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ニーチェとユングと錬金術師 第二の現実と二重見当識

ニーチェやユング、錬金術師は、この現実とは別に、第二の現実(第二の客観的世界)や高次の現実を見ていました。しかし、彼らは空想の世界に生きていたのではなく、しっかりと現実の世界に生きていました。けれども、もう一つの現実の世界にも生きていました。彼らは二重の現実を生きていたのです。


問題なのは、「リアリティとは何か」ということです。認知科学の世界では、物理的世界だけでなく、臨場感のある世界もリアリティとして扱っています。


荘子は「いったい荘周が蝶となった夢を見たのだろうか、それとも蝶が荘周になった夢を見ているのだろうか」と言っていますが、二重の現実を生きている人にとっては、どちらの現実もリアルなものであり、中には第二の現実の比重の方が重くなっている人もいることでしょう。ただし、「この現実」から乖離してしまわないためにも、二重見当識を意識して持つことは大切です。


ニーチェは「第二の現実」について、初期の作品である『悲劇の誕生』で語りましたが、中期の作品である『ツァラトゥストラ』の「背後世界論者」の章では二世界論を否定しています。しかし、この章で否定しているのは、プラトンのイデアの世界やキリスト教の天上の神の国です。


ニーチェは大地を愛する哲学者ですから、この大地での生や創造性を豊かにする神話や空想は肯定しましたが、この大地での生を低く見たり否定するプラトン主義や「大衆向けのプラトン主義であるキリスト教」は徹底的に否定しました。


ただし、ニーチェも『悲劇の誕生』執筆より前、かつてキリスト教徒だった頃は「背後世界論者」だったこともありました。

かつてはツァラトゥストラも、すべての背後世界論者と同じく、人間を超えた彼方に妄想を馳せた。私には当時、世界とは、苦悩し苦悶しきった神のごときものがこしらえた作品だと思われた。

私には当時、世界とは夢であり、神の作りごとだと思われた。不満をかかえた神的な存在の眼前にただよう色とりどりの煙だと思われた。

森一郎訳『ツァラトゥストラはこう言った』「背後世界論者」


参考資料

❶ ニーチェ『悲劇の誕生』

夢が仮象だというばかりでなく、私たちがその内に生きているこの現実の底に、もう一つまったく異なる第二の現実が隠されており、この現実もまた一種の仮象なのだという予感を、哲学的な人間は抱いてさえいるのである。
梅田孝太訳『悲劇の誕生』
『ニーチェ 外なき内を生きる思想』 (法政大学出版局)p48

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❷ 老松克博『共時性の深層──ユング心理学が開く霊性への扉』

ここで考えておかないといけないのは、はたしてリアリティとは何かということである。ふつうは、自我をとりまく外界、つまり日常の物質的世界がリアリティであることになっている。


それはもちろん私たちが生きていくうえで重要なのだが、ある意味では相対的なものにすぎない。人それぞれにその内容がまちまちだからである。


むしろ、誰のものでもない、万人に共通の集合的無意識の世界こそが唯一のリアリティかもしれない
「個性化とアクティヴ・イマジネーション」


真正なるイマジネーションは諸元型の働きを少なからず可視化し、それらの類心的特性ゆえに心の彼岸までも含む高次のリアリティを垣間見させてくれる。


ユング派で言うイマジネーションは空想の産物ではない。いにしえの錬金術師が「真正にして空想にあらざる想像」 imaginatio vera et non phantasticaと呼んだもの。


それは、向こうからやってくる、ほんもののリアリティである。
「個性化とアクティヴ・イマジネーション」


そして、そこでは、いわゆる二重見当識が重要になる。統合失調症の患者は、一方で頑固な妄想の世界を生きていながら、その内容とは矛盾する現実の世界にも当たり前のように適応していることがある


リアリティの捉え方が重層的になっているわけで、これを二重見当識と呼ぶ。


たとえば、一週間以内に世界が滅亡すると信じているにもかかわらず、一か月後に迫っている運転免許の更新期限をいたく気にしている、といった状態である。
「霊性の復活という課題に向けて」


錬金術師は二重見当識を持っていた。一方はこの世のリアリティ、そして他方はイマジネーションのリアリティである


彼らが重視したのは imaginatio vera et non phantastica、すなわち「真正にして空想ならざる想像」だった( Franz, 1981)。


真正なるイマジネーションこそ、この世のリアリティと並び立つ、もう一つのリアリティなのである。霊にまつわる主観的経験がはらんでいる「真正にして空想ならざる想像」を選り分けることをたいせつにしなければならない。
「霊性の復活という課題に向けて」

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❸ 高橋巖『神秘学講義』

ユングはフロイトの影響を受けた人物でしたから、フロイトの用語を使いまして、外向的な論理、つまり言語の論理をプログレッシヴ、それからこの内向的なファンタジーの論理をレグレッシヴと呼んでいます。
「レグレッシヴ」


フロイトにとって現実社会に対立するものは、快楽原則の支配する死の世界と、純粋にセックス本位の快楽の世界でした。これらが現実の対極にあるものでした。ところがユングの場合、現実に対立するものは、より高次の現実だったのです。


この世の現実の対極にフロイトの言うような快楽原則の世界があるとします。これをフロイトと共にニルヴァーナ(涅槃)と呼ぶこともできるでしょう。なぜなら、そこは永遠に甦ることのない死の世界に通じるものなのですから。


一方われわれの生きる現実世界は、フロイトにとって──彼はプログレッシヴな論理しか、現実原則を満たす論理としては、認めないわけですから──理性の世界です。


ところがユングの場合には、この現実世界を表象させているわれわれの魂の奥底に、第二の別の現実世界、いわば超現実的世界への通路がひらかれているのです。


それは形而上的世界とも、あるいは霊界とも呼びうるような世界です。つまり純物質的な世界、生命ある魂の世界の他に第三の霊的世界が存在しています。


そしてユングがこのような三つの領域を区分するとしますと、この区分はすでに神秘学の区分である、と言うことができます。


神秘学という学問は、冒頭でふれたように、われわれの魂の故郷がこの世の現実の中にはない、という前提から出発する学問です。


したがってこの世の現実ではなく、その背後にあるべき第二の現実を求め、どうしたらそれが認識可能になるか、を考えます。


そうしますと、神秘学の考え方とユングの考え方と非常に共通してくるわけです。ユングも現実世界と快楽原則の世界だけにあきたらないで、別な第二の現実の世界を求めようとしました。


しかしこれは感覚の世界と違うものですから、ユングはこの超現実の世界に向かい合うことのできるような論理をレグレッシヴな、つまり退行的な論理の中に求めたわけです。


そして彼は三十代から死ぬまで、繰り返し、繰り返し、内面への旅を続けることによって、退行的思考を自分の中で徹底的に訓練していきました。そして自分の魂の奥底にどのような仕方で未知の、第二の客観的世界があらわれてきたかを、ずっと報告していったのです。
「エロスとタナトス」

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❹ 苫米地英人『201冊目で私が一番伝えたかったこと』

リアリティの定義は認知科学以前と以後とでは、すっかり変わってしまいました。すなわち、認知科学以前は物理的世界のことをリアリティと呼んでいましたが、認知科学以後は、臨場感のある世界を指すようになりました


つまり、映画を観て、映画の世界に浸っているときは、映画の世界の方がリアリティであるということもあり得るのです。


映画の世界は現実ではなく虚構だと反駁されるかもしれませんが、認知科学の世界では臨場感の強度が高い方がリアリティとして選ばれるのです。
「I×V=R(ルー・タイスの方程式)」


空の思想とは、私たちそれぞれが自分の心を起点にして始まる宇宙を一つずつ持っているということでした。


この宇宙のすべての存在をダイナミックかつ多元的に捉え、それらすべての関係の中心に自分の心があり、自分の心がすべての存在、すべての事象を生み出しているのです。


この空の思想に立脚して世の中のすべてのことを捉える考え方を「空観」と言います。


空観では、幸せだけが幻想なわけではなく、「世の中のすべてが幻想であるとわかること」を意味していますから、私たちを不幸にするものでさえも幻想だと説きます。


このように、「すべては幻想である」ことをわかったうえで、「仮のゴール」や「仮の役割」を設定して、それを徹底的にリアルだと感じる考え方を「仮観」と言います


ただし、一般的な宗教方式では、「空観」を学ぶことは少ないのです。なぜなら、仏教以外の宗教では、この「仮」の世界を神が作った実の世界として教えるからです。


「空観」を学んで、理解したうえでの「仮観」なら、他人に自分の信じている妄想を押しつけたりはしないので何の問題もないのですが、「仮観」だけでは争いが生まれてしまいます


「仮観」だけしかない思想を、私は「実観」と呼んでいます。これは、仏教用語にはない言葉ですが、すべては幻想であるという「空観」が欠如しているということは、すなわち「仮のゴールを実在のゴールと勘違いしてしまう」状態にあるわけですから、「実観」と呼ぶのがふさわしいと思うからです。


それは、「中観」という考え方です。これは、すべての存在は幻想であるとする「空観」と、万物の相互関係性(縁起)の中における「仮のゴール(役割)」に注目する「仮観」の2つの考え方をバランス良く維持している考え方と言えます。


天台宗のような大乗仏教においては、悟りに至るプロセスとして、まず「空観」を学んだ後、次に「仮観」を学び、そして最終的に「中観」を学ぶという順番で理解を深めるようにしています。


「空観」だけでは虚無主義に陥りやすく、「仮観」だけでは対立を生みやすいため、それら二つの考えを終始繰り返しながら、両者のバランスを取った考え方である「中観」に到達しなければならない、と説いているのです。


事実、釈迦は終始一貫して「中観」を説いていました。あなたがもし本当の幸せを手に入れたければ、空観の視点に立つ「釈迦方式」でなければなりません。


しかし、その場合は、空観だけを知るのではなく、空観から仮観を経て、釈迦が終始一貫して説き続けた「中観」の境地に到達できるようにする必要があるのです。
「『中観』が幸せな世界を作り出す」

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❺ 金谷治訳注『荘子』

むかし、荘周は自分が蝶になった夢を見た。楽しく飛びまわる蝶になりきってのびのびと快適であったからであろう。自分が荘周であることを自覚しなかった。ところが 、ふと目がさめてみると、まぎれもなく荘周である。いったい荘周が蝶となった夢を見たのだろうか、それとも蝶が荘周になった夢を見ているのだろうか。荘周と蝶とは、きっと区別があるだろう。こうした移行を物化 (すなわち万物の変化)と名づけるのだ。
「胡蝶の夢」

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