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〘異聞・阿修羅王1〙須彌山の修羅

前話プロローグ → 序1 / 序2
 
 
 
 それはいつのことであったのか。

 人の身には及びもつかぬ時代(とき)、及びもつかぬ場所。
 及びもつかぬ存在が発生し、やがて出逢うこととなる。

 須羅(しゅり)──後に阿修羅王(あしゅらおう)と呼ばれし者。

 摩伽(まか)──後に因陀羅(いんどら)と呼ばれし者。

 表でも裏でもなく、また、そのどちらでもあるふたりが、何度も交わることになる道の上で初めて出逢う。


 花咲き乱れる須彌山(しゅみせん)の春。

「お前。そこで何をしている」

 荒れた様子で花を散らしていた少年は、突然、背後から声をかけられ手を止めた。さらに不機嫌に拍車がかかった表情で振り向き、そして驚く。

 舞い散る花びらの中、立っていたのは、男とも女ともつかない少年──もしくは少女。

 息を飲むほど凜とした眦の美しい顔立ち。少女にしては背が高く、少年にしては華奢な姿。そして不思議なほどに通る声。

「おれの勝手だ」

 だが、少年はぶっきらぼうに返した。

 ただでさえ、鬱憤を晴らすべく八つ当たりしていたところである。大して歳も違わぬ、下手をすれば歳下と思える相手に『お前』呼ばわりされた挙げ句、どう聞いても自分の方が悪者の体。

「その花は我が邸のものだ。それ以上、乱暴に手折ると言うなら無事で済むと思うな」

 華奢な見かけによらず、思いもかけない威圧感と凄み。一瞬、目を見張ったものの、逆に少年の心に嗜虐心が湧いた。

「お前、この邸の者だと言ったな。……名は?」

「私の名を知りたくば、そちらから名乗れ」

 揺るがぬ気位の高さに、少年の方もプライドを刺激された。張り合うかの如く、意地の悪い考えが浮かぶ。

「おれの名は摩伽だ」

「摩伽……?」

 訝しむように眉根を寄せる相手に、少年は満足気な笑みを浮かべた。

「そうだ。いずれは、忉利天(とうりてん)・善見城(ぜんけんじょう)の主となる者だ」

 常であれば、少年──摩伽は決して身分を笠に着るような真似はしない。だが、相手の気位の高さに感化され、無意識に張り合おうとしてしまっていること、そこにすら気づけないでいた。

 だが、摩伽の心情を知ってか知らずか、それとも『善見城の主になる立場』というもの自体を知らぬのか、眉ひとつ動かす様子はない。そればかりか、返された言葉は予想外のものだった。

「……それがどうした? そのこととお前が花を散らすことと、何か関係があるのか?」

 摩伽はグッと言葉につまった。身分を笠に着ようとした己の心に気付かされ、感情の機微の見えない声音が胸に突き刺さる。

「あるとも……! 忉利天を統べるということは、須彌山の至る処がおれのものと言うことだ……! お前の邸もな! おれが花をどうしようと口を出される謂れは……」

 言い終わる前に乾いた音が響き、同時に受けた衝撃。自分の身体が宙を飛んだことに摩伽が気づいたのは、地面に叩きつけられた時だった。

 何が起きたのかわからず、地面に投げ出されたまま呆然とする。

「……っ!」

 いくら不意を衝かれたとは言え、自分をここまであっさりと薙ぎ払う者がいるなどと想像し得なかった。

「……貴様っ……!」

 見上げようとした途端、己にかかる影。

 息を飲む摩伽を見下ろしていたのは、冷たく、だが焼き殺されそうにキツい眦。冷熱を湛えた華奢な全身が、暗闇のような陰を作っている。

「須彌山を統べる、だと? 主であるなら、己のものを護るのが筋であろうが。まして、ただ咲いているだけの花に八つ当たりするとは……それが正当だなどと、勘違いするのも大概にせい」

 確かに、仕える者から正論で窘められ、邸を飛び出して来たところであった。その腹いせに花を散らして八つ当たりしていた身としては返せる言葉はなく、それでも怒りの方が先に立つ。

「……何者だ……お前……」

 怒りと屈辱に震える摩伽に向ける相手の眼差しは、あくまで冷たく、だが熱かった。

「この邸の者だと言うたはずだ。いずれ須彌山を統べると言うなら、それくらい知っておけ」

 摩伽はただ呆然と相手の顔を見つめた。正確には、目を離さずにいられなかった。凄まじい形相の中に見える壮絶な美しさに見惚れていたのだ。

「さっさと去(い)ね!」

「ま、待て……!」

 背を向けようとする相手に、摩伽は思わず呼びかけた。

「まだ、何か用か」

「名乗れ……!」

 顔だけで振り向いた相手に訴える。

「お前に名乗る名などない」

「それでもおれは名乗ったのだぞ!」

 冷たい一瞥を向けた相手の唇がわずかに動いた。

「……阿修羅族の者だ。それ以上、お前に言うことはない」

 言われた言葉を脳が反芻する。

(阿修羅族……あの須彌山の闘神、阿修羅一族か……)

 であれば、強さには納得が行く。それでも、いくら阿修羅族とは言え、簡単に自分を薙ぎ払うほどの力を持つ者がいるのか疑問も湧く。

(……もし、いるとすれば……)

 無意識に相手の正体を探ろうとする。だが、その間に相手は顔を背け、歩を進めていた。

 その背に向かい、摩伽は叫んだ。

「おい、待て……!」

 摩伽の呼びかけに、今度こそ、その凜とした背が振り返ることはなかった。

(阿修羅……修羅族……)

 ほんのわずかなやり取り全てを反芻するごとに、己の感情が不思議と変化することに気づく。

 怒りより驚き、驚きより不可思議、不可思議より──。

 それ以上の感情を表す言葉を、この時の摩伽は持ち得なかった。

「……須彌山の修羅……お前のことは須羅と覚えておこう」

 摩伽は相手を『須彌山の修羅』と認識し、『須』と『羅』を合わせ、勝手にそう呼ぶこととした。呼び名がわからなければ不便であると考えたためだが、果たして再会することがあるのか、相手の態度を見る限り怪しくはあった。

 だが、摩伽は彼/彼女──須羅とは、再び相見(まみ)えることを確信していた。

 いや、必ず逢ってみせる、と。
 
 
 
 
 
 
 
 

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