中込遊里の日記ナントカ番外編「リヤ王稽古場報告(2)」2019/8/27

2020年2月9日・11日上演の「物狂い音楽劇・リヤ王」に向けて、日々感じたことや思ったことを記そうと思い、書き始める。2回目。

今、夏休み期間で、演劇部の地区大会や文化祭前なので、作品創作に忙しい演劇部のコーチで高校を日々はしごしている。また、今週は12月の「八王子学生演劇祭」のオーディションもあり、学生たちと過ごす時間が大半の中、週に一度はリヤ王のために集まっている。

だから、《出会って間もない高校生・大学生くらいと一緒に創作する私》と、《かなりの長い年月を共に過ごした大人と一緒に創作する私》の2人で、演劇に向き合っている、という感覚がある。

演劇創作のためには、《「人間とどう向き合うか」という感性/思考力》《それを作品として成立させるための技術》という大きな二本柱がある。

どちらかというと、高校生・大学生たちと過ごす時間は前者、劇団での創作は後者、のことを考えている時間が多いのかな、と思う。もちろん最終的には両方必要なのだが。

「リヤ王」稽古開始2回目では、技術を向上するよりも、戯曲と向き合いながらじっくりと感覚を研ぎ澄ませたい。

今日の稽古では、坪内逍遥訳の、2幕と3幕の途中までを読み合わせした。

リヤはものすごく怒っている。とにかく怒って怒りまくって、泣いたり喚いたり嵐に吹かれて自暴自棄になっている。きっかけは、2人の娘にぞんざいな扱いを受けたからだ。

一般的に、このリヤの行き過ぎる行動は、老人性の痴呆と捉えられているようだ。確かに老人は老人なのだろうが、果たして、痴呆症だと決めつけるのはどうなのだろうかな、と思う。

リヤに感情移入できるかしら。試しに自分に引き寄せて考えてみる。すると、リヤは愛されることに慣れていて、引退宣言した今は寂しいのかな、と思いついた。

私自身のことを考えれば、愛され頼られることに慣れていると思う。両親や祖父母の愛を一身に受けて甘やかされた幼少期。勉強もできた方なので先生から怒られることもあまりなかったように思う。同性とも異性とも割に仲良くできた。

たぶん、私は過去の経験から、「人から必要とされるのが当然」と、まあ極端な言い方をすればそう体で覚えている。リヤにしても、過去の功績みたいなものは戯曲には描かれていないのだが、問題がある王様ではなかったようなので、他者に欲せられてきた人生だったのではないだろうか。

だのに、ひどい扱いを受ける。お付きの兵士を100人から50人に減らせ、だの、いやもはや0人でいいよね、なんて言われる。味方であるはずの最愛の娘たちには、「お父さんは弱いんだから弱い者らしくしてなよ」なんて言われる。

これほどまでに邪けんにされるのは、人生で初めてなのではないだろうか。愛されることに慣れている人が、こんな扱いを受ければ、たいそう寂しく感じることだろう。

その寂しさは、怒りに変わる。

愛されることが当然と思わない人であれば、寂しいな、でもいつものことだよな、と、しょぼくれながらも飲み込めるのかもしれない。自分にも周りにも期待していないからだ。

リヤは違う。また自分は愛されるのではないか、と、少しでも期待しているのではないだろうか。怒るにはエネルギーを消耗する。周りを、自分を、変えようと思うからこそ、これほどまでにエネルギーを使うのではないか。

高校生・大学生たちのことを想う。一緒に過ごしていると、《愛されることが当然と思わない人》がいかに多いか、と感じる。それは卑屈さにはすり替わらない。ただ、期待していない。むしろ爽やかですらある。

リヤは爽やかさからほど遠く、周りにも自分にも期待し、躍起になっている。現代にはなかなかに稀有な人物なのかもしれない。

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