ニーチェと引き籠り 灰になることによって新しく甦る
ブッダは6年間苦行しました(苦行6年)。達磨大師は壁に向かって9年間座り続けました(面壁9年)。そしてツァラトゥストラは10年間、山に籠もりました。それだけ内的変化には時間がかかるのです。ですから、焦る必要はありません。
ツァラトゥストラは10年間山に籠っていましたが、飽きることなく、自らの知恵を愛し、孤独を楽しんでいました。孤独の中でも魂は充実していました。
ツァラトゥストラのように、孤独でも行動しなくても幸せになれるのです。孤独という言葉から否定的なイメージを剥がしましょう。ニーチェは孤独を讃美しています。
引き籠りは全然悪くありません。むしろエネルギーがチャージされ、別人に生まれ変わります。ツァラトゥストラは、フル充電したことで、死から復活し生まれ変わりました。廃人から太陽のようなエネルギーに満ちた存在に生まれ変わりました。
ツァラトゥストラのように完全に山に籠ることは難しいでしょうから、なるべく他者や社会と関わらないようにして生きる生き方を選んでも良いでしょう。
中島義道さんの本のタイトルに『人生を〈半分〉降りる』というものがあります。他者や社会と無理して関わる必要はありません。他者や社会に合わせるのではなく、自己の魂の欲求に合わせるのです。
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ツァラトゥストラは、三十歳になったとき、自分の故郷と故郷の湖を捨てて、山にはいった。そこでかれはおのが精神の世界に遊び、孤独をたのしんで、十年間倦むことがなかった。しかし、ついにかれの心に変化が起こった。
手塚富雄訳『ツァラトゥストラ』「ツァラトゥストラの序説」
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あのとき君は君の灰を山上に運んだ。きょうは君は君の火を谷々へ運ぼうとするのか。君は放火者の受ける罰を恐れないのか。
手塚富雄訳『ツァラトゥストラ』「ツァラトゥストラの序説」
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だが、君は君自身を君自身の炎で焼こうと思わざるをえないだろう。いったん灰になることがなくて、どうして新しく甦ることが望めよう。
手塚富雄訳『ツァラトゥストラ』「創造者の道」
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懐妊によって精神は、そして根本的には身体全体は、不可避的に深い緊張状態におちいるものだが、そのとき、偶然というもの、すなわち外部からのあらゆる刺激は、あまりにも烈しく作用し、あまりにも深く「食い入る」のである。
そういうとき、ひとは偶然を、外部からの刺激を、できるだけ避けなければならない。一種の自己籠城こそ、精神的懐妊のとるべき第一の本能的機略である。
他人の思想がひそかに城壁を乗りこえてくることを、わたしが許すだろうか?──読書とは、つまりそれを許すことではないか。──ところが労苦と出産には休養の時期がつづく。
手塚富雄訳『この人を見よ』「なぜわたしはこんなにも利発なのか3」
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