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怒るということについて

わたしは怒っているときに泣く人だ。怒りが心の中に芽生えるとき、同時に目頭が熱くなって涙が溢れる。嬉しくても、悲しくても涙がでる(涙もろいほうだ)けれど。怒るときにもどうしても涙が出てしまう。怒って泣いた翌朝は目の奥が痛くて、あぁ昨日わたしは怒っていたんだなと実感する。

ここ最近、怒りからは随分とかけ離れた生活をしていたのに、どうしても怒らなければいけないことがあった。自分を守るために、だ。最近聴いたラジオで誰かが言っていた。「怒るという行為は自分はあなたと対等だぞ。」と宣言する行為でもある、と。今回の怒りは、まさにそういう行為だったのかもしれないなと思う。

この社会にはいつも力関係が働いていて、誰が偉いとか、誰がすごいとか、誰が羨ましいとか、誰はとんでもないやつだ、とか。そういう話、そういうニュース、そういうことばかり。みんな平等ではない、ということなんて小学校の高学年になる前くらいにはとっくに気が付いていた。誰かは人気者、誰かはどんくさい、って。いつもみんな話していた。

でも、それは違ったということが大人になって分かった。本当はちゃんと平等にできているのかもしれないと、もっともっと人間の深いところを知るようになってから感じるようになった。それはそうだな、ここ最近の話。はじめから栄光を手にした人はいない。きらきらしたように見える人も、どこかでちゃんと何かを抱えていて。あんまり楽しくなさそうに見える人にもちゃんと自分だけの心躍る世界があったりする。人は見えていないところがほとんどなのだと思う。

だから、目に見えるパワーに負けることなく、自分でちゃんと主張しなければならない。誰にでも立ち向かう権利がある。もちろんそれら全てが怒るという行為ではないと思うのだけれど、自分の中のある一定のラインを超えたときには、ちゃんと声を出して、眉毛を曲げて、自分を守るために剣を構える。自分を守るために、そして時には誰かを守るために。そういう風にしていいんじゃないか、と思うのです。わたしにとって今回はそれは怒るという行為だった、という話で。

感謝弁当

一方で怒ら(れ)ない人を批判したいわけでもない。怒りの沸点があるとするならば、それは人それぞれだからだ。大事なことはその沸点をちゃんと持っていること。もちろん出来るだけ怒りたくないし、怒りの沸点は高いほうがいい。そうするためには日々の中でのトレーニングも必要だ。それもまた自分を守るために、の行為のはずだから。

総じて考えていることは、みんなもっと自分を守ってあげていいということ。小学生の頃によく言われた「自分の身は自分で守りなさい。」という教えは人生の教訓になっているのかも知れない。守り守られ、支え合い。他者と、自分と。そういうことが、平和を考える上でのベースのベースのベースのはずなのでは、と思う。

いいときも、そうではないときも、わたしらしくありたい。そうではないとき、にも、ね。いろんなことがこの世界では紙一重だから、だから色々難しいのだけれど、だからこそ、自分で考えて、自分で決める。そういうことがこれからの世の中でどんどん大切になってくるのではないかな、と思っています。

まあるいこころ



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