ハイデガーの「存在の問い」と形而上学の克服
1. ハイデガーの批判と「存在の問い」
ハイデガーの「存在の問い」と形而上学の克服には、西洋哲学の歴史に対する批判が背景にあります。彼は、「存在そのもの」を問うことが、形而上学の根本的な問題を乗り越える鍵であると考えました。これを理解するために、まず形而上学の伝統と、ハイデガーが批判する点を整理してみます。
2. 形而上学の伝統と存在の問い
プラトンのイデア論は、確かに「存在者」ではなく「存在そのもの」を問題にしているように見えます。イデアとは、具体的な存在者の背後にある「永遠かつ不変の本質」であり、形而上学的な存在の探求です。しかし、ハイデガーは、このプラトン的な存在の捉え方も含めて、西洋哲学が「存在そのもの」を形而上学的枠組みで理解してきたことに問題があると指摘します。
西洋哲学は、存在を「本質」として固定化し、「存在者」と「存在」を区別しました。この枠組みでは、「存在」とはあらかじめ決まったものであり、形而上学として体系化されてきました。ハイデガーにとって、これが形而上学の最大の問題であり、「存在そのもの」が十分に問われていないと考えたのです。
3. 存在の問いと形而上学の克服
ハイデガーは、プラトン以降の形而上学が「存在そのもの」を忘れ、存在を存在者の属性や定義として捉えるようになったと批判します。彼の「存在の問い」とは、存在者の本質や定義ではなく、「存在するとはどういうことか」という根源的な問いに立ち戻ることです。
形而上学は「存在者」の性質や関係を分析することに専念しましたが、ハイデガーは「存在すること自体」を再考し、存在がどのように現れ、私たちに開かれるかを問うことを重視しました。これにより、形而上学的思考を克服し、存在そのものの探求が可能だと考えました。
4. プラトンのイデア論との違い
プラトンのイデア論も存在の根源的な問題にアプローチしていますが、ハイデガーはこれを「固定化された形而上学的思考」と見なします。プラトンはイデアを永遠かつ不変の存在として捉えましたが、ハイデガーにとって「存在」とはむしろ人間の経験や歴史の中で変化し、開示されるものです。彼の「存在の問い」は、存在がどのように時間や歴史の中で開かれるかを問うものです。
5. プラトン以前の哲学者たちと存在の問い
ハイデガーは、プラトン以前の前ソクラテス哲学者(タレス、ヘラクレイトス、パルメニデスなど)に注目し、彼らの思索の中に、存在そのものへの根源的な問いを見出しました。彼らの自然(physis)を通じた世界の成り立ちや変化に対する探求は、存在のあり方に迫るものであり、ハイデガーにとって形而上学以前の純粋な「存在の問い」を表していると考えました。
6. プラトン以降の存在忘却
ハイデガーが問題視するのは、プラトンやアリストテレスの時代以降、哲学が「存在」を「存在者の本質」として理解するようになり、存在そのものが見失われたことです。プラトンのイデア論やアリストテレスの実体論により、存在は固定化され、存在そのものへの問いが覆い隠されてしまいました。
ハイデガーは、この「存在忘却」から目覚め、形而上学を克服することが、真の哲学的探求であると考えました。彼はプラトン以前の思索に回帰し、存在そのものへの問いを再開しようとしたのです。