)の雰囲気とか、けっこう舞台の現場の近い人が書いたとしか思えないんですが、たんに一般教養として芝居くらいはやってたのかな、あの頃の人は。まあそれは余談。

 この作業が行われているとき、私はいつも真っ暗な客席の隅のいいところを見つけて寝転がって、気持ちよくうとうとしたりしてました。本番までのあわただしい時間の中にぽかんと空いた穴みたいで、それも含めて好きな時間。まあ劇場自体、子宮みたいなイメージはありますよね。ぽかんと空いた空洞みたいな舞台を囲むたくさんの幕とかけっこうややこしい通路とか。

P57

 これもあるあるですよね。次世代あるある、というか。私の世代(昭和30年代生まれ)から見ても昔の遊びだったものを今の世代がとんでもない形にリニューアルしてしまう。けん玉とかそうですよね。育つ過程で見てきたものがまるで違うし遊ぶ環境も違うからそうなるんでしょうね。スマホの操作なんか見てても思います。私とかは、なんでマニュアルがないんや、とかよくぼやくんですが、娘(高校生)は、何にも見てないのにそういう操作ができて、なんでそうやったらええってわかるん? とか聞いても、なんとかなく、とか、わかるやろ、普通、とかになります。だからまあ折り紙なんかもとんでもない進化とか起こるんじゃないかと。そういう地味な『幼年期の終わり』みたいな話はちょっと書きたい。





P58

  だいたい実話です。だから家電SFで妻SFで、そして日常スケッチでもある。両立、というか三立はしますよね。家電に関しては、あるあるだと思います。もういよいよダメかな、と買い替えの相談とかしていると復調したりする。それにしても小説のこういう場面における「関西弁」というアイテムは便利、というか効果的です。ちょっと理不尽な命令というか、勝手な決めつけみたいなもの、相手のことはおかまいなしにこっちの都合で喋る場合は、やっぱり関西弁が適している。まあこれは関西の人間だからそう思うのかもしれませんが。HAL9000も関西弁で文句言ったらなんとかなったんじゃないか、とか。あ、冷蔵庫は今もがんばって働いてます。超能力なのか知性なのかはわかりませんが。


P59

 これもけっこう「あるある」なんじゃないかと思うんですよ。下書きを清書してたりするとやってるとよく思いますね。あ、今どき下書きとか清書っていう言葉もなんだか不思議ですね。みんな基本的に打ち込んでるわけだし。私の場合は、未だに紙のノートにボールペンでぐちゃぐちゃと下書きしてて、それをあとでPCに打ち込んでます。小説を書き始めたころからずっと、喫茶店で紙のノートに書いてたから、紙に手書きでないと新しい文章が書けない、というこれはたぶん思い込みですが、でもリラックスできる。どうせこれぜんぶあとで打ち直すんだから少々文章が粗くても辻褄が合ってなくてもべつにいいか、とか思って書き進められる。そうしないと書き進められないくらい気が弱い。まあそれで今もそうです。百文字ですらそうです。これはそのまま打ち込んでますが、小説じゃなければできる。だからまあ、思い込みですね。でもコンピュータとか抱えて外に行くよりは紙のノートのほうが便利だし、実際にぜんぶ文章を直すことになるからまあそのほうがいいか、ということでそうしてます。で、そういうときに、あ、ここちょっと変だな、とか思って直そうとしたら、ちょっと先でちゃんとそれが伏線として効くようになってたりして、書いてるときにそうやったことを完全に忘れてるんですね。たぶんそれは夢が思い出せなかったりするのと同じで、書いているときはそこに入り込んでるから、実際には書いてないときとは別の部分が書いてるんだろうと思います。それで、いつも思うんですが、そうやって書いているときの自分のほうが、書いてないときの自分よりちょっと賢い。こいつ、うまいことやってるなあ、とかけっこう本気で感心したりします。でもそういうところがいくつかないと、小説というのは完成しないような気がするんですね。今までの経験からしても。どうにも進めかたに困ったときに前のところを読み返してたら、ちゃんと伏線らしきものがあったり、ちゃんと出口の方向が示してあったり。そんな感じです。たぶん文章というのは生き物で、小説を書いているあいだはそれがある程度勝手に動いたり反応したりしてくれるから、動いてないときに理屈で考えたことよりうまく運んでくれるんじゃないかと思います。そうなるともう誰が書いてるのかわからないんですが、まあそんなもんじゃないかと。だからたぶんこの本も、私よりちょっと賢い、というか、そうじゃないとダメなんですけどね。

P60

 生き残り戦略とその総体としての進化、みたいな話。進化という言葉から、優れた者が生き残って、結果として種全体が前に進んでいく、みたいなイメージが子供の頃からあって、ようするに進化したもののほうが優れている、という思い込みがあったわけですが、どうもそういうことではないらしい、というのがわかったときは、ちょっとした衝撃というか、思考の転換がありました。ものすごく安定した環境では、その環境の中でいちばん適応したものが当然栄えることになるんですが、そういう連中は環境の激変には弱くてそれで絶滅したりするんですね。そうなったときに生き残るのは、それに耐えらえる方法で生きていた連中で、でもそんなものは予想したり準備したりできるはずもなく、つまり「たまたま」なわけで、だからそういう変なことをやるものがある割合いて、中からたまたま生き残れるものが出てくる。だから、進化というものに決められた目的みたいなものはなくて、ただいろんな方向に変化していくようになっているらしい。まあたしかに、水中から陸に上がるなんてことは、計画してやれるはずもなくて、しかもいちど陸に上がってから、また水中に戻った、なんてのもいるくらいだからわけがわかりません。中にはこんなふうに他人事みたいに眺めてるだけで、でもたまたま目の前に抜け穴があって、それで生き残るやつもいるかも。

P61

 なんとなくルールはわかるんだけど、でも実際にはよくわからないところのほうが多くて、でも全員参加のゲームの話。登ったら登ったで梯子を外されたりするから、登ったほうがいいのかどうか、すらじつはよくわからない。まあそういうあるあるですね。

P62

 毎日同じ時間にテレビで感染者数と死者数を見る、というのはコロナ以降、日常の風景になりました。それで書いたのかな、と思ったんですが、それ以前ですね。まあ大きな災害があったときに、テレビを見るたびに死者数が増えていく、というのはそれ以前にも体験しているから、そのへんからの妄想でしょう。ゾンビとの組み合わせでもある。不謹慎ですが、妄想というのは不謹慎なものなので仕方がない。リビングデッドという言葉がそもそも矛盾していてそこがおもしろいわけですが、だから生者から死者になるのではなく、最初からそういうものとして生まれる、といのはどうだろう、とか。死者の誕生、みたいな感じですね。そうなるともう完全に別の種の生き物、いや、死んでるんですけどね。



P63

 他の人のことはわからないので、あくまでもこれは「私の場合」ですが、夢(寝ているときの見るほうのやつ)を見る、というのと、小説を書く、というのはかなり似ているんじゃないかと思ってます。頭の中の使っているところ、というか、使い方が似ているように感じる。小説を書く、というのは、自分が目が覚めたまま夢を見ている状態にして、夢の向かう方向をある程度コントロールしたりコントロールしなかったり、そんなことをやってるんじゃないかと。そのせいなのかどうか、この『100文字SF』の元になった【ほぼ百字小説】を毎日書くようになってから、私はほとんど夢を見なくなってしまいました。夢に使う材料をそこで使ってしまってるんじゃないか、とか思います。まあそれはわかりません。見ているけど憶えていないだけかもしれないし、老化して何かが変わった、とかそんなのかもしれません。でも、前はよく見てたんですけどね。それはちょっと残念ではあります。そして、小説と泥というのも似ていると思う。どろどろだったのを、なんとなく捏ねているうちにちょっと固まって言葉になってきて、そこにだんだん形が見えてくる。捏ねているときはそんな形にしようなんて思っていなかったのに、なんとなくそこに見えてくる。心霊写真の「ここに顔が!」みたいな感じかも。そんなふうに見えたものに形を近づけていく、そうするともっと細部が見えてくる、みたいな。私の小説の書き方はそんな感じで、百字小説でもそんなだったりします。そんなふうに泥を捏ねている自分を斜め上あたりから見ている自分もどこかにいてそっちも自分で、というその感覚も夢の中で自分を見ている感じで、そう言えば、舞台に立ってるときもそんな感じがします。だから泥を捏ねている自分を捏ねている自分、みたいなことになってるんでしょうね。まあそういう夢の話。

P64

 テント芝居を観て書いた。公園に立てたテントの中でやる演劇です。劇場と違って、テントというのは天幕というだけあって、中と外を分けるのは幕一枚で、それは演劇の行われている虚構の空間と外の現実とを隔てるのが幕一枚でしかない、ということでもある。そして幕、というのは、膜構造でもあるわけです。膜で連想されるのは、細胞膜で、生き物の自己と自己以外を隔てるのがこの膜でもある。そういう共通点みたいなものがおもしろいと思いました。隔てられてるんだけど、物質とか情報は出入りする、というのも生き物と似ている。劇場でもそうなんだけど、テント芝居はそこがもっと曖昧で、芝居の最中にいきなりその境界だったはずの幕(膜)が取っ払われたりする。これがうまくいくと、世界が裏返るみたいな感動があります。幕が取っ払われて見えるビル街の夜景が、これまでとはまるで違うものに見えたり。

P65

 一時期、神戸に住んでいました。十年くらい。まあそのことでもあるのだろうと思います。新長田にある会社の独身寮にいて、西宮にあった倉庫でフォークリフトに乗ってた頃。だから三宮が通過点で、毎日三宮の駅でJRから地下鉄に乗り換えてました。だから必ず三宮駅で降りるんですね。毎日小説を書くようになったのはその頃で、だからやっと本気で書こうと思った頃で、同時にやっと書くことを楽しむことができるようになった頃だと思います。仕事が終わって寮まで帰るときに、途中の三宮の喫茶店によって、一時間とか二時間書くようにしてました。同じ店の、だいたい同じ席で、とにかくコーヒー一杯分280円の元だけはとらねば、という自分のセコさを利用して書いてました。それは、がんばってたとかじゃなくて、それで同時にバランスを取ってたところはあります。書くことで自分の中に溜まってる澱みたいものを外に出して、それでちょっとすっきりして帰ってました。紙のノートにボールペンで。もちろん下書きで、あとで清書するんです。清書なんて言葉ももう死語ですね。その頃って、清書はまだ原稿用紙に万年筆で書いてたんですよ。もうすでに信じられない。PCを買うのは、そうやって書いてハヤカワSFコンテストに出したやつが参考作に選ばれてから。そのせいなのか、私は未だに下書きは紙のノートにボールペンです。それをもういちどキーボードで打ち直す。そのやりかたでないと小説が書けない。たぶん手が考えているんですね。粘土をこねるみたいに。会社が休みの日も、三宮まで行って同じ店に入ってました。一回書いて、映画を観て、また同じ店で一回書いて、本屋に行って、また同じ店で書いて、映画を観てから寮に帰る、みたいなことをするのが楽しかった。三宮にはいろんな映画館があって、どの映画館にも特徴があって、映画の記憶はどの映画館で観たのとペアになってます。まあこれはそういう神戸の話。三宮から元町にかけてのあたりとか。

 だから、あの頃に書いてたものは、ほとんどあのあたりの話になってます。自分の中のものと自分の外とがつながってたんでしょう。そういう書き方をするようになったのも、もしかしたらあの町のせいかもしれません。山手から港まで坂がまっすぐ続いてて、空が広くて、線路の高架と地下道と映画館がたくさんあって、もちろん喫茶店もたくさんありました。人工的で町自体が箱庭っぽくて、歩くのにちょうどいい大きさで。なんか坂道と星が近いんですね。稲垣足穂とかも、神戸っぽいなと思います。私ので言うと、『昔、火星のあった場所』と『クラゲの海に浮かぶ舟』と『どーなつ』が、そうです。でもあのころいつも行ってた店も映画館も、地震でほとんどなくなってしまいました。記憶も、もうだいぶ頼りなくなってます。まあ仕方ないですけどね。

P66

 幽霊の話。前から書いてることですが、毎晩出る幽霊、必ず出る幽霊、というのは、フィクションとしてはサイエンスの範疇だと思うんですね。再現性も法則もあるんだから。だから幽霊だからホラー、異星人だからSF、みたいな分類はあんまり意味がないんじゃないか、と。そんなわけで、P17と同じで、幽霊の話ですがSF、でいいんじゃないかと思います。ちなみに、「毎晩時刻たがえず」というのは、上方落語の「皿屋敷」。もしかしたら落語の中でいちばん好きなネタかもしれません。展開もぶっとんでるんですが、とにかくわくわくするんですね。冒頭のお伊勢参りの旅先で恥をかいた話、から、みんなでその幽霊を見に行こう、という話。そして、呪いのルールさえわかっていれば大丈夫だから、その怖さを安全な怖さとして楽しむことができる、という話で、お話の骨格自体が、若者たちがおもしろがって心霊スポットに行く、という現代的なホラーの定番になっていてます。昔から変なことを考える人はいたんだなあ。

 そんなわけでこれも毎晩出る幽霊、そして会いに行ける幽霊、の話。そこからまたべつの商売が、というのもじつはこの「皿屋敷」の展開が元になっています。そして、そこにもうひとつ別の商売が、というのをサゲにしました。とにかくSFファンはみんな、落語の「皿屋敷」を聴いたほうがいいですよ。

P67

 わりとオーソドックスなSF小噺。フレドリック・ブラウンとか、もちろん星新一も。最近のSFはどうもちょっといろいろうるさくなってきてて、たんなる悪ふざけみたいなのが受け入れられなくなってる気がします。書く側も読む側も。誰もが思うようなあるあるだと思います。小噺というのは、あれこれ辻褄を合わせる必要はなくて、ほんとに思いつきだけで形にしてしまえる。そういういいかげんさが受け入れられにくさになっているんでしょうが、そういういいかげんさというのは、SFのひとつの武器でもあると私は思ってます。いやほんと、このごろのSFを読むと、ちゃんとしてるなあ、と感心することのほうが多いんですが、でもちゃんとしてるほうがいいのかどうか、というのはまたべつの問題なんですね。まあ私的には、ですが。

P68

 いちおうハードSF。いや、違うけど、そのヘンテコ理論というか、屁理屈のおもしろさみたいなのが出発点にはなってます。ハードSFのなかの大ネタのひとつが、超光速ですね。相対論と超光速をどうやって両立させるか、とか。質量のあるものを加速することで光速を超えられないなら、空間を捻じ曲げて、というのがいちばんよくある方法で、インフレーション宇宙みたいに空間そのものが膨張したら、外から観測すれば光速を超えてるようには見えるはず、とか。宇宙ぜんぶがそうなったら外は無いんだからそれは無理ですが、局所的にそういう伸び縮みしている空間が存在してたら、とか、もっとらしいことを言いながら、そういう細長い鰻的というか鰻の寝床的な特殊空間みたいなものを落語の「鰻屋」に無理やり接続できる(あるいは、接続できてなくてもできてる顔をする)というのがSFの、そしてマイクロノベルのいいところで、でも実際、存在しているし特徴もわかっているけど技術的にコントロールできないもの、というのはSFに出てくるスーパーテクノロジーみたいなもんだと思います。あ、鰻の捕まえ方の話ですが。


P69

 月の話はけっこう書いてます。これもそんな中のひとつ。ルナティックという言葉もあるくらいで、月を見るとなんか変な感じになる、というのは昔からあるんでしょうね。ちょっと現実感のほうが頼りなくなったりする。そういう感じと、それからこの場合は夜のランニングですね。それによるランニングハイっぽいもの。月だけでもちょっと酔ってハイになるのに、そこにもうひとつ加わるとこういう感覚になる、という風にももちろん受け取れますが、でもまあ毎回満月のわけがないから、もしかしたら見ているものは月だと思っているだけで月ではないかもしれない、あるいは、この主人公がぼんやりした人だから知らなかったり気づいてなかったりするだけで、月と地球との関係は大きく変わっているのかも、位置関係とか、それに伴う重力とか。こんなに気のせい気のせいを繰り返すのは、気のせいではないことに本人は内心気づいていて、でも気のせいにしておきたいのかも。


P70

 ショートショートの落ちの悪い例としてよく「夢落ち」が言われますが、どうも実際にそれがどういう効果をあげているか、というのをきちんと考えずに「夢落ち」だからよくない、みたいな言い方をしている人がけっこういるように思います。ダメ、夢落ち。ダメ、下ネタ。みたいな感じで、単に自動的に反応しているだけなんですね。もちろん夢落ちにもいろいろあって、中にはそれが夢落ちであるということが重要な要素になっていて、夢落ちじゃないといけない、夢落ちだからこそいい、という夢落ちもあって、たとえば落語の「天狗裁き」なんてのがそうです。あれは夢落ちだからこそのおもしろさですね。まあいちおうこれも必然性のある夢落ち、というか、夢落ちであることのおもしろさ、というのをやったつもり。こんな夢を見てる、ってことは、どうなの? みたいな話。自分でもわりと気に入ってます。あ、ついでに言うと、私は必然性のない夢落ちでもよくて、夢を夢らしく書けてればそれだけでけっこう価値があるんじゃないか、と思ってます。でもそれはまた別の話、ですね。これに関してはここまで。

P71

 そのまんまやないか、と言われそうですが、そのまんまですね。耳の中でごろごろ、というのはたぶんけっこうあることだと思うんですが、それと遠雷がそんなふうに聞こえたことがあって、遠雷だと思ったら耳の中の音だったら、みたいなことを思って、それともちろんこれは飛蚊症ですね。聴覚だけじゃなく視覚のほうとも絡めてみました。どこがSFやねん、ですが、これもSFです。現実とか体験がいかに頼りないものか、とか、肉体の変化によって世界が変る、とか言えますから。いや、言い訳ですけど。でも、SFなんて言い訳ですから。


P72

 空き地もの。【ほぼ百字小説】には、かなりの率で空き地が登場します。それで、昭和っぽいとか言われたりするんですが、実際うちの近所には空き地がたくさんあって、サバンナのライオンみたいに猫が何匹もごろごろしていたりします。世の中は思っている以上に昭和です。昭和と違うのは、たいていは金網のフェンスが立ってて勝手に入ったりできないことですね。まあそのせいで人間が入って来ないエリアができて、猫がリラックスしてるところを見ることができたりするんですが。まあそれはともかく、空き地は好きです。突然現れる更地の歯が抜けたみたいな頼りなさもいいですが、いつのまにかそれが当たり前になって、地面は草に覆われて、ところどころに背の高い草むらまでできたりしているのは、町中に出現した野生みたいでいいですよね。秋になると虫の音も聞こえるし。そういう空き地が急になくなったりする。何かがあったのがなくなったのが空き地ですが、その空き地がなくる、というのが不思議で、あれはいったいどこから来てどこへ行くのか、みたいな話。更地を見ると、前にここには何があったっけ、とか考えるのはあるあるだと思いますが、その逆の、空き地がなくなって何かが建ったときに、そこが空白だったことを思い出せなくなる、という記憶の空白、をオチというかサゲにしています。

P73

 P33のところでも落語のことを書きましたが、私の書くものは、この『100文字SF』に限らず、落語の影響を受けています。いや、影響を受ける、というのとはちょっと違うか。たぶん、お話というのものを自分から積極的に楽しんだのが、それなんですね。何かを見たり聞いたりして、こんなおもしろい話が、というように人に話したりする。そういう形のいちばん最初のところ。結晶でいえば核の部分にあたるのが、『ウルトラQ』(ウルトラマンより再放送で見たウルトラQのほうに、よりわくわくしてました。)と『上方落語』なんですよ。たぶん、そこから始まっていて、それが文章と結びつくのが、中学のときの星新一のショートショートの出会いで、それはたぶん星新一も落語が好きだった(というか、あの世代でSFを書くような人は、落語好きに決まってると思いますが)というところはあると思います。そんな星新一作品の短さであったり、落ちがある、そして作品の中にはかなりの頻度で明らかに読者を笑わせようとしているものがある、というところに自分の好きなお話との共通点を見い出したのでしょう。

 とまあ長々と書きましたが、ようするにこれはそういう落語の中にある、いわゆる「小噺(こばなし)」というやつです。ネタの前に落語家が素で喋る「マクラ」のその中でちょっと紹介される短い噺、つまり落語のネタが短編だとすれば、超短編、マイクロノベルにあたるものですね。落語ではそれをいくつかやって、客席を温めていく、というか、笑いやすい雰囲気を作っていく、というようなことが行われます。そういう短い噺。それに影響を受けたもの、とかではなく、これは小噺を書こうとして小噺を書いているんです。

 あれ? まだ話が長くなるな。まあいいか、これはわりと大事な話です。いや、どうでもいい話しかしてませんけど、という前提ですが。

 大学で落研に入って、落語を自分でやってみて、お話を人前で自分が演る、そしてなによりも「うける」というそのおもしろさを知って、じつは落語家になりたいと思った頃もありました。そして、結局なってないわけですが、ものすごく簡単に言うと、弟子入りする、という度胸がなかったんですね。そういうちょっと取り返しのつかないジャンプをすることができなかった。ヘタレなんですよ、関西弁で言う。それで小説、というのもなかなかヘタレの私らしいなと思います。小説なら就職しても書けるし、とかね。でもいちおう当時の自分のためにちょっと言い訳しておくと、SF研がなくて落研に入った、とP33でも書いた通り、その年齢のときにはもうSFのほうが好きになっていて、ショートショートみたいなものを書いたりもしてたんですね。つまり、いちばん好きなのがSFで、二番目が落語だった。(ちなみに、「二番が酒」というのは、落語『饅頭怖い』の名台詞だと思います。あれって、誰が付け加えたくくすぐりなのかなあ。)

 で、ここでヘタレの言い訳ですが、いちばん好きだとしたら落語家になってみて、それでダメだったとしても後悔はしないだろうと思ったんです。実際にそうなったらどうかはわかりませんけどね。でもそのときの意識としては、そうです。でも二番目なら、もしダメだったら、やめといたほうがよかったかな、とか思うだろうな、と思ったんですね。それで、結局こういうことになって、でもやっぱり人前であれこれやることは好きだから演劇をやったり、朗読をやったりしている。そういうなかで、朗読というのは、自分にとっての落語みたいなものにできそうだぞ、という実感があったんですね。ツイッターで【ほぼ百字小説】を書き始めたのも、田中啓文といっしょにずっとやってる暗闇朗読で使えるから、とりあえずこういう短いもの、舞台で数十秒でやれるもの、つまり小噺として使えそうなものをいくつか持っておけば便利だろう、くらいの感じでした。やれやれ、やっとつながった。というわけで、これはその典型ですね。小噺なんですよ。笑わせる、という目的で作ってます。そして、実際これはよくうけます。軽い下ネタ、というのも強いですね。笑うやつです、というのがわかってもらいやすい。朗読というのはなんだか堅苦しく考えられがちで、なかなかそういう空気にならないんですが、そういうのをきちんと作って、このタイプのものをいくつか並べれば、けっこう落語をやってたころの感じになります。いや、それは別にして、「人類進化SF」のアイデアとしてもわりとよくできてるんじゃないか、とは思いますけどね。そこはまあ、二番目が落語、ですから。

 あ、SFで言うとね、『幼年期の終わり』とかを意識してます。いや、ほんとだってば。こうやって人類は次のステージへと進んでいくのですよ。

P74

 あっさり言ってしまうと、映画です。銀幕なんて言葉もあんまり聞かなくなりました。いい言葉だと思うんですけどね。やたらと映画館に通っていた時期がありました。神戸に住んでて、新開地でよく見てました。そのころの新開地には古い映画館がたくさん残っていて(阪神大震災より前です)、それは昔の映画にもっと人が入っていた頃の映画館だからやたらと大きくて二階席とかあったりして、でも寂れまくっていて、客がひとりとかふたりとか。会社が休みの日にそこで三本立てとか二本立ての映画を観てました。いちおう一本くらいは知ってる映画何ですが、一本くらいは聞いたこともない映画でした。おもしろくない映画もおもしろくなさがおもしろかったりしました。あそこをこうしたらいいのに、とかあれこれ考えたりしてたことが、結局小説を書くのにけっこう役に立ってると思います。なんであんなに映画を観てたのかなあ。映画を観てたというより映画館に居たかったのかもしれません。やっぱりあの暗闇は特別で、あのころの自分にとって映画館に行くというのは、教会に行く、みたいなものだったのかもしれません。教会には行かないので、どういう気持ちで行ってるのかわからないんですが、まあなんとなく。いろんな個性のある映画館があって、でももうそんなのもほとんど無くなってしまいました。まあそんなあれこれを思って書いたのかな。それと、映画というのは幽霊に似てますよね。暗いところで見る光もの、という過去の光。映ってる人はもうこの世にいなかったりするし。ではそれは見ているこっちは何なのか、とかも。


P75

 紐、というのはおもしろいです。物質なんだけど、材質ではなくその形状である、ということ、それにそこに何かに繋がっている、とか何かと何かを結んでいる、とか、言葉の中にその機能が入っていること。だから、紐状何々、というものはものすごく多岐にわたってます。まさに、生物から宇宙まで紐として表現できる。それになんといってもその音の響きのちょっと間の抜けた感じですね。ひも。調弦理論、というと、なんかかっこいいんですが、超ひも理論、なんていうと、いまいち緊張感がありません。まあこれは個人の感想ですが。あ、人間関係を表現したヒモ、とか、紐づけする、みたいな言い方もおもしろい。あと、子供の頃に駄菓子屋なんかにあった、いっぱい紐があって、それを引っ張るとするするっとその紐に繋がってる景品が上がってくる、あれが好きでした。今思い出しても、あれは紐の大きな特徴を利用したアトラクションではないかと思います。そう、引っ張りたい。紐を見ると人は引っ張りたくなる。まあそういう話ですね。あ、それから関係ないんですが、ニューヨークの漢字を見ると、紐につながれた子供を思い浮かべてしまうのは私だけなんでしょうか?

P76

 夏休みのラジオ体操に子供と行ってたときに書いた。ハンコ押したりする係をやったりしました。ついでに私もラジオ体操やってました。ちゃんとやるとけっこうしんどい。小学校の校庭でやってたんですが、子供より年寄りのほうが多かったかな。あれ、不思議なもんでちゃんと身体が憶えてるんですね。あの音楽が鳴ると身体が勝手に動く。それとラジオ体操、という言葉がおもしろいですよ。あのときはもうラジオからの音じゃなくて、それを録音したのを流してましたけど。ラジオの指示通りに動くというのは、まさにラジコンで、もしラジコンの機械から進化して自律するようになった機械生命体みたいなものがあったら、自分の身体の中に残っている原始的な機能をそんなふうに感じるのでは、とか。

P77

 これはほんとにそのまんま。子供の頃からそういう妄想で遊んでました。ビームとか派手に出してくれる怪獣がいいですね。昔から怪獣が出てくるまでのところが好きだったんですね。だからその一環として楽しむ。たとえば、まだ遠くの町に怪獣がいる、という状態で、ちょっとまだ緊迫感がない感じで、どうしたらいいのかわからないしちょっと観たかったりもするから、みんなが土手とかに見物に来ている。そこでの会話とかやり取りだけ、みたいな
怪獣映画はなかなかおもしろいんじゃないかと思うんですが。

P78 

 国際宇宙ステーションの通過を公園とかで見上げることがけっこうあって、それで書いたやつ。つい先日も見てきました。べつに光点がまっすぐ行くのが見えるだけですが、それでもあれが宇宙ステーションかと思うとなんだか嬉しい。そして、自由落下という言葉が好きです。自由落下。自由と落下、というちょっと結びつかない感じの言葉が並んでいて、でも何にも支えられてなくてただ落下している、というイメージをすごくよく表していると思います。他のところでも書きましたらが、ようするに落下しているエレベータの内部にいることと無重力が同じ、というのを知ったときはすごく驚いて、そしてあれはやっぱり感動というものだったのだろうと思います。地球の軌道をぐるぐる回っているのも、あれはつまりずっと落ち続けているのだ、というのもすごくおもしろい。そういう宇宙ステーションが空き地に落ちてて、でもじつはそこにあるように見えてるだけで落ち続けていて、その証拠に窓から覗くとその内部は、みたいな理屈だかなんだかわからない変な理屈を言うのは、もちろん落語に出てくる横町の隠居、上方落語では「じんべはん」ということにしてます。

P79

 まあ小説のことですね。こういう破片みたいな小説。こういう破片を集めることで何かおもしろいことができるんじゃないか、というか、そういうことをやってるときが自分にはおもしろいらしい、というのがわかってきて、そういうことばかりやってる。そこらを歩いて集めたものと自分の中にある破片を並べていったらモザイクみたいな絵ができるような気がするんですが、自分でもよくわかりません。おもしろいからやってるだけかも。今のところ、自分はまだなくなってません。


P80

 これも「あるある」でしょうね。けっこう思います。これを書いたときはなんのときだったのかな、と思い出せないくらいには、よく思います。演劇の公演なんかのときには毎回思いますね。稽古期間が何か月かあって、最後の方はほとんど毎日顔を合わせるのが当たり前になってる人が何人も出来たりするから、そういう目に見えないものも含めて、無くなってしまった感が大きい。毎回こんなふうに自分に言い聞かせる、というようなことも含めてのあるある。そして、こういう感覚を書き留めておこう、とか思ってこういうものを書くのも。


P81

 ディスプレイの上を蟻が歩いていて、ん? となったのは本当。騙し絵みたいでおもしろいからそのまんま書いた。騙し絵、というか騙し動画ですね。そこからエッシャーの絵を連想。そういえば、蟻がメビウスの輪の上を歩いているのがあったなあ、とか。で、画面の中と画面の外を蟻に行き来させればいいか、とまあそんな感じ。単純な仕掛けですが、手品は単純な方がいいですよね。


P82

 こういうことがあったのです。宮崎の青島神社が見えるあたりの海岸。遠浅の砂浜で、浅瀬でぷかぷか浮いてると気持ちいい。で、お約束のごとく「眼鏡、眼鏡」となったわけです。あれは焦りました。旅先で眼鏡が無いというのはなかなかえらいことです。このときは幸い、足の先にそれらしきものが触れて、そのまま足で押さえて足の指で掴んだら眼鏡でした。よかったよかった。あとは落ちをどうするかです。いろんなものが流れ着いてくる浜、というのはありますよね。まあそのへんから。なかなかアホらしくて絵になる落ちだと思います。映像で見てみたい。

P83

 これはなんでしょうねえ。なんとなくこんなシーンが浮かんで書いたような気がします。卵は、海亀の産卵かなあ。それと養鶏場ですね。養鶏場で働いたことがあって、卵と言えば、洗浄して大きさごとに選別する機械が浮かびます。それで選別。破卵とか、出荷できないやつを取り除いたり。そう言う連想から書いたのかなあ。ちょっと夢の論理っぽいですね。

P84

 亀といっしょに暮していて毎日亀を見ていると、季節の感じ方がずいぶん変わったように思います。なにしろ変温動物ですから、気温水温がそのまま体温で、何がすごいといって、水温が20度以下になるともうなんにも食べない。
身体の中に季節があるんですね。まったく食べないのにけっこう動き回ってて、そして冬になると水中で冬眠しま。SFでお馴染みのコールドスリープ。時間が止まってます。で、娘が小さい頃には虫とかもけっこう飼ってて、それはもう夏といっしょに死ぬんですね。まあそんなのを見てて書いたやつかな。

P85

 なんか、こんな記憶があるんですよ。それもいちどじゃなくて、子供の頃にもこれによく似たことがあったような気がする。だからたぶんこれは私は何度も見る夢(いくつかそういうのがあります。)で、起こされるところから始まる、ということもあって、それで記憶の中で現実とごっちゃになってるんだろうと思うんですが。だからまあ夢もののひとつとして、そういう感じで書いてみたやつ。そんな夢見たことある、というのを何人かから聞いたから、夢としてはわりと定番なのかも。でもたしかにこんなことあったと思うんだけどなあ。

P86

 鍵盤が風景に見える、というのは、トランペットの先生に言われたことで、最初にピアノでコードを押さえる練習をさせられて、私は全然ピアノなんか触ったことなかったんですが、セブンス・コードの四度進行のパターンだけを書いてくれて、指が勝手に動くようになるまでやるように、と言われて、安いキーボードを買って、毎日やってました。理屈はあとで教えてあげるからとにかくそれだけやってたら、だんだん鍵盤の白と黒が風景みたいに見えてくるから、ということでした。おかげで、曲のコードくらいは押さえられるようになりました。なかなか風景には見えなくてすぐ迷子になりますが、でもなんとなくそういうことか、というのはわかりました。たぶん、何かができるようになる、というのはそういうことで、そういうことができる人達だけにわかる言葉とか見えるものがあるのだろうと思います。まあそのへんから広げた話。



 



P87

 単純に、これは毎日していること。だいたい毎日同じくらいの時間に同じ道を歩いて同じ店へ行って同じように書いてます。だいたいそのときに書いたことをあれこれこねくり回している。そこで書くことは、歩いているときに思いつくことが多い。三上という言葉があって、これは発想が浮かびやすい三つの場所で、枕上・厠上・鞍上、だそうです。寝る前の蒲団の中。トイレの中。鞍の上つまり馬に乗ってるとき、ようするに移動中。ということで、まさにその通りと思います。それでこんな気がする。頭がいちどからっぽになるとき、というのがけっこう大事なことだと思うんですが、でもその前にかなりつきつめて考えてることも必要な気がする。ずっと考えてて、そのなかでぽかんと頭が空っぽになるみたいな時間。そういうときに何も考えずに引っ張ってしまったりするんじゃないか、と。

P88

 頭の部分は、ウルトラQのナレーションですね。ここは、なんとな世界、というのをやりたくて書いたんだと思う。そして、主語が大きい、というのはツイッターなんかでよく言われるやつ。何かが大きくなったり小さくなったり、というのはウルトラQの定番です。怪獣というのがそうですからね。特撮につかうミニチュアも。あと、大きくなるといえば、ビッグバンで、これはまさに世界そのものが大きくなるわけで、そのへんの宇宙論とごちゃまぜにしました。宇宙のインフレーションなんて、ほんとにそういう冗談みたいな理論だし。




P89

 演劇もの、というか、そういう体験が主になってます。「どくんご」というテント芝居の劇団。初めて観たのは大阪城公園で、あれはほんと衝撃でした。ちょっと言葉では説明できないんですが、とにかくおもしろい、そして何よりも、笑いがある。トラックに積んできたテントが舞台になるんですが、その建て込みとかバラシなんかを手伝ったりすることもあって、これがほんとによくできてる。八十人くらいの観客を収容できるテントで、舞台と
階段状の客席があるんですが、とにかく支持されるままに、あれをこっち、
これをこっちに運んで、こことここをこんな風に、とやっているうちに半日くらいで出来上がる、そしてバラシはもっと早い。小さな世界が丸ごと出現したり畳まれたりしているみたいで、しかも再現性がある。宇宙もこんな感じなんかじゃないか、とか。バラシを手伝いながらポケットのメモ帳に書いたんだったと思う。



P90

 あったことそのまんま。日記みたいなもんです。国際宇宙ステーションが見えるんですね。ツイッターを見ていると時間帯とか見える位置なんかをツイートしてくれる人がいる。ほんとに見えるんかなあ、とか言いながら妻と娘と三人で公園に行きました。娘が通ってた保育園の前の公園です。そこで夕方に空を見上げてると、ちゃんと見えました。最初は妻が見つけたのかな。こういうのを見つけるのがうまいんです。光が点滅しないから飛行機じゃないことがわかります。消えない流れ星みたいな感じでゆっくり通過して行く。まだ星が二つくらい光ってる夕空を横切っていきました。なんかちょっと感動してしまいますよね。だって、宇宙ステーションですよ。それを家族で見上げてるんですよ。夕暮れの公園で。こんなのまるでブラッドベリの小説に出てきそうなシーンじゃないですか。コンピュータで検索してその時刻を調べて、家族で見に行くなんて、もうSFそのものです。ああ21世紀だ、とか思います。子供の頃、21世紀というのは未来と同じ言葉でしたから。

 こっちから見えてるんだから、宇宙ステーションからもここが見えてる。お互い見えてるけど、全然違う景色を見てる。二回目からはもうだいたいどのあたりからどんな感じで現れるのかわかってるから、すぐに見つけることができます。これがそこに書いてる軌道です。もちろん宇宙飛行士はそんなもの知らない。いやあ、それにしても宇宙ステーションですよ。この響きのSF感は、我々の世代までだろうなあ。ドーナツ型じゃないのはちょっと残念ですが。


P91

 紙の写真を並べたアルバム、というのも死語になるのかな。それもけっこう早いうちに。自分の子供の頃の写真、というのは不思議ですね。実際、憶えてないし。憶えていると思ってても、もしかしたらそのアルバムを見て自分であとから作った偽の記憶かもしれないし。まあそのへんからの発想。

 なんというか、SFのショートショートとして、わりとオーソドックスな形だと思います。遺品の整理に、というあたりも含めて。こういう「らしい」のもやっぱり欲しい。定型というのは強いですからね。,このまんまミニドラマみたいなものにしてもわりとうまくいくんじゃないでしょうか。ここに「未使用テイク集」というフレーズをはめたのは、なかなかいいと思う。いかにもありそうだし、一言でわからせることができる。オマケの特典映像みたいな感じですね。

P92

 実際にこういうことがありました。天井にいた、ということからわかると思いますが、蜘蛛の人です。まあ公式のものではないでしょう。勝手に作ったやつ。それが他のいろんなゴミといっしょに道路脇に積み上げてて、ああヒーローも捨てられるのかあ、となんかちょっと感慨深かった。だからまあ本物のヒーローとして読んでください。いや、そうじゃなくてもいいけど、そのほうがたぶんおもしろい。

P93

 管楽器というのは巻貝に似ていて、チューバとか背負って歩いている人を見ると、そういう生き物みたいでおもしろくて、もっと見ていたくてついて行きそうになります。まあそのあたりからの発想ですが、これはヤドカリかな。その巻貝とは違う生き物。そういうものが楽器を棲みかにしていて、その楽器の形になる。内側でその楽器と同じ形になって、その楽器と同じ音を出す。そして、これは私がトランペットを吹くから、というのもあるからですが、トランペットの話。

 トランペットというのは変な楽器です。楽器なのに、なかなか音が出ない。いや、それは当たり前のことなのかもしれませんが、ピアノとかギターとか、とりあえずここを押せばその音が出る、というのが楽器だと思っているとやっぱり変です。だいたいただの管ですからね。バルブでその管の長さを変えているだけだし、振動体は自分の唇、ようするに口でおならの音を真似るみたいにぶうぶうやってるそれを管が増幅しているだけですから。だからなかなか鳴らない。音色がどうしたとかそんなこと以前に、まず音が出ない。自分でやるまでそんなことも知らなかったのですが、知ったときはびっくりしました。そして、知ったときにはもう遅かった。芝居の中で何か楽器をやるということになって、じゃ、いちばん安い奴を、とか言って選んだのがトランペットで、やってみたらドレミファソラシドが吹けない。けっこう練習してもまだ吹けない。わけわからん。そんな感じでした。でも、まあなんとかやってみて、そのうちこれがおもしろくなって、ちゃんと習おうと思って習ったりして、あいかわらず吹けないままですが、本人は楽しくやれるようにはなりました。全然ダメですけどね、ほんと。まあしかしせっかくだから、朗読のときの小道具とかには使ってます。音楽としてはとても無理ですが、たとえば台本に〈変なトランペットの音が聞こえてくる。〉とか〈暗闇の中で、ヘタクソなトランペットの音。〉と書いてある、ことにすれば、これはもう下手でもいいわけです。むしろ、下手じゃないといけない。続けて、〈そして、朗読が始まる。〉ということにする。それなら台本通り、演出通りです。勝手にそう言い訳してやってます。まあなんにもないよりはいいと思うし、実際変な感じになるし、なによりも音響機材がいらなくて、ひとりでやれる。そしてトランペットと言えばハイノートで、とにかく高い音を吹けるほうが偉い、ということになってます。いや、べつになってないんですけど、でもそういうイメージがあるし、まあ高い音を吹ける、ということには憧れます。それも吹き手次第なんですね。楽器なのに。ということで、こういう話を書きました。当たり前のような当たり前でないような話。


P94

 まあこれも一種の「異常論文」ものですね。そして、地獄もの。他のところでも書いてますが、「物理的に存在する地獄」という設定は好きです。異形コレクションに書いた「天国」というショートショートは、地下街に地獄を作る話。これも作中に異常論文的な説明が出てきます。地獄を存在させるために理屈が必要ですからどうしてもそうなる。これは地獄の位置の話で、位置が確定できなくて、地上に確率的に偏在しているというところに持っていってるのは、量子論の枠組みのパロディみたいなもんですね。で、地上で観測された小さな地獄の総和が、地上そのものより大きい、というのが、そういう架空理論のそれらしいところ。無間地獄というくらいですから、地獄は無限を内包していて、みたいな理屈をつけることができるはずで、それもなんとなく現代物理学っぽい。そして、総和が地上より大きい、つまりじつは地上が地獄に含まれると解釈もできる、みたいなところに落とし込んだつもりですが、なんかわけのわからんことを言ってるだけでもいいか、とも思います。

P95

 おなじみのあれですね。それにしても、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』というのは、いいタイトルだなあとつくづく思います。中二病の心をがつんとつかむ。そして、大人になってもやっぱり味わい深いタイトルです。SFのいろんなあれこれがこれだけのフレーズに集約されてます。『ブレードランナー』の原作ですが、やっぱりブレードランナーはブレードランナーで、いつかあの原作のテイストの映画が観てみたい。あ、もちろんあれはあれで好きですけどね。「レプリカメ」なんてものを小説中で使わせてもらってるくらいですから。ということで、これはほとんどそのタイトルの言葉をこねくりまわして逆算しただけのもの。あと、電気何々、という言い方も好きですね。電気炬燵とか電気風呂とか。

P96

 これも演劇を題材にしたもののひとつ、かな。芝居の公演に参加することになると、まあだいたい2カ月くらいの稽古期間があって、その間に少しずつ作っていきます。稽古場で大勢で粘土をこねるみたいに作っていくその間は、じつは本番よりも楽しくて、私はそれが好きで関わってるのかもしれません。フィクションの中に身体ごとどっぷり浸かっている感じがするんですね。で、歌ったり踊ったりで楽しく過ごす、というのは、比喩的な言い方だと思うんですが、演劇においては実際に、歌ったり踊ったり、それもかなり真剣にやります。いや、私はまるでできないんですが、それでもちょっとここで全員でダンス、みたいなシーンがあったりして、決められた振り付け通りに音楽に合わせて身体を動かしたりしないといけなかったりする。もちろん演出側にも踊れるか踊れないかくらいはわかりますから、私が踊らされる場合、というのは、踊れないやつがあたふた踊る、ということで成立するシーンだったりしますから、踊れないなりにとにかく一生懸命やればいいわけです。昔はほんとにこのダンスというのが嫌いでした。なんでこんなできもせんことをやらなあかんねん、とかよく思ってました。でも、踊れない者がめいっぱい踊っている、というのはなかなか見ていてもおもしろいもので、ただ一生懸命やりさえすればおもしろくなる。でも、わざと下手に踊って笑わせよう、なんて気持ちが入ると、とたんにそれはおもしろくなくなるんですね。このへんの、本人がいっぱいいっぱいになっているところは本当で、嘘だけど嘘じゃない、という兼ね合いがすごく不思議でおもしろい。でも、ほんとに踊れない人がめいっぱい頑張って踊っている、というのはなかなかおもしろくて、そして時には感動的だったりもする。あくまでも、「だったりすることもある」ですが。まあそういうことがわかってきてからは、笑われながらめいっぱいじたばた踊るようにはなって、そして踊ることは好きになりました。自分でも不思議ですけどね。というわけで、たしかこれはそんなふうに稽古をしているときに書いたやつ。そして、隙間が狭くなってきたのは、演劇に限らず、フィクションとか表現全般ですね。


P97

 時間ループもの、というのが、いつのまにやらひとつのジャンルになるくらいになってて、だからそこに絡めてはいるんですが、これも前のに続けての演劇ものですね。たぶん、芝居の稽古の最中にこんなこと思って、それを台本の隅にでも書き留めたんでしょう。そういうことはけっこうよくあります。実際、同じシーンを何度も何度も繰り返すわけです。でもまったく同じというわけじゃなくて微妙に違ってたり、そしてこっちで動きを変えたり言い方を変えたりはできるんですが、なにしろ相手役があるからなかなか思い通りにはならなくて、でもそれがかえっていい方向に働いて思いがけずよくなったりする。これって、時間ループものみたいだな、とかそんなこと。


P98

 歩くと言うのはなかなか奇妙な行為で、たとえば舞台の上を普通に歩く、というのはものすごく難しい。「そこからここまで歩いてきて」というそれだけのことが、舞台の上だとなかなかうまくできない。普段自分がどうやってるのか、無意識でやっていることが意識した途端にわからなくなって、それでぎくしゃくして、マンガみたいですが本当に右手と右足がいっしょに出たりします。だからまあこれも一種の演劇もの、と言えるかもしれません。あと、長いことやってるからでしょう、小説の書き方を教える授業みたいなのをやったりするんですが、これもわからない。自分でどうやってるのかよくわからないのが大部分なんですね。だから、教えられるのかなあ、こんなのでいいのかなあ、でもまあやってきたから知っていることもあるしな、とか頭の中でぶつぶつ言い訳しながらやってたりする。まあそんな話ですね。そして、ではここで二足歩行を教えているのは誰か、というのをサゲに。


P99

 亀もの。もうずいぶん長く亀といっしょに暮らしています。アパートに住んでた頃は部屋の中で、今は物干しにいます。クサガメです。この亀を見ていて『かめくん』を書きました。『カメリ』もそうです。こいつが初めて卵を産んでびっくりした、という体験が出発点みたいなもんです。それまでずっと雄だと思ってて、それで「かめくん」にしたのに。まあそれはともかく、亀の甲羅がどうなってるのか、けっこうみんな知りません。幾つ穴があるか、とかわからなかったりする。絵を描いてもらうとおもしろいです。ここに書いた通り、亀の甲羅はリングとかドーナツと同じです。だから位相幾何学的には、取っ手が一つのマグカップとも同じ。あれを変形したら、甲羅と同じものになる。腹巻状といってもいいかな。甲羅というのは、大きくて硬い腹巻を付けてるようなものなんです。筒の中に入ってるわけです。前から頭と前足、後ろから尻尾と後足が出てる。もっと穴がたくさんあると思ってたんじゃないですか。そういう人のほうが多いです。この機会に憶えてください。もしかしたら何かの役に立つときがくるかも。


P100

 架空博物誌みたいなシリーズ(?)。100文字にはけっこう多い。こういうことだけを書きたい、という場合にちょうどいいんでしょうね。普通の小説にしようとすると、ここに何かお話が必要ですから。生まれた時から回転している生き物。だから自分が回転していることには気づいてなくて、世界のほうが回転していると思っている。そんな彼らにコペルニクス的転換が訪れるや否や、というアイデアは、なかなかいいんじゃないかと思います。実際、地動説ってかなりすごいSFですよね。フィクションじゃなくてファクトですが。

P101

 そのまんまです。現実もこうだったので、ああ夢でよかったあ、と目が覚めて思うんですが、寝惚けてる間はほんとに混乱したりします。考えたら、夢と現実の違いって、そこに連続性があるかどうかくらいで、もし夢の中でも同じシチュエーションでずっと続いてて、目が覚めたときにはそれを忘れてるだけだったらしたら、このずっと卒業できないでいる自分はずいぶん大変だろうなあと思います。あと、この夢、何か新しいことに取り掛かるときに(長編とか書き始めたときに)見るみたいなんですね。そういう意味では、現実かもしれません。

P102

 「自走式」という言葉がおもしろくて好きです。なんだか自分勝手に走り回ってるみたいな印象がある。しかもなんだかわからない自走式。そういえば『かめくん』にも、自走能力はないはずなのになぜか勝手に走り回る機械を出しました。で、これはその自走式の何かの話ですが、アクシデントで動けなくなって、もう自走式じゃない。それが温泉の由来になってる。いろんな名所の由来というのも好きで、観光地にあるそういう立札とか熱心に読んだりする。そして、自走だからどうやって自走してたのか、という形状をそこに盛り込んで、とまあそんな感じかな。止まってるけど冷却を続けないといけない、というももちろん原子炉で、それとラドン温泉とかの連想も入ってるかな。

P103

 これはただ漢字だけですね。虹と虻。虹が虫偏なのがなんだか不思議で、そういう虫の話を書こうと思って、そう言えば虻の翅が虹色、とかそんなことを思って、雨上がりに巨大な虻の翅に西日があたって、それで空に虹が見えている、というのはなかなかおもしろい絵なので、それをそのまんま書いたやつ。そういうことだけで書けるのも、マイクロノベルのいいところですね。

P104

 仮想現実の話、というか、映画のCGを見ててこんなことを思ったんですね。『アナと雪の女王』かな。氷とか雪のシーンがすごいです。でもまあ、
CGというのは計算ですから、氷とか水とかの動きは、いちどできてしまえば比較的簡単なんじゃないかと思います。ある決まったシンプルな物理法則に従って動いているだけですから、マシンの計算能力でなんとかなんとかなるんじゃないか、と。もちろんそこにセンスが必要ですけどね。そして現実世界も構成要素が桁違いに多いだけで、原理的にはCGと同じもののはずですから、逆にCGの世界もそんなふうにして、最初に単純なものを作ってそこから世界が自然に作られていくようにやれば複雑な仮想現実世界が勝手にできるんじゃないか、みたいな話。

P105

 土地の陥没とか隆起はおもしろいですね。人間の時間感覚では不動の代表みたいに見えるものが、長い時間で見るとけっこう動いてる。『日本沈没』は、その時間スケールをすごく縮めて何万年の間なら普通に起きているようなことを数年に縮めてそれで人間があたふたする話だと思います。まあそういうところから書いたのかかな。あと、相対性の話ですね。高い低い、というのはあくまでも比較するものがあるからで、生き物の進化とか知能というのもそういうものなのでは、とか。

P106

 これはですねえ、よくわからないんですが、たぶん小説のことですね。たぶん、こんな感じで書いてるんですよ。自分でやるのは、種を植えることだけ。いい種を見つけて、これでいこう、と決める。あとは待って、届けられものを与えていく。届けられる、というのは自分で書いてても不思議ですが、なんか必要なものは届けられる、という感じがします。というか、目の前に現れたものを使った方がうまくいく。映画とか本とかテレビとか、それにもちろん現実もあります。そして、自分の中に実る。たぶんその感じを書こうとしたんだと思います。

P107 

 うちの近所には昔のままのせせこましい路地がたくさん残っていて、私道とも公道ともつかないようなそんなところをよく歩くんですが、たぶん川だっただろうという痕跡はけっこうあります。私が子供の頃(昭和40年代ごろ)は、小さな川とかドブが町のあちこちにあって、それが急激に埋められり暗渠化していったのもその頃でした。だから、前は川だった道、というのは子供の頃からよく見ていて、それでなんとなくここはそれっぽい、というのはわかるんですね。ちょっとした段差とか、曲がり具合とか、家の正面じゃなくて背中が並んでる感じとか、そういうのを感じながら、そこにあった川を想像しながら歩くのは楽しい。そして、ここから飛躍して、人間がもういなくなったあとでちょっとだけ残ってる街の痕跡とかたどりながら歩いてたら、とか、そんな妄想に繋げました。

P108

 全部の地表がビルで覆われた世界、というのは、自分の中の未来のイメージの定番のひとつなんです。今みたいに少子化なんて言葉
は無くて、人口爆発の恐怖ばかり言われていたせいもあるかもしれません。まあ住みやすいかどうかはともかく、すべてがビル、というのはイメージとしてすごく魅力的です。そして、そうなると広大な屋上があるんじゃないか、と。そして、下層階級となると地下ですね。地下生活。地下生活者にとっての屋上。屋上と言えば、昔「傷だらけの天使」というテレビドラマがあって、たしかその主人公がビルの屋上に建てたプレハブ小屋みたいなところに住んでいて、それは子供心にすごく憧れだったんですが、考えたら夏は暑いし冬は寒いしで、住み良いところではないでしょうね。

P109

 「母が母を生む」というのは当たり前のことですが、「打ち出された」というところでイメージしているのは、兵器なんですね。そういう増殖していく兵器。生命を生み出す母が、死を作り出す兵器を生み続ける、みたいな連鎖を書こうとしたんでしょうね。それと、イザナギ・イザナミの黄泉の国への入口を岩でふさぐときのエピソード、あのやり取りも入ってるかもしれません。

P110

 実際にあったことそのまんま。天王寺動物園で、私がよく出してもらってる「超人予備校」という劇団がやってた「おはなしえん」というイベント。親子連れの前で芝居をやるのはなかなか楽しかったし、いろいろ鍛えられるところもあってかなりためになりました。そのイベントに私も狸の役で出たことあります。そしてこれは観客として行ってたときのことで、昔の芝居仲間とあって、というのもぜんぶそのまんま、ほんと、人間はへんてこな動物だなあとつくづく思ったのも。だからSFじゃないですね。でも、SFかSFじゃないか、なんて、そういうへんてこさに比べたら本当に些細なことで、だからこれはSFよりもずっとSFだ、とも言えるしそれでいいんじゃないでしょうか。


P111

 これがわからないんですよ。大抵は何か核になるようなちょっとしたアイデアなり軌道の捻りみたいなものがあって、そこから書くんですが、これはまったくないです。ただただ、こういう情景が浮かんで、それもかなりリアルに。星が霞んでる感じとか、いろんな大きさの炎が道の左右に見えてる感じとか、静止画じゃなくて動画ですね。こっちが道を走ってるから。それをそのまんま書き留めた。それだけ。まあそれだけでも書けるのがマイクロノベルのいいところ、というのは他のところでも書いてますね。

P112

 「裏」という概念はおもしろいですね。立体の中の平らな部分を二次元みたいに捉えたうえで、そこの三次元的は視点を持ち込んで、その反対側を裏側と呼んでる、みたいなちょっとお約束を超越的な視点で飛び越えるみたいな感覚があります。服の裏地とかレコードの裏面とか裏日本なんて言葉もありました。これは、裏通りですね。商店街のすぐ裏の通りに入ったときに、ここ、こんなふうになってるのか、と思ったのがきっかけで書いたんだったかな。いろんな裏を考えて、で、月の裏側ですね。いつも地球に決まった面しか向けてない、というのは子供の頃から不思議で、力学的にはそうなってもおかしくはない、と聞いてもやっぱり不思議です。私の子供の頃は、まだ月の裏側を見ることはできなくて(アポロ以前ですからね)、地球から見えないあの月の裏側にはUFOの基地がある、なんて話もありました。そして、こっちから見えない、ということは向こうからも見えない、ということですね。

P113

 夢の中ですごいことを発見することがありますよね。ないですか? 私はあります。最近はないんですが、昔はけっこうありました。うわあ、すごいぞこれは、と目が覚めて夢うつつの状態で興奮しているんですが、目が覚めてくるにつれて夢がばらけていくみたいに、その肝心の理屈の部分がなんのことやらわからなくて、おかしいなあ、さっきまではたしかに納得できていたはずなのに、とか。まあこれはそれを夢の中のままやった話。そういう夢もあります。夢の中のヘンテコな理屈というか変な辻褄みたいなものはなんとか小説にしたいとずっと思ってはいるんですけどね。最近はあんまり夢を見なくてちょっと寂しい。

P114

 まあこれはある便利な型というか、パターンに乗っかったやつですね。「AするよりもBするほうが簡単。」という連鎖で、少しずつエスカレートさせていく。いちばん最後に、ここまでのそういう積み重ねがぜんぶ無意味になってしまうような野暮なのを入れる、というのもパターンですね。

P115

 演劇もの、という演劇世界観みたいな話。いくつもそういう話が入ってます。劇団で芝居をやったりしてました。年に二回公演をしてた時期が十年くらいあって、劇団が休止状態になってからは、他所にちょっと出してもらったりするのが一年に一回くらいとか、そんな感じ。コロナ以降、なかなかやれてないんですけどね。もともと、台本を書くためにちょっと劇団の稽古を見に行って、そのまま入ってしまった、という感じでした。もともと大学の頃に落語研究会にいたので、舞台で何かをする、というのは馴染みがあったし、それに未練もあったんですね。落語家になりたかった頃もあったから。それに、やっぱり筒井康隆の影響、というか真似でしょうね。演劇と小説、それも台本を書くだけではなく、自分で演じる、というのがどうやら大事なことらしい、というのはずっとありました。自分なりにはそれを落語とのアナロジーで考えて参考にしてたりしてたし、実際、自分がお客さんの前で落語をやってみたこと、というのは小説を書く上でものすごく役に立っていることは自覚してました。だから、これはやるほうがいいだろう、と思ったんですね。そして、やっぱりかなり役には立ってると思います。いろんなものの見方とか考え方も。『カメリ』のヒトデナシたちにシナリオがある、という設定も、そんな感じで。で、これはほとんどそのまんまです。よくこんなことを考えます。まあうまくいかないことのほうが多いですからね。これは、稽古の途中で思いついて台本の隅にメモしたものだったと思う。稽古の最中って、けっこういろんなことを思いつきます。百文字だとすぐに書きとめておけるので便利。今度、芝居の中で百文字小説を朗読する機会があるので、舞台の上でこれも読んでみようかなと思ってるところ。ちょっとメタな感じになったらおもしろい。あ、そうそう、そういう演劇の構造、とかもおもしろいですね。自分がその虚構の中の登場人物であることを自覚しながら、それをやっている、というのはメタフィクションによくある設定で、文学的な実験というより、舞台に立ってる人間のけっこう普通の感覚をちょっとだけ推し進めたようなものなんじゃないか、とかそんなことも。

P116

 P115に続いての演劇もの、みたいな話、というか、これも芝居の稽古とかしているときに思いついたのかな。もちろん「黒の舟歌」のフレーズです。でも、それも比喩だから、つまり実際に川があるわけでなくて、虚構なら虚構の中で越えられるのでは、みたいな話。実際、舞台の場合は虚構と現実が、ここからここまでが舞台、という一本の線だけで区切られているし、それだってくらぐらです。役をやる、というのも、そう見えればいい、ということで、でも現実だってそういうものではないか、とか。そんなことをよく考えます。それと、いわゆる「不気味の谷」を重ねる、というのがまあアイデアといえばアイデアですが、そのフレーズを使ってみたかっただけかも。ヒトにように見える、というのがどういうことか、ヒトにそっくりで気味が悪い、というのはどういうことなのか。それはたぶん、演技ということとも深く関わってると思います。演技、というのは、それじゃないものがそれみたいに見える、ということですからね。だからと言って、医師の役を本物の医師にやらせればいい、ということでもない。本物であることとある条件下で本物らしく見えることとは別なんですね。それはあらゆる虚構に通じることで、そして現実にも通じるのでは、というようなあれこれ。このあいだも芝居の中でP115を朗読しました。そんなことをやってるから、というより、そんなことをやってもっとその境界線を自分の中でぐちゃぐちゃにしようとしているところはありま


P117

 夢の話。実際、こういう夢をよく見ていて、子供の頃の記憶と夢の記憶ってほとんど区別がつかないから、実際にこういうところに行ったことがある記憶みたいになってます。よっぽど蒲団が好きな子供だったんだろうなと思います。寝るよりも潜って遊ぶことが好きでしたね、たぶん。牧野修さんの『月世界小説』には、畳が延々続いてる世界みたいなのが出てきて、ああ、蒲団の国の蒲団を上げたところだ、とか思いました。家の中がどこまでも続いている、というのはけっこう定番の夢なのかもしれません。筒井康隆にもいくつかありますね。

P118

 これ、メフィラス星人なんです。ウルトラマンに出てきた宇宙人で、この名前もたぶんメフィストから来てるんでしょうね。地球をあげます、って子供に言わせようとする話。地球をあげます、って言ってくれたら君に地球を半分あげよう、みたいな話だったと思います。そういう寓話的なエピソードで、ウルトラマンにはけっこう他にもそんな話がありました。純然たるヒーローもの、という感じじゃなくて、寓話とかショートショート的なものがわりと多い。真珠を食べる怪獣、重いだけの怪獣、子供が土管に描いた絵から出てきた怪獣、怪獣の墓場から落ちてきた怪獣。そういう中に、怪獣になって地球に帰ってきた地球人、の話なんかもあって、それもやっぱり暗い寓話ですよね。このメフィラス星人の話もおもしろかった。自分だったらどうするか、というのをけっこうリアルに考えさせてくれるんですね。そういうのがあれを見た子供の中に種みたいに埋め込まれた、というのはまず間違いないと思います。『シン・ウルトラマン』でもメフィラス星人大活躍でしたね。

P119

 地獄もの。天国もいちおう出てくるけど、この場合は(というか私の場合は、地獄を存在させるためのカウンター、とか、地獄の反作用としての天国で、あくまでも地獄が主。というのは他のところでも書いてると思いますが、落語の『地獄八景』の影響ですね。とにかくもう、ものすごくおもしろいと思った。子供の頃にあんなもので出会うと、人間はこういうことになってしまうんですね。またサブタイトルの「亡者の戯れ」というのがかっこいい。かっこよくておもしろい。そりゃ子供は夢中になります。米朝師匠が悪い。そしてやっぱり物理的に存在させたい、というか、そういう異常論文的なへんてこな理屈をこねるところがSFのSFたるところでしょう。ということで、これもそう。SFでやる場合は、根本的なところを謎理論で作って、でもその応用なり運用は、実在の物理法則に忠実にして、そこだけは動かさないようにするためにまた別の理屈をつける、みたいなことをやるとハードSFっぽさが出せるんじゃないかと思います。えっ、そこだけは現実の法則にこだわるんだ、みたいな。質量保存則とかエネルギー保存則とか運動方程式とか、そのへんの基本的でシンプルで形がきれいな法則のところだけを崩さないように見せる。ハードSFというのはそういう遊びなんじゃないかと個人的には思ってます。だから天国と地獄が存在するのはかまわないけど、質量保存則には従ってもらわないと、という「そこにはこだわるんかーい」というツッコミ待ちのボケみたいな。あ、もちろん、ハードSFのスター(文字通り「星」ですね)である「軌道エレベーター」もイメージしてます。天国と地獄と言えば当然、というか、ベタですねけどね。


P120

 とくに欲しくもないオマケの話、かな。そんなに嬉しくもないけどべつに捨てることもないくらいのもの。そういうのがついてきたりする。そういうどうでもいいような因果の連鎖みたいなこと、のような気がします。たぶん「ついてくる」という言葉が、「添付されてる」とも「追尾されてる」ともとれる、というおもしろいさというか不気味さみたいなことで書いたんだと思います。ついてくるオマケ。関係ないけど、オマケとオバケは似てますね。

P121

 どうも記憶というのは怪しい。なんか、ありものをかなり使い回してるんじゃないか、という気がするんですね。似たようなシチュエーションとかだと、コピペして、ちょっとだけ違うところを付け加えてるんじゃないか、とか。だからあれは正確に記録するためのものじゃなくて、意識の連続性とかある程度維持するとか、なにかあったときにどうやったらいいのかすぐ参照できるように、とか、そういうことのためにあって、それも何か確固とした目的があってそうなってる、というよりは、いろんな作業のための資材置き場みたいなものとして、たまたまそういう状態になってるんじゃないか、とか。まあそんなことを考えます。なんというか、本来描いてる絵みたいなものがあって、(たぶん生存とかそういうこと)その作業のために使った痕跡みたいなもの、とか。だからまあ絵を描いてる途中のパレットですね。そういうものを作ろうとしているんじゃなくて、作業によってたまたまそうなってる。それと、実際にパレットを見て、それをそのまま作品にしてもいいんじゃないかと思うくらいきれいだったことが何度かあって、まあそういうことを口に出すと嫌われるかもしれないからなかなか言えませんが、それも混じってます。上手い人が作業をした後のまだ片付いてない作業場がなにかいい感じだったりする、というのはわりとあるあるだと思うんですが。

P122

 ベビー・ピーという劇団がやってくれた『人形劇・かめくん』の試演を観に行ったときに書いたやつ。京都の本屋さんの中のスペースで、お客さんはたぶん五人もいなかったんじゃないかな。小林泰三さんも観に来てくれて、おもしろがってくれました。あれをどうやって人形劇にするんだろうと思っていたんですが、なんと原作に忠実でした。人形劇といっても、役者が人形を持って芝居をしているみたいな感じで、ちょっと落語的な方法でもありました。あの小説の場合、かめくんという存在をどうやって違和感なく世界に置くか、というのがいちばんの問題点だと思うんですが、(実際、あれは小説、というか、文章でしか成立しない形で書いてます、わざと)人形劇、という枠に入れると、かめくんも他のキャラクターも全部人形だから、リアリティのレベルみたいなのがきれいに一致するんですね。そしていろんなもの(たとえば、ザリガニイ)が簡単な造りの人形なので、観ているほうはそれを自然に脳内で補完しながら観ることになる。けっこうハードな戦闘シーンが成立したりする。なんにもないからそういうことが可能になる。ちょっと落語っぽい手法ですね。それもうまくいってました。終わったあと飲みに行って、そんな話も小林さんとしたなあ。

画像3

 これは土手での、ばかがめー! のシーン。足もとの六角形が、たぶんかめくんの意識。それだけでも、どのくらい原作に忠実にやってくれてるかわかるでしょ。かめくんの認識している世界を描いてる。よくあんなことができたなあ、と思いますが、観た人はそんなにいない。そして、あとかたも無くなってしまうのが芝居のいいところでもある。


P123

 これは、あれですね、鳩避けというのは、糞害避けのために設置するぎざぎざのやつありますよね。あれをやたらつけてるビルを見ての妄想。都会に適応して身体を変化させてる動物とか昆虫とかけっこういます。彼らにとってはそれが自然環境でしょうから。で、あれがもっと極端になって地上に降りられなくなって、という極端な妄想です。オブジェとしてもあれはちょっとおもしろかったりしますね。


P124

 感想を聞いて、それがこっちが全然意図してないことでびっくりすることがあります。百文字だとなおさらですね。当然ながら言葉が足りないので、解釈のかなりの部分が読み手に委ねられてます。そうじゃないととてもそんな文字数で何かを書くことなんかできないし、まあ百文字に限らず言葉というのはそういうもんですよね。コンテクストの共有がないと何が書いてあるのかすらわからない。そしてその解釈の幅みたいなのがおもしろいところだったりする。そんななかで、これはけっこうびっくりしたやつ。これは怖い、って言われたんですね。書いたときは全く意図してませんでした。どちらかといえば、間抜けな話、というか、主人公だけがひとり留守番してて、妻と娘はいろんなところを旅行している。おいおい、いったいどこまでいってるんだよ、みたいなそんな気持ちで書いたやつ。実際、妻と娘が旅行に行ってて、その写真が旅先から送られてくるのを見ているときに書いたやつ。だからそういうホラーっぽい要素はまったく考えてなかったし、そんなふうにとれるというのも思ってなかった。でもそう言われて読んでみると、たしかに怖いですね。なんかこの妻と娘、もう死んでるんじゃないか、みたいな感じも漂ってる。それはそれでなかなかおもしろい。ほんと、まったくそんなこと思っていもなかったんですけどね。二つ目を「水の底」にしたせいもあるか。でも、これも本当に水の中で撮った写真が送られてきたんですよ。誰でも簡単に水中で写真を撮ってそれを電子で送れるなんて、なんと便利な世の中、というか未来だなあ。


P125

 私の書くものは、大抵本当にあったり感じたりしたことを変形させたり加工したりしていることが多いんですが、これもそう。モデルになっている場所とか物事があります。坂の上にある鏡、というのは、ダンススタジオで、もちろんダンススタジオだから鏡がある。タップを習ってました。踊れません。芝居の中でやったりすることがあって、それがきっかけで習うようんいなったのでしたが、やっぱり踊れないままです。タップシューズは持ってますけどね。最初は芝居の中でそんなことやらないといけないのは嫌だったんですが、あるときから、どうも一生懸命やってるのに出来ない下手というのは、観ててもおもしろい、ということに気がつきました。他のいろんなものを見ててもどうも、そうなんですね。それ本来の目的ではないんですが、でもたしかにおもしろいんです。これ、一生懸命にやってる、ということが大事で、なんかわざと下手っぽくやったりとかそういうのはすぐに見透かされてしまうみたいです。とにかく本人は一生懸命やっているのに下手、というのが必要らしい。で、芝居に限らず表現というのは、どうやったらおもしろくなるか、というところにすごく苦労するわけで、だいたい一生懸命やればいいというものではない、ですよね。ところが、もちろん演出次第なんですが、とにかく一生懸命やればおもしろくなる、というものがあるわけです。こんなおいしいものはない。それなら習った方がいいな、と思って習い始めて、ずっとできないままやってる。小説というのも、私にとってはそういうところがあるように思います。いや、たんにできない奴が自分を慰めてるだけかもしれませんが。まあだいたいそうところから書いたのがこれ。

P126

 P125の続きですね。同じ場所です。稽古場として使ったことがあって、電気をつけるまでが真っ暗で手探りで壁を探ってて、まあそのときのことを書いたんだったか。暗いと広さがほんとわからなくなりますよね。このあいだも朗読してから蝋燭を吹き消して暗転にする、というのがあったんですけど、足もとにいちど置いた本を手に持ってから蝋燭を吹き消すはずが、うっかりそのまま吹き消してしまって、暗闇の中で本が見つからずにおたおたしました。絶対手の届く範囲に置いてるはずなのに、全然わからない。最終的には、もうええわっ、と途中で諦めて暗闇の中を退場しました。なぜ見つからなかったのかなあ。

P127

 これはもうそのまんまですね。子供の頃から、夜店というものが好きでした。非日常のきらきらしたもので夜、というそれは、SFとかホラーの要素で、私の中では同じ箱に入っているんだろうと思います。ブラッドベリとか読むと、そういう夜店感みたいなものをすごく感じます。うちの近所には地蔵盆が盛んで、路地ごとに夜店みたいになってたりします(ここ数年はコロナでなくなったりしてますが)。これはそのときのことですね。谷町筋の方に上がっていく坂のあちこちに夜店が出てて、子供の頃の自分が見たら大喜びだろうなと思います。現実がまだぐらぐらしている頃の子供の中では、月がテントに刺さるくらいのことは普通に起きるはず。



P128

 ちょっとした小噺とかコントみたいな感じで書いたやつ。たまにそういうことをやりたくなって、これは実際にそういう占い師と通りがかった男の二人芝居を観て、それで書いたんだったと思います。街角の占い師、というのは、わかりやすくてどうにでも転がせそうで、そもそも占いというのが虚実の狭間みたいなものだから、ものすごく便利なシチュエーションですよね。実際にそんなの見たことがなくても、いろんなフィクションで知っているから、ある程度のイメージの共有があって、説明が要らない。だから、枚数が少ないショートショートとか短編にも便利です。もちろんマイクロノベルにも。よく言われますが、占いというのはカウンセリングの一種で、つまり言いたことを言ってもらいたくて占ってもらう。お客のそれを読み取るのがうまいのがいい占い師で、つまり励まして欲しいのか、叱って欲しいのか、同情して欲しいのか、を見抜いてそれを言ってあげたらお客は喜んで、そして、当たってると感じる。たしかにそういう気はするし、それはそれで効果もあるだろうと思います。まあそんな話。

 どこがSFやねん、という意見もあるかもしれませんが、いやいや、設定として、この占い師というのが本当に幸運な人にしか出会えないということにして、「幸運」だとファンタジーっぽくなるから、ここは「確率」、ということにして、確率を操作できる能力、あるいはその技術、という話にこじつけて、熱力学とか量子論とか引っ張ってきてそれらしく理屈をつければハードSFにだってなります。ジャンル分けなんてそんなもんですよ、たぶん。

P129

 最初のところは、実際にあった話ですね。SF映画総解説みたいなレビューを書くためにもういちど見直そうとしてたのかな。SFマガジンでそんな特集があって。ちなみにそのとき私が担当したのは、『鉄男2』『マウス・オブ・マッドネス』『パンプキンヘッド』でした。それにしても、もうVHSなんか見たことのない世代がいるんですね。ビデオすらなかった時代を知ってる私からすると、もうはるかな未来ですね、現代は。画面もブラウン管の小さなやつで、ちょっと暗いシーンなんかだと、何が映ってるのかわからなかったりしました。それで映画を観る、というより確認作業と所有欲を満たすため、みたいな感じでした。さすがに画質が悪すぎて、映画館で観ないと観たことにはならないんじゃないかなあ、と思ってました。しかもVHSって磁気テープだからすごく劣化する。もう半分くらい砂嵐だったりして、それでも目を細めて観たりしてました。脳内で補完して見るんです。冗談みたいだけど、ほんとにそんなだったんですよ。失われた映画を再生するために、そういう能力があるかもしれない当時の人間を再生する。まあそんなことしても、そいつしか楽しめないんじゃないか、とは思いますが。

P130

  演劇もの、芝居もの、がけっこうある、というのはもう何度も書いてますが、じつはこれもそう。そんなふうには見えないと思いますが。本番ではなく、稽古でもない、劇場入りしてから幕が開くまでの準備期間。と言っても、そのこと自体を書いたわけでもそういう作業にまつわることを書いたわけでもなく、そういう作業をしている最中に思いついてメモしたものをあとでこういう形にした、というだけですが。

 芝居の公演で劇場に入って本番までの間には、いろいろやることがあります。何よりも、舞台を作らないといけない。「仕込み」と呼ばれる作業です。照明のライトなんかもそのプランに従って、照明さんが天井にライトを吊るしていくわけです。小劇場なんかだと、役者もみんなそれを手伝う。それで、たまたまそのときに見回すとそこにいる全員が脚立の上に乗ってたんですね。もしも今、こういうことが起きたとしたら、ここにいる者は誰も気づかなくて、でもじつは世界が一変してしまっている。そういうのはなかなかおもしろいんではないか、と思って、脚立の上でメモして、家に帰ってから書きました。舞台の仕込みとかバラシ(これは公演が終わった後、舞台をもとのなんにもない状態に戻して劇場に返すために作業です。)をやってるときは、指示されて動いているだけで、でも普段はやらない動きとか身体の使い方をするせいか、変なことが頭に浮かんだりします。それに、やっぱりなんにもない状態から世界がそこに出来て、そして何日かしてまたなんにもなくなってしまう、というのを実際にこういう形で体験することは、書くものにかなり影響しているんじゃないかと思うし、実際にそんなときの感覚を題材にしたものをかなり多く書いてます。


P131

 今だと「エピソード4」になるのか。あの最初の『スターウォーズ』を観たのは高校生の頃で、まあ年寄りの言い方をすると、今の人にはわからないでしょうが、とにかくあんな映像表現は見たことがなかった。何もかもがすごくて、あそこにあるものは全部古臭いスペースオペラとかでお馴染みのものばかりなのに、でも実際にそんなものを動く映像として見たことがなかった。それが実際に現れたという衝撃で、とにかくもう「映画」じゃなかったです。なんか新しい体験みたいなものでした。何度も映画館に行った。あの映画の冒頭、視点で言うと観客の頭の上を前方に向かってでかい宇宙戦艦が通過して行くところがありますよね。あれがもうすごかったんですよね。ああいうアングルでの映像は、これまでにもあったんですが、だいたいその頃の感覚では、ああ、でかい、でかい、はい、でかかったなあ、くらいのところから、まだまだ終わらずそのあとも続いている、というこっちの日常(日常じゃないですが、日常に見ている映像)の感覚を裏切ってくる間合いみたいなものが絶妙で、それが快楽で、そういう快楽がある、ということ自体が衝撃だったわけです。それはもうほんと、今はもうわからないのが当たり前で、だからあの頃、あの年齢で、あの映画を観たのはすごく幸せなことだったと思います。あ、関係ないことを長々と書いてしまいました。いや、関係あるけど。まあそういうことです、頭の上をゆっくり通過してく巨大なもの。いつもは高速で通過してしまうからよく見えないけど、今回はよく見える、ああでかいなあ、でかいなあ、でかいでかいでかいでかいでかい、まだかいっ、始めのとこ忘れてしもたがなっ、みたいな感じ。人の顔ですら憶えるの苦手なのに、というのは関係あるのかないのかわかりませんが。

P132

 これもまあ舞台もの、演劇もの、ですね。こうやって改めて読むとそういうのが多い。やっぱりそれは自分の世界とか現実の捉え方に大きく関わってるからなんでしょうね。頭で考えただけじゃなくて、自分の肉体で実際に経験しているから、というのもあると思う。結局、現実と虚構とを区別しているのはたぶんそこで、そうなるとたとえば演劇空間と現実とを区別するのは、その限定された時間と空間内で全員が共有している世界かどうか、ということでしかなくて、そしてそれは現実も同じですよね。意識してなくても、実際にはかなり限定された世界でしかない。そして、舞台上では自分にこれが現実だと半分くらいは思い込ませないといけない。半分だけですけどね。それでも、それは自分の中から反応を引き出すために自分で自分を錯覚させる、みたいなことは必要だと思います。死んでるのに気がついてなくて、じつは死んでた、というのはお話のひとつのパターンになってるくらいですが、その逆で、死んだけど生きてることにする、とかも限定された世界でなら大丈夫なんじゃないか、ということは現実でもいけるんじゃないか。まあそんな妄想ですね。

P133

 まあべつにぼかして言う必要もなく『エイリアン』ですね。とにかく細部まで神経がいきとどいた最高のSF映画でした。高校二年の夏でした。三宮の阪急会館。感激して二回続けて観ました。入れ替え制じゃないので、そういうことができたんですね。宇宙船がかっこいい、宇宙服がかっこいい、小道具がかっこいい、ディスプレイがかっこいい、そして役者とその演技を活かす演出がいい。着ている服だけ見ても、会社から支給されてるだろう制服とかツナギとかアロハみたいなのとか、みんなばらばらで、でもそこに現場の統一感みたいなのがあって、それぞれの性格も出てたり。とにかくみんなそこで生活していて仕事をしている。その感じがすごくいい。ここに、猫が出てくるんですね。宇宙船の中で猫を飼っている。もしかしたら規則違反かもしれないけど、まあたぶん勝手に飼ってる。じつは昔働いていた工場の倉庫でも、迷い込んできた猫を皆で世話していた時期があった、その感じはすごくよくわかる。巨大宇宙船、というか、工場とか倉庫みたいな感じなんですね。

 というわけで、それをネタにしたこれは猫ものでもある、というか、猫ものです。他の同僚が次々に殺されていってもうどうしようもなくなって、生き残った者だけで宇宙船を捨てて脱出艇で逃げようとするわけですが、脱出しようとしたところで、主人公が猫を助けに戻るんですね。同僚を助けに戻るんじゃなくて猫、というのが妙にリアリティというか説得力がある。同僚たちとの人間関係のぎすぎす具合とかさんざん描かれたところでそれ、というのがなんとも。でも、わかるでしょ。ああ、わかるわかる、という人は要注意です。

P134

 「神は細部に宿る」という言葉がありますね。あれはほんとにその通りだと思うんですが、でもまあ同時にこういうこともあるわけで、もちろんそれも細部を積み重ねていった結果なんですが、じゃ細部と細部じゃないものを分けることは果たしてできるとか、とかまああれこれ考えるわけです。フラクタルとかそんなことも。で、細部に宿る神様がいるのなら、そういうもっと大きなところに宿る神様もあるんじゃないか、ということで。

P135

 物干しが出てくる話が多いのは、洗濯物を干しているときによくぼんやりそんなことを考えるからだと思います。そして、亀がいる。アパートで一人暮らししていた頃は部屋の中で飼ってたんですが、結婚して物干しのあるところに住むようになってからは、そこが亀の生活圏になってます。まあ甲羅も干し放題だし、冬眠もしやすそうだし。室内だと中途半端に暖かいんですね。で、これはこのまんま。亀を飼っている人は知ってることだと思うんですが、亀は人に寄ってきます。なぜだかよくわかりませんが、やたらくっついてくる。池とかにいる亀を見ていても、亀同士で密着してたり甲羅の上に乗り合ってたりするから、そういう習性があるのかも。亀からはでかい亀に見えているのかもしれません。用事もないのに、足の上に乗ってきたりします。いったいこいつには世界はどう見えているのか。亀を見たり洗濯物を干したり空を見たりしながら思います。


P136

 いろんな情報やエネルギーの流れがあって、物は移り変わっていくけど、バトンのパスが続いてるみたいな流れはいつもそこにあって、という、ようするに「ゆく川のながれは絶えずして」というあれですが、書くきっかけになったのは、テオ・ヤンセンの風力で動く自動機械の動画を見て、だったと思います。CMなんかにも使われてましたね。脚がたくさんあるやつが、海岸を歩いているやつ。実験場みたいな屋内じゃなくて、海岸というのがいいですよね。波が打ち寄せてて風が吹いてて雲が動いて砂が動いて小石が転がって、そういうところを細い脚を波打つみたいに動かして不思議な音を立てて移動していく動画。それを言葉に翻訳したら、まあこんな感じになりました。

https://www.mbs.jp/theojansen-osaka/

P137

 小噺ですね。小噺としてはけっこういいんじゃないかと思います。だからべつに解説は必要ないと思います。いろんな慰めかたがあるけど、ちゃんと注意して慰めてくれんとかえって応えるがな、みたいな感じ。あと、そっちを慰めてるつもりか知らんけど、こっちに応えとるがな、というのもあるかな。まあどっあら、寺田町ちもあるあるですね。

P138

 こういう坂があるんですよ。近所にある坂で寺田町の駅から四天王寺のほうに登っていく坂。しょっちゅう自転車で通るんですが、通るたびに、あれ? と思う。記憶の中では、歌川広重の箱根の絵みたいなあのくらいの感じなんですが、実際にそこに立つとそうでもない。記憶の中で変形しているんですね。考えてみると他にもそういうところはあって、はっきり自覚するようになったのはあの坂がきっかけ。子供の頃からあの箱根の絵が好きなんですが、もしかしたらあの絵もそういう記憶の中の風景かも、とか思います。現実の箱根ってあんなに急じゃないように思うんですが、そこらはよくわかりません。デフォルメと言うより、頭の中のイメージとしての箱根なのでは、とか。あ、関係ない話ですが、今は安藤広重って言わないんですね。お茶漬け海苔の東海道五十三次のカードを集めてた小学生の頃は、安藤広重だったんですけどねえ。まあこれは記憶の変形とかではないようですが。

P139

 そしてこれも記憶の話。記憶についての話は多いです。いちばん興味のあるもののひとつなんでしょうね。そして、記憶で思うのは『ソラリス』で、そしてこの『ソラリス』もよくネタに使っています。自分にとってのイメージの原型のひとつなんだろうと思います。ソラリスは、生きている海、知性のある海、思考する海、みたいな面でよく言われますが、私にとってはあれは知性と言うよりこっちの無意識とか記憶を具現化するもので、それでその連想でこれが出てきたんだろうと思います。あと、記憶は地層に喩えられることも多いですね。埋まってたり掘り起こしたり。それがソラリスの海みたいな流体で、対流によって底のものが表面に浮き上がってきたり、とか。ここではそれをコントロールしようとしてるんですが、まあそううまくはいかないでしょうね。


P140

 『三体』が売れてるらしいので、三体問題でひとつ、くらいの感じで書いたやつかな。だから一種の時事ネタでもある。SF業界時事ネタ。三体問題というのは、ものすごく簡単に言うと二体までならその運動は方程式で予想できるけど、三体以上が相互作用するともう予想できない、というやつで、初めて知ったときは、「そんな近いところに限界があるのか」というショックを受けました。3というのは、数字としてはなかなかおもしろいですね。2から対立することができて、3で多数決ができる。なんだか不思議です。音楽でも、三拍子はちょっとおもしろい。数字では割り切れないのに、感覚的には普通に三つに割ってたり。ジャズなんかの、4の中に3が入ってたり、3をひとつにして4を作ってたり、という入れ子構造みたいなリズムの作り方とかも。複雑だけど同時に単純でもあるというのも3の効果ですね。小松左京の小説で、3台のコンピュータに多数決させる、というシステムがありましたが、エヴァのあれは、それを元ネタにしてたりするのかな。まあ何が元、なんてことはどうでもいいことだし、小松左京がオリジナルというわけでもないでしょうけど、まあ世代的にね。ということで、問題解決からの連想もあって「三人寄れば」と頭のところで合成して、ありがちな解決策と妥協案を。

P141

 実際に近所に細くて曲がってる水路があって、ああこういうのは好みだなあ、とか思ったのでした。そして、分岐している水路というのはちょっと生き物を連想させる。血管とか神経細胞とか。それと、水からの『ソラリス』の連想もあるかもしれません。でまあ、そういうソラリス的なことが起きたわけですね。ああ、好みを知られているんだなあ、とつくづく思うようなことが。そういえば(かどうかわかりませんが)、「金の斧銀の斧」の泉の女神をソラリス的なものとして再解釈する、というのはおもしろいかも。形だけをコピーした材質の違うものを出してきたりするところとか。

P142

 わりとこういう書き方をしているんだろうと思います。この【ほぼ百字小説】に限らず。旅行と行くとヘンテコな風景に出会えるからいいですね。ほんとにそのために行ってるような気がします。まあ出不精の私の場合、妻の後ろにくっついて行ってるだけだったりしますが。ちょっと変わった風景があったりすると、その由来とかよりも、自分で勝手に妄想して、そういうものとして自分でその中に入って歩きまわったり見物したり巻き込まれたり。それをそのまんま小説として書いている、という感じ。だから、そういう風景を仕入れに行くところを妄想して、で、その並んでいる小さな風景の中に入るためには、自分を小さくしないといけない、そうなると、というのをサゲにしました。

P143

 まあ解説するまでもないと思いますが、レコードですね。塩化ビニール製のレコード。私はレコード世代で、二十歳過ぎくらいの頃にこれがCDに変わってしまう、というのを体験しました。今でこそ、またアナログ盤という言い方でかえって人気があったりもしますが、当時は、もうぜんぶ入れ替わってしまうんだなあ、メーカーの都合で否応なくそうなるのか、というのがけっこうなショックで、それで書いたのが『クラゲの海に浮かぶ舟』。まあそれはそれとして、当時は再生を繰り返しても劣化しない記憶媒体というのは、なかなかの驚きでした。今の感覚からすると、再生する度に傷がつく、というはなんだかすごい。ということで、それを「傷つく」という言い回しに引っかけた、まあ小噺的なまとめかたですね。

P144

 モデルになってる土地はあって、別府の鉄輪(かんなわ)です。地獄めぐりとかあるところ。道路標識に「地獄方面」があったり、バス停の名前が「地獄原」だったりして、ゲゲゲの鬼太郎感満点で楽しい。そして、町中から蒸気が吹き上がってて、スチームパンクな謎の巨大ボイラーとかが道端にあったりする。「見晴らし坂」(だったと思う)という坂があって、その上から見下ろすと蒸気が立ち上ってるのが見えて、その蒸気が町をすっぽり覆ってるそこに夕陽が射してそこに山の影が映ってたり。人間の影が映ってブロッケンの怪物みたいになったりもして、たしかそれを見て書いたやつ。大阪からはフェリーのサンフラワーで行ける。夜、港を出て夜中に瀬戸大橋をくぐって早朝に温泉に着くのはなかなかいいです。

 ここに入ってる「船と猫と宿と星」は、そのへんのことを書いた話。

https://p-and-w.sakura.ne.jp/?p=482


P145

 まあ無人化・自動化というのはSFには定番の光景ですが、現実もかなり追いついて来てますね。私の世代で言うと、自動改札はけっこうびっくりしました。駅員と言えばあのパチパチパチ、と切符を切るあれだったんですが、自動改札が当たり前になるとは。で、電車で言えば運転ももう無人になってるものはあるし、全部が無人になっても驚かないですね。技術的というより金銭的な問題でしょうね。そうなると、乗客のほうもロボットのほうが多くなってそのうち無人化して、まあそうなったら、何かで人間がいなくなってしまっても、という話。とりあえず社会は維持されるから、不幸中の幸い、ですね。




P146

 あるあるですね。何を見てこれを書いたのか思い出せないくらいあるあるです。そして「あるある」というのは半ば自動化されたプロセスで、すぐにプラスのフィードバックが起きて増幅されていくことなる、というのは一種の自動機械に喩えて書いた、と書くとどうにも安っぽいですが、まあそもそも現実が安っぽいのでそうなるのは仕方ないですね、って誰に言い訳してるんだか。夜道では美談自動生成装置に気をつけて。どうしても死者が見つからないときは、死者を製造する機能があります。

P147

 臨死体験です。臨死体験というのはなかなかおもしろい。たぶんそういう状態になったときに脳の中に出てくる化学物質とこれまで聞かされてきたそういうイメージによって見るリアルな夢みたいなものだと思うのですが、なにしろ死んだ人には聞けませんから、誰でも必ずそういう体験ができるとは限りません。お花畑とか三途の川とか、見てみたいもんですけどけどね。で、いろいろそのへんのメカニズムが解明されて、それを確実なものにするためには、自分の臨死体験をあらかじめ自分で作らないといけない。そしてそれがけっこう手間。さあどうしましょう? という話で、あんまり大変だとめんどくさいからやらないような気もする。もし、ありものが安く買えるようになってたら、それでいいかなあ。


P148

 これもじつは(というほどのこともないか)演劇もの。北村想の『寿歌』の稽古に行ってるときに書いたやつです。自転車で台地を越える、というのは、この『100文字SF』のもとになっているツイッターの【ほぼ百字小説】でもよく出てくるフレーズで、それは実際によくそうしているから。私が住んでいるのは、大阪の寺田町というところで環状線の天王寺のひとつてまえの駅です。そしてこのとき稽古していた劇場があるのは心斎橋で、ここまでいくの上町台地を越えるんですね。まあ大した坂ではないですが、上って下る。この上町台地は昔は岬で、そして難波とか心斎橋のあたりは海でした。川が運んだ砂が堆積してあのあたりの土地ができたらしい。昔から栄えてた土地ですから、いろんな時代の古地図が残ってて、海だった頃から落語によく出てくる町並みの頃のまであって、その名残りも残ってたりするので、あのあたりを自転車で走ってるとよくそんなことを考えます。それに加えて『寿歌』というのは核戦争後の砂漠化した世界を旅する旅芸人の話なので、そこに未来の砂漠が重なって、とそのまんまですね。

P149

 「車輪の再発明」という言葉があって、いろいろ紆余曲折試行錯誤の末にたどり着いたのがもうすでにある技術、みたいな技術あるあるですが、それを車輪のあるものにやらせたら、というシンプルなアイデアストーリーですね。車輪生物、というのは石原藤夫の「ハイウェイ惑星」に出てきますが、ここは単純に自動車から進化した生き物、ということで。ここで「自動車」と「自動運転」とで、「自動」の意味が違う、というおもしろいさを入れて、車輪から出発して車輪を無くした生き物が、車輪を発見する、という話にしてます。いちど陸に上がってまた海に戻った鯨みたいな例もあるし。あ、この場合はかつて自分の身体に器官としてついてたものですから、発明ではなく発見、ということで。小噺としてもなかなかいいと思う。

P150

 これはたぶん演劇あるある、というか台本あるある。実際こんな感じで、このことに気づいたのは大学の頃に落研で落語を覚えるのにこれがいちばんよかった。歩きながらうろ覚えでネタを繰って、つまると立ち止まって紙に書いてあるのを見て、の繰り返し。落語はそれ自体がひとり喋りの長台詞みたいなものなので演劇をやるようになってからも台詞覚えではあんまり苦労はしなかった。「それじゃまるで落語」というダメ出しはよくもらいましたが。そういうのと、あと情報を負のエントロピーと考えるとその収支は、みたいなのを最後に入れてます。これに関しては堀晃の傑作短編『悪魔の方程式』があって、これをSFマガジンで読んだのがたしか落研だった頃。

P151

 ここに収録されているのは、ツイッターでやってる【ほぼ百字小説】から選んだものですが、これはその【ほぼ百字小説】のひとつとして【ほぼ百字小説】のことを書いたもの。【ほぼ百字小説】ネタですね。実際、句読点の数え方とかいろいろ考えると「百字」という定義が難しい。そもそも百字ぴったりであることに小説としての意味はないし。でもそういうルールで縛るほうがやってておもしろいし、一文字単位で文章をあれこれいじることになるから、それはそれでおもしろいか、ということで。いちおう「百枡」にぴったり収まる、ということで書いてます。だから百個の細胞で出来ている生き物、みたいな感じで、そういう意味のない変なルールに縛られているところも生き物っぽい。で、そいつに百枡で喋らせる、という、メタ的というか、そういう趣向ですね。

P152

 これは何なのか言ってしまえば、演劇の公演の打ち上げなんです。公演が終わって、しばらくしてから清算もかねて集まったりするんですね。ちょっと前までは毎日のように顔を合わせて、同じ嘘の世界をずっと支えてた面々で、それがまたみんな集まってるのに、もう今はそうじゃない、というその感じがすごく不思議で、それを書いたもの。だからまあSFじゃないんですが、やっぱり芝居における、ひとつの世界がそのたびに出来上がったり、跡形もなく消えてしまったりする感覚というのは、かなりSFに近いと思うんですよ。メタフィクション的でもあるしね。

P153

 前半はあるあるですね。試験の夢。あるあるとしてもよく聞くし、実際私もたまに見ます。今も見ますね。新しいこと、というのは、まあ長編を書き始めたりそんなことですね、私の場合は。そして試験を受けられなくて卒業できない夢を見ます。卒業して何かに成れてるかどうか、自信がないんでしょうね。まあそれだけだと、単なるあるあるなので(単なるあるあるもけっこうありますが)、ここでいつもの定番の手を使いました。そうそう、誰がそれを語っていたらおもしろいか、です。ということで、試験を受けたけど受かった自信が無くてずっと試験の夢を見ている人がいて、さてそれはいったい何の試験か? ということで、こうなりました。

P154

 敷かれたレール、というお決まりのフレーズ。そこで競走することに全力を注いでがむしゃらにやってきて、それでようやく余裕ができて周りを見るとじつはそのレールが、という落ちというか、まあ小噺ですね。大阪環状線の沿線に住んでいる、というのはあるかもしれません。

P155

 季節ものですね。梅雨時に、実際にこんなことを思った。紫陽花の種類も増えたようにおもいます。いろんな色の紫陽花がいろんな家の前とかでわさわさしてて、それ自体がちょっと侵略物っぽかった。ということで、侵略物との合成。紫陽花といえばカタツムリで、そして梅雨といえばナメクジ。侵略でナメクジと言えば、もちろんハインラインのあれで、だからカタツムリ型異星人とナメクジ型異星人が地球を舞台に陣地の取り合いをしている、みたいなところに持って行きました。彼らは、地球人なんか環境の一部としてしか見てないでしょうし。そして、これもやっぱりメインのアイデアを支えている構造は、「それを誰が語っているか」ですね。

P156

  ナメクジ、カタツムリに続いての茸ですね。じめっとした時期に書いたんだろうと思います。茸と言えばマタンゴで、たしかそういう話も同じ梅雨時に書いたと思いますが、これはそっちじゃなくい。そっち、というのは、特撮ですね。変形か巨大化。ということで、怪獣の方向。まあ怪獣じゃないですが。いや、ウルトラQのマンモスフラワー、というのもあるから、これも怪獣か。そして、それが日常化することによって、世界が変って、そこで使われていた言葉の意味が変わる、というサゲ。大きな傘に入って、雨の降らない世界になったんですね。ということで、やっぱり梅雨時に書いたからでしょうね。

P157

 演劇もの。同じシーン、同じ台詞を何度も繰り返す、というのは本番でもそうですが、これは稽古ですね。その最中に思って書いたこと。何度も何度も繰り返して作っていきます。最初のうちは、演じるほうもあんまりそのキャラクターがわかってなかったりする。でもそれを繰り返しているうちにあるときわかる、というか、自分の中に立ち上がるのかもしれません。それで、脚本家や演出家よりもそれを演じている役者がそのキャラクターを理解する、というようなことはあって、そういうところが集団で何かを作るおもしろさだと思う。映画『ブレードランナー』の最後の屋上のシーンのあの印象的な台詞はルトガー・ハウアーのアドリブ、として有名ですが、まあ実際にはいきなり現場でやったわけじゃなくて、ルトガー・ハウワーが前もって考えてきた台詞を監督に提案して採用されたらしい。台本にあった台詞が長すぎるからそれをすこし削って、それを補強するために「雨の中の涙」というあのフレーズを付け加えた。あれがあるとないとでは、あのキャラクターのあのシーンでの行動の見え方がかなり違ってくると思います。台本ではこうなってるけど、彼ならこういう言い方をするはずだ、みたいな感じでしょうね。役者がキャラクターを理解するいい例だと思います。そして、誰もが演じているいちばん身近なキャラクターは、というのがサゲ。

P158

 この『100文字SF』は、ツイッターでやっている【ほぼ百字小説】が初出で、そっちはツイートした順にナンバーが振ってあって、そこから選んで並べ直したのがものですが、まあそういうことをされる側からそれを書いたもの。表紙にもある通り、ここではそういうひとつひとつの100文字が一種の生き物、あるいは生き物のように振る舞う、という設定になってます。
 【ほぼ百字小説】は、専用アカウントになって今も(2022年9月1日現在)継続中です。
https://twitter.com/kitanoyu100



P159

 粘土状生物かな? SFには、巨大アメーバーとか定番なので、そういうのもアリでしょう。粘土の塊から分離して自律する。母なる粘土、というか、ソラリスの海から分離した海水みたいなものかも。そう言えば、ソラリスって、あれ分離しても生きてるのかな。それなら地球に持って帰ることもできそうですが、海が抵抗するかな。まあそれはともかくそういう独立して生きてる粘土もいて、それに疲れるか飽きるかそんなことで、また母なる粘土に戻っていく、とかそんなイメージ。で、あるとき、身体を焼くことでしっかり固まった形が手に入る、ということに気がつくわけです。そいつにとっては、不定形であることは、ネガティブなことだったんでしょうね。若いときは無理して形を保てるけど、疲れてくるとぐんにゃりしてしまう。そんな心配から解放される方法が発見される。というこれは、焼き物の工房を見学してて思いついたんだったと思います。で、失敗作が割られて山になってるんですね。粘土のときはもとに戻っていくだけだったのに、固まるともう戻れない。割れたら終わり、ということで、彼らは初めて「死」というものを知る。とか、そんなことを考えて書いたんだと思う。死の発見、というのはなかなかいいんじゃないか。

P160

  長嶋有さんがやってるタイマン句会というネット句会があって、その名のとおり、これは一対一で勝負して投票で勝ち負けを決めて勝ち上がっていくというやつで、このときは参加者がワールドカップのサッカーのチームを自分の名前にして戦うという趣向でした。で、ありましたよね、試合の結果を予想する蛸。ニュースで流れたりしてました。ああいうのがやれませんか、となって、それじゃうちの亀にやらせてみましょう、になりました。で、作ったのが亀による未来予測システムです。もともと亀は、亀甲占いなんてものがあるくらいだから、未来予測に向いているはずだし。まあこの小説と違って、実際にはあんまり当たりませんでしたが。でも当たってたらこんなことになってたわけだから、亀にとっては幸いでしょうね。うちの亀(じゃっぽん)は、その大会のMVPと副賞の高級煮干しをいただきました。

*「ダウンロード」をタップして「ファイルを開く」で再生されます。


P161

 怪獣もの。怪獣が毎週襲ってくる世界の話。でもじつは猛暑もの。ということで、これも記録的な猛暑の中で書いてますが、これだけ暑いともうなんでも猛暑のせいにしたくなりますね。そういう気分で書いたんだと思う。怪獣が都会にやってくる理由はなかなか新しいんじゃないかと思います。


 

P162

 これは舞台もの、というか、実際にこういう空間のあるギャラリーがあって、そこから外を除いたときに、あ、この感じ、と思って、帰ってきてから書いたんだったと思います。芝居の本番のとき、袖幕のところで出番のきっかけを待ってる感覚、というのはちょっと特別で、考えたら、その境界を一歩踏み越えたら虚構の世界に入っていくわけで、そういうのってなかなかSFなんじゃないかと思います。メタフィクション的でもありますね。自分が虚構の中に入り込んでることは自分ではわかってるんだけど、虚構の方のシナリオに合わせて動かないといけない。あ、これからどうなるのか知ってることを何度も何度も繰り返すところはループものかも。毎回変わっていかないからループじゃない、という意見もあるかもしれませんが、いやいや、舞台って毎回違うんですよ。

P163

 あの中華料理店の回転するテーブルはおもしろいですよね。まあ実際便利なんですけど、それよりも食事の場にああいうギミックというか、アトラクション性というか、そういうものが入り込んでくるところがおもしろい。子供は絶対に必要ないのに回しますね。回転寿司の発想はあそこから来たのかなあ、とか。食べ物と円運動のとりあわせもいい。ループとか循環ですからね。食べて排泄して、というのもそうだし、そして食物連鎖という大きなループもそう。そして自分で自分の尾をくわえてる、というのも。酔っ払って乱暴に回すと大変なことになるので気を付けましょう(体験談)。

P164

 たしか迷走台風の進路を見ていてこんなことを思った。よく見ている進路予想図とぜんぜん違う逆方向に進む台風があって、なんだかそのあたりの時間の流れが逆行しているみたいに見えたんですね。まあ決定論的な時間の概念と言うか、たとえば粒子が一つだけしかない場合、その運動を逆転させるのと時間が逆行した場合の区別はつかないわけで、もしそんな空間があれば。あと、時間と意識の関係。まあ時間の流れ(そんなものがあるとすれば、ですが)の中にいるかぎり、その流れがどう変わろうとそんな変化を意識できるはずがなくて、とかまあそういう考えても仕方のないようなこと。

P165

 外部からエネルギーを得て、それを消費することである安定した状態を得ているもの。そしてエネルギーの供給がなくなるとその状態もなくなる。そういう点で、回転しているコマと生き物は似ているし、なんらかの方法で回転を続けるエネルギーを得て回転し続けているコマは、その環境も含めて生命と言えるのでは。生命というのは、物質の流れの中に生じた比較的安定した渦みたいなものなのかも。とか、そんなふうなこと。


P166

 PCが壊れたとき、あるある、かな。いつか壊れるときはきますからね。今なら丸ごとバックアップをとるなんてのも簡単なんですが、フロッピーの頃なんか、データを救出するのはけっこう大変でした。で、結局取り出せず廃棄、して、新しいので一から、ということになったりして。まあそんな感じの話ですね。「誰でもよかった」という言葉が、テンプレ化する、というのは、なかなか皮肉なもんだと思います。

P167

  これは実際にあった話。そしてこれも一種の演劇ものですね。過去の自分、今の自分とはちょっとだけ違う自分、を演じているみたいな感覚。だから時間ものというふうにとれなくもない。無理やりSFにしようとすれば、ですが。普通に考えてSFではないですが、こういうちょっと奇妙な感覚みたいなものとSFを楽しむ感覚は、だいたい同じなのではないか、と個人的には思ってます。自分が自分でない感じ、自分を疑ってる感じですね。あ、幸い(なのかどうかわかりませんが)翌日には元に戻ってました。

P168

 あ、これも演劇ものだ。順不同で解説を書いていってるんですが、こうやってると自分で思っている以上に演劇ものが多い。芝居の稽古とかの最中に思いついたこととか、演劇の公演を観にいったときに思いついたことがそうなることが多いんですが、これもそうです。パントマイムの公演を観たときに書いたんだと思う。小さな舞台で何にもないのに、部屋になったり海になったり、それこそ宇宙になったりする。いつも思うことなんですが、実際に観て体験すると、再確認しますね。それでなんでこれ? というのは自分でも思いますが。冒頭のは、「丸い卵も」というフレーズからで、舞台なら同じ丸いものでも地球をそんな風にしたりもできる。それを四角くしてどうするのか、という連想から、「地球は青かった」に繋げたのは、地球を実際に見て思うことはきっと「丸い」と「青い」で、この場合はもう丸くないけど、四角くなっても青い、みたいなところへ。はたして、それで落ちてるのかどうかはよくわからないですが、まあ四角くて青い地球、というのはなかなかおもしろいとは思う。

P169

 Kと言えばカフカ、N(エヌ)と言えば星新一、ですね。奇妙な夢から目覚めると何かになっていた、というのはもちろん「変身」。まあ「変身」は、Kじゃないですけどね。nは、数学ではよく任意の数字として使われる、ということで、誰でもいい誰か。そして誰でも成立する、というのを証明するのに数学的帰納法。まあだいたいそういう連想の流れで書いたやつかな。数学的帰納法というのは、そりゃまあそうかもしれないけどなんかもやもやする、というあの感じがヘンテコな短編を読んだみたいで好きです。

P170

 冒頭のは、古い小噺にあります。ほら話なんですが、「ものすごく大きな茄子を見た」「どのくらい?」というのに対する答えがこれ。すごいですよね。まず大きさを喩えるのに「夜」を持ってくるのがすごい。まさに宇宙そのもので、宇宙的な視野に立たないとそんなことできないし、しかも、いわゆる大きな物体じゃない。何段階かジャンプしないそういう発想にはいけないと思います。それに茄子を夜に喩えるというのもね、なんともいいです。あの艶のある深い紫色はたしかに夜の色で、喩えとしてものすごくきれいで的確で、それに加えて、夜にヘタをつける、という発想のすごさですね。絶対にできないことなのに、ちゃんと絵としてイメージできる。そして笑ってしまう。まいりましたとしか言いようがない。まあそういうのを借りてきて、いくつか並べさせてもらって、そしてサゲとして、これは笑い話だか本当のことだか定かではないんですがこれまた大好きな話。白熊が雪原で獲物を待ち伏せるときにこうする、というやつ。本当だとしたらおもしろくてすごいし、ほら話だとしたらいかにもありそうなのに馬鹿馬鹿しくてよくできてます。古典というのはつくづく素晴らしい財産だと思います。

 

P171

 あ、ページ数が「いない(171)」になってますね。今、気がついた。ドッペルゲンガーとか分身の話はけっこうあって、これもそのバリエーション。「空白の実在」みたいな話かな。いるはずの人がいない。いつもあるものがない。そんなときの「あるある」みたいなもんだと思います。ないんだけど「あるある」。「ない」状態が存在感を主張してしばらく「ある」に抗う、みたいなサゲですね。その感じもやっぱり、「あるある」だと思う。

P172

 これもじつは演劇もの。というか、公演に向けて稽古をしているときに浮かんだやつ。出演者とシーンの多い芝居だと、稽古の中盤はこんな感じになる。なかなか全員揃うというわけにもいかないんで、最初にみんなで読み合わせてから、個々のシーンをその出演者だけで作って、ある程度それが進んだところで、全員で合わせる。そうして初めてどう繋がってるのかが見えてきて(いや、もちろん台本ではわかってるんですが)、磨かないといけない隙間が見えてくる。この感じはおもしろいなあ、と思って書いた。全然説明なしでそれを書くと、なんか深いことを言ってるみたいな感じになる、なんてことはないか。 

P173

 これは、そのとき思ったそのまんまですね。そのとき、というのはコーヒーをいれてたとき。コーヒーはもういつも飲んでる感じで、一日十杯くらいは飲んでます。だからけっこう長いことコーヒーメーカーで作ってたんですが、旅行先で飲むために使い捨てじゃない網のフィルターを買って、飲む前に自分でドリップして飲むのは大して時間も手間もかからないし楽しいことがわかって、それからずっとそうしてます。で、ぽたぽたやりながらこのまんま書こう、と思って書いたやつ。


P174

 これも一種の演劇もの、と呼べるかも。ダンスに限らず、空間における物体の運動というのは、計算ですよね。ある基本法則に従って動いて、相互作用して、時間と共に落ち着くところに落ち着く。その位置が答え、というふうに考えると計算だし、基本的には計算もこれと同じ方法で答えを出してる。で、ダンスというのは肉体の動きを意識的にコントロールしているわけで、高速で複雑な計算が行われているようなものだと思います。でもここで、「表現」としてのダンスを考えるとどうなのか。計算の場合は、無駄がなくて速い、ほうがいいに決まってます。使うエネルギーも時間も少ない。そして答えを出すことが目的ですから、明らかにそっちのほうがいい。はっきりしてます。でもダンスはどうなのか。早い無駄がない、そのほうがいいように思えるし、大抵の場合はそうなんですが、そこが表現の変なところで、うまければうまいほどいいのか、となると、どうもそんなことないような気もする。あえて、なめらかに踊らない、とか。そういう方法や演出もある。よくわからないところが多い。観客がどう感じるか、なんてわからないし、その感じかたに正解があるわけでもない。ということでまあこういう話になりました。実際のところ、本当にそうなのかどうかもよくわからない。そんなのはうまく踊れない者のただの屁理屈とか言い訳みたいなもので、もしかしたら計算と同じようにエレガントなほうがいいのかもしれない。でも、天使に似たなんだかわからないものがダンスみたいなことをしながらそう教えてくれるんなら、とりあえず信用するしかないような気がします。

P175

 これもSFには昔からお馴染みの命題とか思考実験。本物と同じ性能を持った偽物は本物と言っていいのでは、というのを延長して、現実と同じ容量のシミュレーションは現実なのでは、とかそういうやつですね。それでいいんじゃないかと私も思います。そして、自分と同じそういうものなら、同じようにそう言うんでしょうね。だから君はもういらない、と言われても困りますが。

 



P176

 クリスマス・ストーリー。あの時期になると毎年何かしら書いてるような気がする。いろんな要素が盛りだくさんで、おもしろい場面が多い。宗派を越えた大人気イベントになったのがよくわかります。大人から子供まで楽しめるいろんな要素があるんですね。このエピソードは、なんといっても、星の出現、というのが絵になりますよね。その話と、星の光はじつはずっと前に発せられたもので、というのは子供の頃に聞いて科学のおもしろさと不思議を感じた話。光の速度とか宇宙の大きさの話。それを舞台の上でいっしょに並べた感じかな。



P177

 ドッペルゲンガーですね。自分のドッペルゲンガーを見てしまうと死ぬ、なんて言われてたりします。フィクションでも、死ぬか、死ななくてもまあ碌なことにならない。ということで、この場合は、いつもいるドッペルゲンガー。ちょっと見てしまったり出くわしたりするんじゃなくて、ずうっとそこにいる。昔住んでいた町に行ったりすると、こんな気持ちになったりすることがあります。昔の自分が、今もあのままあそこに住んでるんじゃないか、とか。過去に自分がそこにいる、なんてのは嫌なものですから、自分で消してしまう。向こうからしたら、自分のドッペルゲンガーを見てしまった、ということかもしれません。

P178

 2・5次元、というあの方式がおもしろいなあ、と思って、そこから。3D映画というのは、赤と青のセロハンをはった眼鏡で、というのが私の世代で、あれはかなり不思議でした。たしかにそこにあるように見えるのに、ない。そういう不思議の最初の体験かも。お話とかじゃなくて、そういうことで表現が変わる、というのもおもしろかったです。まあそれはそれとして、実際にこの3次元宇宙をそういうふうに変える時代、みたいな話かな。まあ言葉遊びでもあります。言葉とか文章というのは、はたして何次元なのか、とか考えるのもおもしろいですね。


P179

 たしか、『未知との遭遇』だったと思います。あのラストのUFOがいっぱい降りてきて、すぐ頭の上を飛び回るところ。あのシーンに出ていた誰か。スタッフだったかもしれませんが。まあ実際には、合成されるまでなんにもないですからね。見る場所だけ決められて、そこを見てるだけでしょうね。そしてそれはクライマックスの特撮シーンで、それが映画の売りですから、秘密だったりする。それでそういうことになるんでしょうね。なんだかわからないまま、あっちを見ろ、こっちを見ろ、と指示されてその通りに動いてるだけ。当時、映画雑誌でそんな記事を読んでおもしろいなと思ったのをよく憶えています。高校生でした。今の映画だと、ロケにしか見えないシーンが、ぜんぶスタジオで、背景をあとからCGで作ったりしますからますますわけわからないことになってるんでしょうね。そして、死ぬ前の走馬灯。それもやっぱり映画みたいで、回想として編集された完成品を見てようやく、ああこういう映画に出てたのか、になるのかならないのか。


P180

 爬虫類は冬眠するからおもしろい、というか手間がかからない。冬はたまに眺めるくらいでほったらかしです。ということで、だいたいこの通りのことがありました。あ、同じ格好だ、と思って、そこからの連想であるそれも「あるある」なんです。寝ているときの格好。妻と娘がまったく同じ形で寝ているのを見たことが何度もある。シンクロナイズドスイミングみたいに、蒲団の上でおんなじ恰好をしている。そして、妻に、娘とおんなじ恰好で寝ていると言われたことが何度もある。そういうのって、なんか無意識の底の方で繋がってる感じがしておもしろい。意識がない状態で同じ形をしている、というのは、なんか同じ夢を見ている、の肉体版みたいな感じがする。全部が意識の底の方で繋がっててそれがそういう形で出てるのかも。関係ないけど、冬眠はしてみたい。

P181

 まあそんなに大昔と言うほどのこともない、四天王寺の出来た頃とか、つまり地図とかが残ってる程度の昔、上町台地は岬でその下は海だったわけで、だから坂の下に住んでるとよくそういうことを思います。ソラリスの海じゃないけど、海だったものが今はたまたま陸をやってるだけで、なにかの拍子に自分が海だったことを思い出したら、ぜんぶ戻ってしまうんじゃないか、とか。でも、なぜかその頃にも海じゃなかった部分があって、正方形、というのが人工物っぽいけど、たぶん地球人の作ったものじゃなくて、ということまでは書いてない裏設定。昔そんなものがあった土地なんて「訳あり物件」ということになるんでしょうが、まあそこは不動産屋だからそれもまた付加価値ということにしてるんでしょうね。

P182

 民間療法というか、素人療法とかでありそうですよね。根性療法というか、身体を痛めつけたら耐性がつく、みたいやつ。それをどんどん進めていって、最後に出てくるボスキャラとしての「死」。そして「死」と対決する、というか、ちょっと死ぬ。それによって、死なない身体になる。いや、ちょっと死んでるんですけどね。ゾンビというのは、そういうものかも。死んでるけど元気、死んでるけど健康、とか。

P183

 前半は、あれですね、ユーミンの「やさしさに包まれたなら」。ちいさいころは神様がいたし魔法も使えた、というやつです。でも大人になるとそういうものはなくしてしまうそのかわりに、という方向に振るとまあけっこういい話に着地できると思うのですが、この場合はそういう前向きさもなくしてしまった大人になるので、こういうことになります。たぶん、あるある。

P184

 あの猫型ロボットの話。この『100文字SF』には、私がこれまでに食べてきたいろんなSFが出てくるし、そういうもので作られていると言ってもいいのですが、これもそんなひとつ。そしてかなり大きいひとつです。始まったときのことは憶えています。それまで私は、「新オバケのQ太郎」が大好きでしたから、それが終わるのが悲しかったというのもあって。「新オバケのQ太郎」の最終回は、悲しくて寂しかったです。いつまでも続くものはない、ということを知った最初かもしれません。それは新しく始まった「ドラえもん」の最終回にも共通していますね。じつはこのいつまでも続くと思ってたものが、ある日ぷつんと終わる、という感じはずっと自分の中にあって、それは『かめくん』にものすごく影響しています。というか、あれはオバケのQ太郎なんですよ。そして、この中にある「娘定点観測もの」もそうかもしれません。いつか子供であることが終わる、ということは、子供にとってではなくその親にとってもそうなんですね。そして、それもまた「未来」という話。あの映画をいっしょに観に行ったのは本当ですが、そういうのも重なっているというのはちょっと不思議です。


P185

 どこかに行くのに、とくに事前に地図を用意したりせず、スマホ片手に歩くのが普通になりました。二十世紀の終わりごろは、東京に行くときは文庫本サイズのポケット地図とかを必ず持って行ってました。そうしないと電車の路線もわからない。今は待ち合わせの場所にたどり着けなくても、すぐに相手に連絡が付けられますから、ほんとに安心ですね。よくあんな頼りない状態でやってたなあ、とか思います。ということで、スマホの地図とかがどんどん精密になってその中を歩くのと現実の道を歩くのが感覚として同じになってきたら、みたいなところから書いたのかな。あと、これってほんとは化かされてるんじゃないか感、みたいなやつ。歩いてていきなり真っ暗に、というのは狐とか狸に化かされる話ではよくでてきます。あれ、好きなんですよ。いちどは体験したい。

P186

 表紙のと対応させてる話。いくつか基本設定みたいなものがあるんですが、まあこれはその中のひとつ。設定というか、世界観みたいなものですね。この100文字小説のひとつひとつが人工生命みたいなもので、いろんな方法でコピーされたり、媒体を乗り換えたりしながら、生き延びていく、みたいな。生き物は遺伝情報の乗り物みたいなもの、という考えかたは、SFとしてもとてもおもしろい。小説というのは、物語レベルから文字レベルまでいろんな層があって、そういうところも生き物っぽい。もともとネットにばら撒かれたものが紙の上で増殖するところなんかも。そして、これを読む人の脳の中にも入り込んでいく、とか。まあそういう設定の一環の話。

P187

 いわゆるループもの、になるのかな? でも、誰もが知っていて、何度も何度も繰り返し語られるお話、というのは、それを生きているキャラクターにとってはたぶんループもので、そしてあらゆるループものというのは、そういうすでに決められたお話から何とか逃れようともがく話、なんでしょうね。なんとなくそんなことを考えて書いたんですが、たぶん頭の隅にあったのは、『ドラえもん』の「ぼく、桃太郎のなんなのさ?」かな。これ、たしかリアルタイムで読んで、このタイトルだけですごく笑ったのを憶えています。ダウンタウンブギウギバンドの出現がほとんど社会的な事件だった頃ですね。頭のフレーズは、もちろんジャック・フィニイ。時間もの、ですから。鬼が笑う、のくすぐりは落語の『地獄八景』。ということで、これ自体がいろんなお話から出来てます。それを集めて組み直して自分なりの何かを作ろうとする、という行為もまたループもの、かも。

P188

 あるあるですね。たぶん小説あるある。メモだとそうはいかない気はする。やっぱりどんなに短くても小説として独立しているものはひとつの生き物で、そしてひとつひとつに意志はないけど、ある法則で動くものの集合体が意識で、だから本当にこっちが自分ではないかと思うことはけっこうあります。そして、なんとなく書いたことは憶えているので、検索ですぐに取り出せる。そのときの自分の思考よりももっと整理された形で、です。そういうのもマイクロノベルのおもしろいところではないかと思います。ツイッターでも書きましたが、こうやって自分の書いたマイクロノベルを次々にツイートしているのは、自分というものを細切れにしてネットの海に放流しているようなものではないかと思います。そうやって自身の人格をネットに移していってるのかもしれません。あるいはマイクロノベルたちが集まって新しい意識みたいなものが発生するか。たとえば100万篇くらいマイクロノベルがあれば、それをランダムに出力しているだけで、何かの意志とか意図が存在しているみたいに見えるんじゃないかな。そして、そう見える、ということは、それがあると考えてもいいんじゃないか、とか。そして、それがひとりの人間が書いたマイクロノベルだと、相互に関連があって、その関連性になんらかの数値を付けていけば、脳のシナプスみたいになるかも。いや、まあただの妄想ですけどね。これ、本の中だけじゃなくて、裏表紙にもなってます。内容的にはちょうどいいですね。あとがきっぽいし。

P189

 花見の話。うちから自転車でちょっと行ったところにこういう場所があって、毎年何回か花見に行きます。といっても、妻と娘と三人だったり、妻と二人だったりの、酒なしの花見。いちおう、弁当とお茶は持って行くから、純花見というわけでもない。斜めになっている土手にビニールシートを敷いて、夕方くらいに数時間そこでぼけっとしてます。川というより水路で、両側のコンクリート壁が高いぶん、水面は暗い。そこに白い花びらが浮かんでて、ゆっくり流れていくのは、闇の中で桜が散ってるみたいで、映画の中の夜桜みたいでもある。べつに思い立ったらすぐに自転車で行けるようなところで、もちろん場所取りなんかが必要なところでもないから、何度も行きます。午後から夕方くらいが光がきれいでいいですね。ここはけっこう海に近いので、満ち潮の時は水路の流れが逆になるのが水面の見てるとよくわかります。それがなんだか時間の逆行みたいに見える。まあ花見時間ですからそんなのんびりしたことを考えます。

P190

 騙し絵は昔から好きで、見ているものの方は何も変わっていないのに、こっちが見方を変えた途端にまったく別のものに見える、というあの現実崩壊感覚みたいなものに惹かれるんでしょうね。映画なんかでも、なにが映ってるのかわからないものが、なんだったのかわかる瞬間みたいなのが好きです。オープニングとかにけっこう使われるやりかたですよね。ツカミに使われるくらいだから、好きな人は多い、というか、人間はそういうのに驚きと快を感じるんでしょうね。これはそういうのを文章でやってみようと思ったのかな。たぶん、そういう動機で書いたんだと思います。それと無風状態のときにまっすぐ登っていく煙の不思議な感じ。煙みたいなふわふわゆらゆらしているものが、直線を作ったときの、それ自体がトリックみたいに見えるあの感じ。実際にそこにあると思っていたものが鏡像だったというのの変形も入れて、それから下だと思ってたら上、という文字通りひっくり返しをやって、みたいな感じですが、いちばん最初は、やっぱり煙が細い糸に見えた不思議から。線香の煙って、ほんとにそう見えるんですよね。

P191

 私が小説を書き始めた頃は、小説はまだ原稿用紙に手書きするものでした。新人賞への応募原稿も原稿用紙に手書きしました。早川のSFコンテストの参考作に選ばれて、それで思い切ってパソコンとワープロソフトとプリンターを買いました。それ以降はキーボードで打ち込んでいるんですが、それでも私の中では小説の単位は400字詰め原稿用紙です。これは、ずっとそうしてきたらか染みついている、というのもありますが、実際に小説の長さを捉えるのに使い勝手がいいんですね。朗読の場合でもそうで、原稿用紙1枚がだいたい1分です。偶然なのか意図的な
ものなのかわからないんですが、実際声に出して読んでみるとそんな感じです。だから、そういう身体感覚小説のサイズがシンクロして実感しやすい。だから、400字で1分、100字なら15秒、なのに。ということなんですが、べつに不思議でもなんでもなくて、小説の場合、読み流せる部分がけっこうあって、そこはむしろ速度を上げて通過してしまうほうがテンポがよくなる。でも、100字の場合はそうもいかない。聞き流されるともう終わってしまう。だからどうしてもちょっと丁寧に読む必要があって、そうなると基本的には読む速度を落とすしかない、というだけのことだとは思うんですが、でもまあそこはSFらしく、架空の理論で。

P192

 不器用な子供だったので、工作とかだいたいそういうことになりました。部品とかすぐに壊して、それを接着剤で直そうとする。そんなものでなんとかなるわけないんですが、テープとかいろいろ使って補強しようとして、でも補強になんかなってないから、そういう接着剤とかいろんなものの団子みたいになって、というのは私のあるあるなんですが、あんまり共感は得られないかもしれません。接着剤とかボンドそのものは好きです。感触も匂いも固まったり固まらなかったりくっついたりくっつかなかったりするところも。

P193

 渦の話も【ほぼ百字小説】ではけっこう書いてて、水なのに形を保っている、というのはやっぱり不思議でおもしろくて川とかに渦があるとついつい見入ってしまいます。生きているみたいに見えるし、実際、渦とか流れが生命に近いもの、という考え方はありますね。常にエネルギーが供給されているかぎり安定していて、構成要素は常に入れ替わっているけど、そこに同じものとして存在している、というのは細胞が入れ替わっていくのに似ているし。台風とか生き物っぽいし、木星の大赤斑なんかは、巨大な生物みたいにも見える。逆に生命が渦のようなもの、と考えると人間も渦なわけで、そうなるとつむじですね。で、生き物だから運動方向が変わることもある、と。気づかれないほうがいい、と考えているのは、本人じゃなくてつむじそのものなのかも。

P194

 これはあれですね、ドラえもんに出てきた道具。点けるとまわりが暗闇になるライト。あれをどんなふうに使えばいいか。暗闇に紛れる、というのがいちばん思いつくことですが、まあそれだとそのまんまなので、明るすぎて見えないものがそれによって見えるようになる、みたいな。太陽よりも月、みたいな指向性も入ってるように思います。いったいどういう原理でそんなことができるのか、というところをやるよりは、「暗いものを抱えている」という言い回しだけで乗り切っています。言葉としては違和感がない。その言葉だけで説明は省いてしまう、というか、省いてしまえるのは、マイクロノベルのいいところですね。「暗いもの」というのは、ちょっとブラックホールを連想させるところがあって、光も出られない穴、というイメージを重ねてます。マイクロブラックホールをその内部に抱えている人、みたいなのをハードSF的に突き詰めると、それはそれでおもしろいとは思うんですが、まあ100文字では無理かな。

P195

 落差の話。全体がどれだけ低くなっていても、そこに落差さえあればエネルギーを取り出すことができる。だから低いところに落差を作る。そうすれば自分たちのいる高いところから低いところへ流すことなく、低いところからだけエネルギーを取り出すことができる。あるあるですね。

P196

 これもこのまんま。物干しからの眺め。何年か前の台風で物干しの屋根が吹き飛んで、梅雨時の洗濯には不便になったんですが、空はよく見えるようになった。月も木星もよく見える。火星も大接近中は怖いくらい明るくて赤い。ネットで「今夜の星空」とか検索するとすぐに天球図が出てきて、あれは便利ですね。月と木星、と言えば『2001年宇宙の旅』で、よくネタに使う、というか私の宇宙のイメージは今もやっぱりあの映画です。宇宙から水中で寝ている亀まで、夜の物干しはなかなかSFです。あ、私はバスタオルを干しに出てます。







P197

 これはもうほんとにこのまんまなんですよ。ツイッターで【ほぼ百字小説】を始めてからほとんど夢は見なくなってしまって、こういうことなんじゃないか、と思ってるんですが、もしかしたら単に年齢のせいだったりするのかもしれません。検証のしようもないんですが、でも小説を書くという行為はかなりそれが夢だとわかっている夢を見ているときの感じに近いんじゃないか、と前から思ってました。制御できそうなのに制御できない感じとか。実際、私は書いてる途中に寝てしまったりするし。マクドナルドでよく寝てます。外で書いたとき、というか、私は小説は外でしか書かなくて、それも紙のノートに手書きで書いたものをPCに打ち込むんですが、このときノートに自分で書いたことをまったく覚えてないことがあって、これも目覚めてすぐに夢日記をつけて、でも後で見たときに自分が書いたことを憶えてなかったりするのによく似ていると思います。脳の使い方というか、そのとき動いている部分がかなり近いのではないかなあ。いや、わからんけど。


P198

 これもじつは演劇もの。というか、演劇の現場で発想したやつ。小劇場とかだと、だいたい公演の前日とかが劇場に入って舞台を作ります。なんにもないところから、いろんなものを配置したり出入りを決めたり、そうするとそのなんにもないところが、だんだんそれが行われている世界になってくる。場面が変わると、同じ舞台の上なんだけど、全然違う場所と時間になる。でももちろんそこにあるものは同じで、さっきまで教室の机として使ってたものが海岸の岩になったりする。場面転換でいちいち全部を入れ替えるわけにいかないから、これはそういうもの、ということでやる。それでやれてしまうのが演劇の不思議なところです。映画だとなかなかそうはいかないんですが、舞台だと成立する。それはいつもおもしろくて不思議です。舞台上に置かれているものが何なのか、そこに立ってるのが誰なのか、はそれがどのシーンになるかで変わってくる。そういう「使い回し」は、量子論における観測されるまで確定しない、というのにどこか似ているなあ、と思います。そして、この宇宙がそういう風にできているのは、つまりそういう事情があるのでは、みたいなところにもっていったんですが、だからまあこれも仕込み(劇場に入って舞台を作る作業)の最中に書いた日記みたいなものでもあります。

P199

 宇宙論もの。世界の構造の話、というのは昔から好きで、SFというものもそういうところに原点があるのではないかと思います。そして、そういうものは、すでにある何かに喩えられることが多い、というか、そういう何かすでに知っている形としてしか人間は何かを認識できないのでしょうね。そして、なぜそうなっているのか、という理由はわかりません。そんなものに理由があるのかどうかすらわからない。理由はわからないけど、どうやらこういうことになっているらしい。それが科学です。そして、理由はわからないけどそうなっていることがわかるから再現性があって、応用が効く。ということで、これもそういうものですね。なぜそうなっているのかわからないが、砂時計だということはわかっている。砂時計みたいなもの、ではなくて、砂時計です。観測によって、そういうことがわかってしまった。あとは砂時計のふたつの大きな特徴(だと私が思っていること)を書きました。

P200

 これは朗読の話。私にとっては朗読は自分なりの落語みたいなもんで、落研で落語をやって、そのときに自分の語り方みたいなものを見つけた、というか、見つけないといけないといけない、ということを知った私にとっては、落語はすごく大事です。落語をやってなかったら、私の小説はこんな風にはなってない、というのは間違いない。ということで、朗読はずっとやっていきたいし、まあなるべくやるようにしています。田中啓文氏といっしょにやってくる暗闇朗読は、しばらくコロナで中断してますが、再開したいし、犬街ラジオのメンバーでは毎月『まちのひ朗読舎』という朗読ライブをやってます。あと、「朗読bar」という朗読イベントにもたまに出してもらったりしてます。ということで、機会があれば覗いてみてください。あ、締めのフレーズは、ボブ・ディランの「コーヒーをもう一杯」の真似。あの歌好きなんですよ。

P201

 これまた演劇もの。ほんとに演劇ものが多いなあ。まあ芝居の稽古とか本番のときには、いろんなことを考えます。これは稽古を重ねてきた終盤あたりに書いたやつですね。もう本番が近くなると通し稽古といって、最初から最後までを通してやるんです。最初はぎくしゃくしてようやく最後まで通せた、という感じなんですが、繰り返すと段々こなれてきて、うまくいってないところとかその原因が見えてくる。で、そうなると全体のランニングタイムは短くなります。短くなってくると、ああいい感じに締まってきてるな、とか思う。逆に長くなってくると要警戒ですわりと小説もそんな感じがします、個人的には。

P202

 宇宙論、というか、原始的な宇宙の構造みたいな話。そういうのがSFの原点ではないか、というのはここでも何度か書いてることですね。これもまあそれです。星が天に開いた穴、というのは、そういうのの中でも好きなやつ。屋根に開いた穴を見て、そんなことを考えそうです。そういう原始的な想像に、量子論的な味付けをした感じ。主観と客観、観測するものと観測されるもの、こちらから観測すると穴だが、向こうから観測するとこちらが穴、というあたりとか、穴のように見えるのではなく、穴、というのも、確率的にしか推測できないのではなく、その確率の波であるというそれが本質なのだ、とかそういう量子論の解説を聞いたときのちょっと化かされてるみたいな感じにしたつもり。

P203

 P202でちょっと書き足りない、というか、そのへんのあたりをもうちょっと書きたかったので。そして、粒子として観測すれば粒子としてふるまうし、波として観測すれば波としてふるまう、というあんな感じにもやっとさせるというか、煙にまきたかった。そういうのは、ちょっと狸に化かされた話とかとも共通するところがあるかも。煙にまけたかどうかはわかりませんが。

P204

 これを最後に置きました。そうすることで、最初のP5と共鳴してくれたらいいかなと。まあそれだけじゃないですが。最初のページで小五だった娘は、ここでは中三です。書いてる間に流れた時間は四年ですが、この年齢の四年は大きいですね。文中にあるように、もう来年は高校生、です。すっかり成長した声になってるし。夕焼けがきれいだったことを教えてくれたのは本当。ひとりで見に行ったのも本当。空き地は、【ほぼ百字小説】にはしょっちゅう出てくるお馴染みの空き地。

 いちおう、超光速なんて概念を出して、過去が見える辻褄を合わせようとするところが、私なりのSF、ですね。その部分もまたP5と対応させてます。あっちは未来の声、こっちは過去の光、というところかな。臨死体験っぽいところも同じ。だからこのふたつは、というか、この本一冊分全部が、同じ状況で見た(思い出した)夢みたいなもの、という解釈もできるかもしれません。夢オチかっ、とか突っ込まれそうですが。【ほぼ百字小説】としての通し番号は(1820)。

********************

いくつかを朗読しました。1:06のあたり。

https://twitcasting.tv/inutogaito/movie/720308271


 ついでにこれも貼っときます。けっこう長めのインタビュー。『100文字SF』がでる寸前くらいのやつ。

**************************




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?