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中込遊里の日記ナントカ番外編「リヤ王稽古場報告(10)」2019/10/29・11/3

2020年2月9日・11日上演の「物狂い音楽劇・リヤ王」に向けて、日々感じたことや思ったことを記そうと思い、書き始める。10回目。

身体は身体を行き来する

休憩の時や稽古が始まる前に私がくたびれて床に寝転がっていると、リヤを演じる葵が「どれどれ」と背中をマッサージしてくれる。私だけではなく、合間を見つけては色々な人をマッサージしている。

自分も疲れているだろうに、と気にかけると、「私は休憩の時に休まないことにしている」と言う。それ、ストイックすぎないかな、大丈夫かな、と心配したのだが、彼女に言わせると、こういうことらしい。

「休憩の時は誰かを喜ばせるようなことをする、そうすると私もそれをもらって喜べるから結果休憩になる」たぶん、そのような内容のことを言っていた。マッサージ効果で完膚なきまでに腑抜けになっていた私のおぼろげな記憶。

「ハムレット」にも出演してもらった女優の鈴木陽代さんにも身体の扱い方について教えてもらった。マッサージはしてあげている人の方が実はたくさんもらってるんだ、と。特に、「陰と陽」である男女の触れ合いはよりよく気が流れるのだそうだ。

なるほど、器械にマッサージしてもらうよりも、温かい人の手を添えてもらうだけで、とても癒される。気が流れるということだろう。葵や陽代さんの言うこともそういうことなのかもしれない。

マッサージなどの体の触れ合いで「身体がここにある」と確かめることはとても直接的で即効性がある。さらに、気を鍛えれば直接の接触がなかったとしても気は交換できる、と思う。過去に俳優修業をしていた「夜の樹」で舞台に立った経験から。

良い舞台を観ると、俳優の気がこちらにも伝わってきてグググっとなることがある。演じられていることを私が体験しているような感覚すらある。生身の身体がそこにある舞台芸術では、身体は身体を行き来する。

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↑水上亜弓にツボ押しをする葵。痛そう…

知らないことが恥

利賀演劇人コンクールで出会った俳優の時田光洋さんに稽古場に来てもらった。狂言の心得があるので、色々とアドバイスいただこうということになった。

「古典ではこういうふうに舞台を使うけど、でもそのセオリー通りやるかは演出の考え方だし、趣味嗜好だし」と繰り返しながら、色々と具体的に真剣にアドバイスしてくださった。

能舞台でやるのだから、能楽堂の空間を最大限リスペクトした作品にしたいと思っている。リスペクトとは、昔からの型や護られてきたものに憧れるというところで止まるのではなく、能舞台を博物館にせず生きた舞台芸術の場として更新していくという意思の意味である。

能舞台のような左右非対称の奇妙な空間を、演劇をやる者が面白がらない手はない。そして、その奇妙な三間四方をどう使うかの先例があり、それを実演で伝えられる人もいる。それを知らずしてただ面白がるか、知ってそこから新たな面白さを発見するか。

繰り返すが私は新作能の上演を目指すわけではない。現代劇を上演する。現代劇は現代だけを見つめていては創れない。歴史の積み重ねの先の未来を創造するのが現代劇。

先人の知恵や歴史を知ってそれを活かすこと自体相当の苦労があり、能舞台/シェイクスピア/劇団という形態/ジェンダーフリー/音楽劇という難解なパズルを成功させる気でいるとはなんと果てしない、と我ながら自分にあきれ返るが、まずもって、知らないということが恥。知ってはじめて批判もできよう。


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