見出し画像

珈琲と、セックスに共通するたいせつなこと。

珈琲を淹れる時間が好きです。
もちろん、珈琲が好きだというものあります。

こうして執筆をしている時に、珈琲が無いのは考えにくいです。
それくらい生活に密接に存在しているとも言えます。

何がそんなに好きかと言われると、すこしだけ言葉に詰まります。
もちろん、味・・・香・・雰囲気・・・?

どれも正解で、どれもが正解ではないように
生活とか、それを取り巻くものにも正解とはないと思います。

ただ、これは好きだな・・・と思うのが
ゆっくりと「珈琲を淹れる」という時間そのもの。
珈琲を淹れるという大義名分のもとに、忙しいなかにもほんの僅かな余裕の時間が出来ます。
私は在宅での仕事が多いので、仕事とプライベートの区別がありません。
そうでなくても悪性のワーカホリックなので、常に仕事をしていないと不安に潰されそうになります。
そんなことないのに。
ただ、そんな気になるのです。

もちろん、そうやって自分を追い詰めてしまうと自分の身体が反撃にでます。
窮鼠猫を噛むの例えのように、どうしようもなく身体と頭が働かなくなります。
真っ白なパソコンの画面を見つめて、どうしようもない気持ちになってしまいます。

動かない指は何も打ち込もうとしない。
気持ちだけは焦り、感情が溢れているのに、それは言語化されない。
これを以前にも感じたことがあるなと、

ふと想うと

あぁ、そうだ
恋愛に似ているんだと思い当たる。

どうしようもなく、誰かを想ったとき、
本当にどうしようもなく求めてしまう。

その人と結ばれた時、たまらない幸福感と一緒にどうしようもない不安が襲ってくる。
私はずっとネガティブです。
誰かと付き合うとき、その人と別れる時を想像しています。
その時に打ちひしがれている自分を思って、たまらなく悲しくなる。
だから、抱きしめる時にその力加減が限界を超えてしまう。

苦しいくらいに抱きしめて、追いすがるように求める。
その人の中に入っていないと怖くてたまらない。
唇を一瞬でも離すと、消えてしまいそうで、
幻のように美しく、薄闇の中に存在する彼女を
私は溺れる者のように搔き抱く。

愛してる、愛してる、愛してる
言葉にしないと、すべては存在することが許されないように。
その焦燥感は、やがて相手にも伝わり、
その熱情は、想いを終わらせるのです。

失うこと、それときちんと向き合い、
こうして書くことで自分を律するようになり、
歳を重ね、振りかえることができるようになった今、
あの時にもっと必要だったのは、
珈琲を飲むことに一生懸命になるのではなく、こうして珈琲を淹れるということをもっと知るべきだったということ。
一滴、一滴と琥珀の雫が落ちるのを美しいと感じるように、
あの人を、もっと
その美しさをもっと堪能するべきだったと、想う。

闇に浮かぶ肌の白さを
触れる感触を
柔らかく触れる髪を

感じることが必要だった。
そう、この一杯の珈琲を一口含み
想います。

50を過ぎて、激しさと無縁になって
様々なことを失い、理解する。

愛するという行為のことを。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?