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散歩道(60作目)

高橋陽一郎は散歩が趣味だ。
毎朝早く目が覚めるので、その時間を有意義に使いたいと考えた結果だった。
仕事を定年退職してからの唯一と趣味と言える。
陽一郎は結婚しておらず、もちろん子供も孫もいない為ずっと1人で暮らしてきた。
定年した後にこの街に越してきたから、友人と呼べる人間もいない。
この街を知る為に、陽一郎は歩いている。

毎朝歩いていると、何度も同じ人間を見かけるようになってくる。
健康の為に歩いていそうな女性や、陽一郎と同じように時間を持て余していそうな男性、ペットを連れた人や、ランニングをしている若い男性、様々な人がいる。
その中でも陽一郎が気になる人物がいる。
その人は陽一郎が通る公園のベンチ座って本を読んでいる。
雨の日も風の日も同じベンチに座っている。
悪いとは思いつつも、少し離れた位置から観察してみると、その人は陽一郎より少し若い50代くらいの女性で、真剣な顔で本を読んでいる。
少し観察して、陽一郎は彼女が気になる理由が分かった。
何故か彼女は本を上下逆に持っているのだ。
もしかしたら、表紙のカバーだけが逆になっているのかもしれない。
陽一郎は疑問に思いつつもその場を去った。

次の日も、やはりその女性はベンチに座っていた。遠くから手元を見てみると、やはり本が逆さまだった。
昨日と同じ本のようだった。
どうしても気になった陽一郎は勇気をだして、女性に声を掛けてみた。
「あのー、すみません。」
女性は驚いた顔をして陽一郎を見上げた。
「何でしょうか?」
「すみません、ちょっと気になったもので。どうして、本を逆さまに読んでいるのですか?」
「気づきましたか。」
本が逆さまなことを指摘されて、女性はどこか嬉しそうだった。
「気づきました。」
陽一郎が正直に答えると、女性はベンチから立ち上がり、手に持っていた本を陽一郎に見せた。
「実はこれ私が書いた本なんです。」
「そうなんですか。ご自分で書かれた本だったのですね。凄いですね。でも、どうして逆さに持つ必要があるんですか?」
「実は、これは、昔祖母に教えてもらったまじないなんです。」
「まじない?」
「本を逆さまにして読むと、会いたい人に会えるっていうおまじない。」
「会いたい人に会える、ですか。」
「私ね、もう先がないんです。お医者さんから、一年持たないかもしれないって言われてて。」
「一年、ですか。それはお辛いでしょう。」
「突然ごめんなさいね、こんなことを言って。あと一年しか寿命が無いと知ったとき、私はもう一度会いたい人が出来たんです。」
「誰ですか?」
「十年前に亡くなった主人です。私たちには子供がいなかったから、主人が亡くなってから、私は抜け殻のような人生を生きていました。でも、なんとか立ち直って私なりに生きてきたけど、そんな日々も、もうすぐ終わり。そう思ったら、もう一度だけ主人に会いたいなって思ったんです。そして、昔、祖母に教えてもらったまじないのことを思い出して、本を逆さまにしてるんです。他の人からしたら、馬鹿な話ですよね。」
「いえ、そんなこと思いません。会いたいと思える人がいることは、とても素晴らしいことだと思います。私にはそんな人いませんから。」
陽一郎は自分でそう言って、寂しい人生だなと改めて思った。

女性は、自分の手元にある本を眺めて言った。
「この本、私が書いたと言ったのだけど、実は私小説なんです。主人が亡くなった後に、主人との思い出を綴った本。本当は出版したかったのだけど、それは叶わなかった。」
女性は読みかけの本を閉じた。
「もし良かったら、この本を貰ってくださらない?」
女性の突然の申し出に陽一郎は驚いた。
「えっ?でも、大事な本なのですよね?ご主人との思い出を綴った大事な本を、私のような赤の他人がいただくわけには・・・。」
陽一郎が遠慮していると、女性は、「赤の他人ではないわ。」と言った。
「えっ?でも、今日初めてお会いしましたよね?」
「ええ。今日初めてお会いしたわ。でも、こうやって、話しかけていただいたのも何かの縁だと思うのです。祖母のまじないの話をしましたが、それは叶わないことだと分かっていました。それでも、まじないを実行していたのは、あなたにこの本をお渡しする為、そう思えてならないのです。」
女性の目は真剣だった。
改めて表情を見ると、太陽に照らされた女性の顔は病人のそれで、弱々しく見えた。
「よろしいのですか?」
「ええ。」
「では、頂戴します。」
陽一郎が本を受け取ると、女性は「有難うございます。」と涙声で言った。

その日以降、陽一郎が公園で女性を見かけることはなくなった。
貰った本は旅行記のようになっていて、陽一郎も知っている観光名所やグルメなどが出て来て、意外にも面白かった。
陽一郎は、本を読んだ感想を伝えたいと思い、女性を探したが、見つけることは出来なかった。

女性と話した公園のベンチに、陽一郎も座ってみた。貰った本を逆さまにして持つ。
当たり前だが、逆さまにして本が読めるわけがない。
陽一郎は、彼女と彼女の夫が、天国で会えることを祈った。

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